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天皇には基本人権も選挙権もない、象徴とはシルシ、符号であり人間ではないのである。
 
憲法復元か、革命か
 
象徴としての天皇の虚位について(過去記事128日掲載)
 
占領憲法は元首でない天皇、主権のない天皇、いつでも"主権をもつ国民“から馘首(かくしゅ)されても仕方のない虚位の天皇をつくったのである主権が全国民にあるのだから、多頭国家ができあがったわけである。八岐大蛇(やまたのおろち)によって占領された恰好である。天皇は元首でないから、私が『憲法の正しい理解』の中で指摘しておいたように、「国賓を迎えられた場合、自衛隊の儀仗兵(ぎじょうへい)を閲兵する資格がないから国賓が閲兵する間だけ、天皇はそっと片隅へ避けてしょんぼり立っておられる」と、武藤貞一氏も、「お気の毒で正視に堪えぬ有様である」と評しているのである。
 
天皇に主権がなくなったために、誰に主権があるかというと、国民のすべてに主権があるというわけであるが、実際は、国民は代議士を選挙のときに一票を投ずる権利があるというだけが民主主義というわけであるが、天皇には、一票を投ずることすら許されないのである。天皇には基本人権もなければ、選挙権も被選挙権もないのであり一般国民には自分の名誉を穀損するような虚偽のことでも書かれれば名誉駿損で訴えることもできるが、天皇は悪口を書かれても、天皇は名誉段損で訴訟する権利もないのである。象徴というものはシルシであり、符号であり、人間ではないからである。
 
 
天皇に大権を奉還すべし(過去記事1月28日掲載)
 
天皇が「国家統治の大権」を一時喪(うしな)われたのは、天皇の発意(ほつい)ではなく、占領の圧力によって、占領軍の威圧による命令によって占領憲法が施行せられた結果である。だから、占領が終了すれば、「国家統治の大権」は自然に天皇に還って来るべきはずのものであるところが、占領のドサクサによって、占領軍からもらった「国家統治の大権」を天皇に奉還することを怠ってそれをよいことにして「国家統治の大権」を僭越(せんえつ)にも壟断(ろうだん)しているのが、日本国の総理大臣閣下である。日本の総理大臣が、占領軍から貰った「日本国家統治の大権」を天皇陛下にお返し申し上げないということは何たる不忠の事であろうか。だから、私は『占領憲法下の日本』の最後の章にも、よろしく自民党政府は、国家統治の大権を天皇に奉還し奉るように慫(すす)めておいたのであるが、何の反応も得られないのはまことに残念なことである。
 
 
なぜ、総理は大政を奉還しないか、その分析
(過去記事1月29日掲載)
 
天皇に大政を奉還すべしと私が説くと、"もと皇族"とかいう匿名の人から投書をいただいたが、それには、「現在の状態で天皇は、何の責任もなく、気楽であって、この天皇に再び国家統治の責任を負わし奉ることはかえって不忠のことである。現在の象徴天皇がもっともよろしいという意味のことが書いてあった。しかし私が考えるのに、男子いやしくも此の世に生まれて、何の責任もなく、皆の決めたことに、自分の意見を述べる権利もなくただ判を押させられる役などになっていて、はたして生き甲斐が感じられるであろうか。何の仕事も責任も与えられないで、裕(ゆた)かに生活をする保障だけを与えられているものを、或る人は「飼い殺し」と名づけていた。誰でも平杜員から係長になり、課長となり、部長となり、重役となり、杜長となるべく努力をつづけているのは、一層責任のある地位について男の生き甲斐を感じたいからではないか。そして日本の総理大臣が占領軍から貰った国家統治の大権を、占領が終ってからも天皇に奉還したがらないのは、精神分析的に観れば、やっぱり、男子いやしくも此の世にうまれて、国家統治の責任という最も大なる責任を担い続けていることが、どんなに気持がいいことかしれない気持があるからではないか。
 
つづく
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
特集 なぜ憲法をかえなければならないか
 
憲法復元か、革命か
昭和四十四年
 
 
日本にも愛国者はまだいるのだ(過去記事122日掲載)

日本にはやはりまだ愛国者はたくさんいるのである。
・・・中略・・・・
この力を互いに結集し、一つの運動体系にまとめあげて行くことにするならば、この日本の危機も無事切り抜けて、さらに、大日本帝国憲法を実際に、復元することができるに相違ないのである。

武藤貞一氏は「改憲か革命か二者択一のせとぎわ」というのを最近「動向」誌の特集号として出されたが、烈々たる愛国の至情に燃えていることを感ずるのである。武藤氏は次のじとく述べている。「"日本国憲法"即ち米国製憲法が、平たくいうといよいよ日本の命取りとなって来た。いまわれわれを拘束している占領憲法が、われわれの日本を崩壊へ追い込む万悪の因であり、その呪縛(じゆばく)から脱け出さない限り、日本は助からないこれは、もはや心ある人々のだれもが一様に痛感するところであろう」

