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大和理念としての日本国
私は日本を限りなく愛する。私は限りなく愛国者であることを欲する。こう云う言葉は真に日本を愛しない非愛国者から僧まれるかも知れない。僧まれても好い、私は限りなく日本を愛し、日本的なるものを愛するのである。兎も角も日本国が地上にいつの時代からか存在し、神が日本人なるものを此の地上に生んだことは、何か日本国なるものや、日本民族なるものに特殊の使命が与えられているのだと考えざるを得ない。特殊だと云っても必ずしも、日本民族が他民族に優れていると云うのではない。ささやかな梅の花にも梅の花としての特殊の美しさがある。それは豊艶な桜や牡丹の花には及ばないにしても、梅の花には梅の花に許された特殊の美がある。日本民族にも日本民族に許された小さいながらも梅の花のような美があるのではなかろうか。私は、それがあることを信ずる、信ぜざるを得ない。私は、桜の花や牡丹の花を愛しないのではないが、此の小さい梅の花の雪に蔽(おお)われ、寒気と戦いながら清楚に咲き出でた其の美を限りなく愛するように、何か日本民族に許されたる日本的な美しさがあることを信じ、これを愛せざるを得ないし、愛し育てたいことを念願とするのである。
日本的なものと云えば、直ぐ人々は軍国主義的なもの、好戦的なもの、侵略的なもの、掠奪的なもの、狡滑なもの……等々とすべて悪しきものの総称が日本的なものと誤解せられ、かかる「日本的なもの」を撥無(はつむ)し、除外し、消滅せしむることが、日本人にとって必要な緊急の課題だと考えている向もあるらしい。例えば、かつて「人間」と云う雑誌に出ていた「文学者の責務」と云う座談会に於いて、荒正人と云う人が、「その日本的自我を解放しなければならぬ。それはヨーロッパ的な個人主義であっていい」と平然として云い放っていた如きはそれである。
何が日本的であるか、若し「日本的」なるものが全面的に悪しきものであるならば、それらすべてを抹殺し除去しそれらから人間を解放しなければならぬのは当然のことである。ただ敗戦のためゆえに、全面的に日本的なものが悪いと考えるような考え方は、若し日本が日清日露の両戦のように勝っていたときには、「日本的なもの」は善きものだと考える考え方であり、かかる考え方は、善悪の真理についての一貫した考え方ではなく、その時その場の現象的勝敗と云う環境に迎合する時局便乗的な考え方であって、真に善悪を定めるところの考え方ではないのである。
吾々は「日本的なもの」を肯定し、又は否定するまでに、「目本的』とは如何なるものであるか、その前提をハッキリさせて置かなければ、「日本的なもの」を排斥しても肯定しても、何を排斥するのか肯定するのか判らないことになると思う。
それでは「日本的」とは如何なることを指すのであろうか。日本人が行為したから、それは悉(ことごと)く日本的だと考えるのは愚かなことである。日本人は戦争をしたから、戦争をすることが果して「日本的」であろうか、私はこれに対して否と答える。そう云う好戦的なことを「日本的な」と云うのであるならば私は「日本的なものを限りなく愛する」とは云わぬ。私は却って、「日本的なものを限りなく排する」と云ったであろう。日本的なものを愛すると云い、排すると云い、どちらにしても、吾々は「日本的な」と云うものの中から、真に「日本的なもの」と、真個(ほんとう)は日本的ではないが誤って「日本人が犯したもの」との区別をハッキリさせて置かなければならないと思う。
日本は今開闢(かいびゃく)以来の危機に直面している。それは形骸の頽廃も重大な危機ではあるが、それは単なる肉体的危機である。それよりも一層重大なのは日本民族が、理想を失おうとしているζとであり、すべての理想を失って、ただ焼跡に蠢動(しゅんどう)する蛆虫や昆虫のように、亡国の民のみじめなる姿の中に闇から闇を追いつつ彷徨しつづけようとしているということである。形の国は崩壊しても、キリストも云ったように「我が国は此の世の国にあらず」であるからそれは重大なるものではない。最も重大なるものは、日本人であるところの、「日本に生れた人間」の内部にある理想(これこそ本当の日本の国であり、「日本的なもの」である)が崩壊すると云うことである。それが崩壊したとき、真に日本は、形の上でも魂の上でも滅びたと云うことになる。今やそれが滅びつつあるのではないか。長谷川如是閑氏がこれを評して「敗戦後も日本はまだ敗けつづけている」と云った如き状態がつづいていることである。形の上での日本の崩壊よりも尚恐ろしいのは日本の魂の崩壊であるのである。その日本の魂が、今もまだ崩壊しつづけていると云うことは何と云う悲惨なことであろうか。私は限りなき悲痛をもって慟哭せざるを得ないのである。
私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国号が過去に於いてありし如く「大和」であると云うことである。私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国旗の標識が○であるように、すべてのものと手をつないで真に丸く、円満完全に、○の中が空であるが如く、虚心無我にして、苟(いやしく)も私心を差し挿まない大調和な心と、それより発し育てられ来たった大調和の事々物々を指すのであつて、好戦的と云うこととは全く反対(うらはら)のことを指すのである。私の信念に於いては本当に「日本的なもの」即ち「大和の理念」があらわれたら、あの戦争は起らなかったに相違ないのである。今後日本が国連の一員として平和を護って行く上に最も大切なのは「大和」の理想の培養であらねばならぬ。形の世界は心の世界の反影(リフレクション)であるから、心の世界に「大和」の理念が、真に「日本的なもの」として、換言すれば、「日本本来の姿」として、確立せられなければ、形の上にも真の「平和日本」は確立せられないのである。
つづく
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
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2013年05月15日
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