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つづき 日本国憲法の背景となる哲学
愛国組織の連合体 日本国民会議における講演
(昭和四十二年)
理念の人間 (過去記事10月30日掲載)
この心の中につくられた原型を哲学的に言いますと「理念」というのであります。即ち「理念の車」が先ず霊的世界に造られて、それが天降って来て現象世界に部分品が出来て、その部分品が「理念の車」の設計通りに集められて「現実の車」が造られると云うことになるのであります。ところでこの「現実の車」(肉眼に見える車)は実際に肉眼に見え手で触れることが出来るから、非常に具体的であって確乎とした存在であるように見えているけれども、実は「理念の車」の模倣品に過ぎないのであります。「理念の車」のイミ・テーシヨンであります。ですからこれは「理念の車の影」と言ってもよいのであります。
吾々の感覚に触れて確乎として在るかの如く見えているところの現象的存在は、みなこれらは「理念」の投映せる影であって本当に在るのではないのです。「理念」のイミテーシヨンであると考えられるのであります。
本当の車は、心の世界に造られたところの霊的存在、或いは理念的存在でありまして、その理念と云うのは、真理と言っても宜しいが、永遠不減の存在であります。「現象の車」は、奚仲が車を発明して以来、何十億台の車が造られて壊されて又新たに造られたかも知れないけれども、「理念の車」は壊れることなく永遠不滅なのであります。
・ ・・・・省略
真の日本国家なるもの (過去記事10月31掲載)
車の話や人間の話を致しましたが、これは実は「日本国家は何処に在るか」と云う問題の前提として、即ち「日本国家は何処に在るか」と云う問題を明かにする為の準備としてお話申し上げたのであります。
車は、車を発明した人の心の中に在る。それが理念の車であって永遠の存在である。人間
は、人間を発明して製造した不可思議なる存在ー言い換えると神様ーの心の世界に在る。これはキリスト教でも聖書の「創世記」に、「神その像(かたち)の如くに人を創造り」と書かれているのであります。
中略・・・・
ところで日本国家は何処から来たかと云う問題であります。現実的に言いますならば、神武天皇が大和に郡を造り給いて、そして六合兼都(りくごうけんと)・八紘為宇(はっこういう)の詔勅(しょうちょく)を降し給うたあの時に、日本は建国されたのであります。
しかしながら、もっと遡(さかのぼ)りますと、日本の建国は古事記或いは日本書紀に書かれております如く、天照大神(あまてらすおおみかみ)が「豊葦原干五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫就(いましずめみまゆ)きて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝柞(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮無(きわまりな)かるべし」と詔(みことのり)を以って仰せられたあの時に始まるのであります。・・・・省略
全体が先か部分が先か (過去記事11月1日掲載)
ところでこの日本国の実相に反するところの条項が現行の日本国憲法の第一条に書かれているのであります。それは「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている箇条であります。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅(しんちょく)には「是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり」と書かれておりまして、主権が天皇に在ると云うことは、はっきり日本国の根本的在り方即ち「日本国の理念」(霊的原型)として其処(そこ)に定められているのであります。ところが現行の日本国憲法に於ては主権は国民に在ると云うことになっているのであります。此処に非常に重大な摺(す)り替えが行われているのであります。それは「部分が先か、全体が先か」と云う問題に繋がって来るのでありますが、国民と云うのは国家を構成する部分であります。それなのに「主権の存する国民」というのは部分に主権が在り、部分が相談をして国家と云う全体を其処に造ったのであると云う唯物論的立場に立って日本国憲法は書かれているのであります。
そこに根本的な間違いがあるのであります。日本のどんな歴史を見ても、或いは戦後興って来た新しい歴史家、即ち神話を抹殺する歴史家の歴史の本を読んでみても、日本の建国が、国民が相談をして「吾々国民がバラバラにいたら外国から攻めて来た時に防ぐのに都合が悪いから、一つ団結して国家を造りましょう」と、国民と云う部分が相談をして日本国を造ったと云う記録は何処にも無いのであります。
日本国なるものは、天照大神の御意の中にその国の原型即ち日本国の理念が造られて、その理念の日本国が天降って来て、その理念の投影として具体的な部分が集り、其処に理念日本国の影なる現象日本国と云うものが顕れて来ているのであります。ですから全体が先でありまして、部分は後から全体の設計に従って集められたのであり、これが日本国の存在の根本的在り方なのであります。
しかしこれは日本国の存在だけの問題ではないのでありまして、有りとあらゆるものは先ず心の世界に造られて、その姿の模倣として現実界のものは姿を現わしていると云うことになっているのであります。この国会の議員会館でも、やはり建築家の心の中に先ず完全に其の全体の姿が描かれた。全体が先であります。そしてその建築家の心の中の議員会館の建物の姿が因になってセメントだとか鉄材であるとか木材であるとか、いろいろの部分が最初に造られた全体の設計の模倣をして、現実化して出来たものである訳です。
省略
つづく
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
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