・・・・省略・・・

日本を自然に自滅させる目的の憲法(過去記事123日掲載)

武藤貞一氏はいう。「もともと日本破壊の目的をもったこの占領憲法を護ってゆく限り日本は助からない名は自由主義、民主主義だが、その実、恐るべき勢いで培養され繁殖されて来たものは共産主義ではないか……日本を共産革命の危機から、いま直ちに救い出さねば手遅れになる。それにはただ一事、米製憲法を廃棄し、改めて新憲法をつくることである。改憲こそが、革命暴カに立ち向かう唯一の方法であり、われわれは勇気をもって、改憲を断行するか、それとも革命勢カに道を譲るかの二者択一の関頭に立たされている」こういって今の憲法下では、諸君の知っている通り、裁判所の判事が革命勢カに味方していることを次のごとく武藤氏は指摘するのである。
 
「ゲバルターも裁判にかかると無罪になる。駅の構内を持兇器暴徒集団で埋めても、これを規制すると過剰警傭となる。憲法の"表現の自由“を侵すからだ。殺人も、時には判事の判決次第で無罪とされ、おまけに国家は多額の賠償金を殺人犯に支払わされるが、殺された方は殺され損だ。砂川裁判のように一地方判事が平気で自衛隊違憲の判決を下す。東大講堂の攻防戦には一万八干の機動隊出動。学生の暴状はテレビの映像で万人がまざまざと見せつけられているのに、この学生暴徒が一人として退学処分を受けず、犬学粉砕を叫ぶものを依然大学に止めて国家が莫大な税金を投じている……」
 
「新日本春秋」は旬刊五の日発行の愛国新聞であるが、われわれと同様に、その言論は、単に改憲ではなく明治憲法への復元を目標としている崇高なる精神に貫かれている。その四十四年五月十五日号の第一面杜説はまさにわれわれが言わんと欲するところを、きわめて端的にまとめているので、その一部を次に引用してわれわれと同じ憂国愛国の士がここにもあるのであって、吾々だけが明治憲法復元を説いているのではないことを知っていただきたい。
・・・・中略・・・・
 
― 占領憲法の弊害かくの如し ―
 
独立後十有七年の今年も、占領軍によって粗製濫造された「占領憲法」の記念日があり、そして「反米・反安保」を革命の突破口とする杜会党(今の民主党)一連の左翼勢カが例のごとく「占領憲法擁護」を呼びかけた。矛眉だらけの日本の現状をもっとも象徴的に見せつける一焦点である。
・・・・中略・・・・
 
組織の違法デモスト闘争の場合と同様に、「裁判がアテにならない」という大きな「陥し穴」がある。国家の統制カ、国家の権威を極度に罪悪視した「日本弱体化のための占領憲法」は反国家活動を助長するばかりでなく、杜会的には百弊万悪の根源となり、「公共の福祉」よりも「組織の利害、個人の権利」を優先せしめ、公共の福祉を最小限度に保持せんとする一切の法令も「違憲」の一語によってしりぞけられ、しばしば公共企業体の違法ストに無罪の「反公共的判決」があり、甚だしきは兇悪犯人の精神異常を理由に、拘置期間中の国家補償請求を正当とする没常識の判決まで現われた。世の乱れは当然であろう。
 
まことに要領よく、占領憲法の弊害を衝いているのである。
 
 
憲法の本質はいかにあるべきか(過去記事123日掲載)
 
「新日本春秋」の杜説は続いて、憲法の本質たるべきものについて次のごとく説くのである。まことに憲法は国家の基本憲章であり、その正否は国家・民族の運命を左右する死活のカギである。そしてまた、いかなる憲法の下にあっても、国家は憲法以前の儼然たる存在であり、その運用は歴史と伝統に基いて峻厳、慎重であらねばならぬ。明治憲法の下における道義日本の統一と国運の興隆発展、そして昭和敗戦のあとには深い教訓と啓示がある。明治憲法への復元を救国打開の目標とするとともに、その歴史的反省は当面する諾懸案の解決にも為政者の姿勢を正し、信念を鼓舞するために必須の心構えというべきであろう。
・・・・中略・・・
 
それは、日本民族の創造せる最も偉大なる文化的芸術作品であって、他の国の建国の歴史的イデオロギーであるマルキシズムや、民主主義や、共産主義をもって置き換えることのできないものであり、それを強制的に置き換えられたときその国は、すでに本来のその国ではなく、植民地国家となったのである。日本国は、アメリカ軍の日本を守る基地を日本の諸方にもっているから殖民地なのではなく、建国の個性ある精神の顕現たる歴史と伝統を表現する国家及び国民のあり方を表現する大日本帝国憲法を廃せしめられて、他国のイデオロギーで綴られた占領憲法を押しつけられ、もって、日本国家の個性と伝統とを埋没してしまったとき、日本国家は自己の精神を失って植民地国家となったのである。われわれがこの植民地的状態を脱する道は、日本を守ってくれているアメリカ軍に撤退してもらうことよりも先に、日本の精神を埋没してその上に植えつけた占領憲法を廃棄し、日本独自の明治憲法に復帰することなのである日本の精神の復元こそ個性ある国家独立の復元ではないか。
 
・・・・中略・・・・
 
― 天皇親臨の下に審議九ヵ月、起草に四年を要した明治憲法 ―
 
明治十七年三月明治天皇は伊藤博文に憲法起草を命ぜられ、爾来四年間、伊藤公の下に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の三俊英が調査、起草に肝胆(かんたん)を砕き、二十一年四月漸く草案完成、直ちに枢密院が創設されて同年五月八目より憲法草案審議の御前会議が開かれ、
・・・・中略・・・・
 
日本自由主義研究所発行の旬刊新聞「国民の声」五月十五日号の杜説にも、いま日本に起こっている諸悪の根源は、この占領憲法とそれに基いて日本教育を牛じっている日教組の教育方針にあることを次のごとく述べているのである。日本国内の諸悪の根源は占領憲法にある
 
いまの日本に生起しているもろもろの奇現象と怪現象、それに、悲しむべきもろもろの諾悪の成因は、主として新憲法と日教組による日本教育の壟断(ろうだん)である。この事実は、科学者の冷静さとその狂いのない分析をもってすれば、きわめて容易につきとめることが出来るはずだ。
・・・・中略・・・・
 
もともとこの憲法が、占領軍によって日本弱体化の主要な武器として押しつけられたことは説明するまでもない。共産党や社会党などの左翼独裁勢力が、この憲法を暫定的に(?)金科玉条(きんかぎょくじょう)として堅持しているのもその点に理由がある。日本を弱体化して混乱激成し、一挙にめざす革命に導くのにこれほど便利ものはない。かれらは口を開けば“護憲”を言うが、それはここ当分、この憲法を利用したいからに過ぎぬ。もしかりに、めざす革命に成功すれば・かれらは弊履(へいり)のごとくこれを捨て去るのである。事実は、真ツ赤ないつわりの“護憲"なのだ。
 
つづく
 
 
                                           谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
特集 なぜ憲法をかえなければならないか!
 
現行日本国憲法前文の非真理性
 
はたして"人類普遍の原理"がこの憲法にあるか
(過去記事1月18日掲載)

ところで、新憲法の前文には「人類普遍の原理」に基づいてこの憲法が制定されたものであると宣言されているのであるが、この憲法に盛られているいわゆる"民主主義の原理"がはたして「人類普遍の原理」であろうかはなはだ疑わしいと言わなければならないのである。
この現行憲法に盛られてあるいわゆる"民主主義の原理"なるものは唯物論であり、素粒子がすべてに先行して、それが結合して分子となり、さらに分子が結合して有機体となるように、事物の組成分たる構成単位が主権をもつという考え方である。そのような唯物論を国家にあてはめて、国家の構成単位であるところの国民ひとりひとりに主権があると定めているのであるから、国家の部分としての国民が幸福(この憲法では唯物論的な肉体的快楽を国民の幸福という)であれば国家はどうでもよいというように定めてある憲法なのである。そこで国家を衛(まも)る自衛隊の存在も憲法違反だとして法廷で抗争できるような憲法になっているのである。

『無門關』第八則の"奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の"公案の如く、車をバラバラに部分品に分解して、""はどこにあるかと探しても、""は見つからないと同じように、国家を国家の形成部分要素たる国民にバラバラに分解して、国民に主権をもたしたら"国家"は見つからなくなる"国家"が見つからなかったら"愛国心"はなくなる。現に日本国民の"愛国心"は非常に衰退しつつあって、テレビの街頭録音で、あらゆる階層の日本国民に「あなたは国家と家庭とどちらが大切に思いますか」という質問をしたのに対する回答を聴いていたら、回答者の八〇%は「国家よりも家庭を大切に思う」と答えたのに驚いたのであった。
・・・・省略・・・
 
国家は生命である(過去記事1月19日掲載)

そのように考えてくるならば、国家という有機的生命体も、単位要素を結合して、国家をして「国家」という生命体とならしめるためには、単に"国民"ひとりひとりという単位要素が勝手気儘(きまま)に自主権をバラバラに主張して、寄合所帯(よりあいじょたい)を形成するだけでは不可能なのである。バラがバラの花を咲かせ、藤が藤の花を咲かせるためには、養分とか肥料とかいう単位要素が、ただ無定見にあつめられるだけではその個性ある花の形が成り立たないのであって、その養分とか肥料とかの単位分子を、バラの花の理念が優先してバラの花の形にそれを配列したとき、バラの花が咲くのであり、藤の花の理念が優先して、養分とか肥料とかの単位分子を藤の花の形に配列したとき、藤の花が咲くのである。生命体の形成には「理念」が単位分子に先行し、「理念」が単位要素を支配して、これを個性ある形に形成しなければならないのである。それゆえに「生命体である国家」も、国家形成の単位要素たる国民(民族個人)に先行して、その国それぞれの特徴ある国家理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられて、それぞれの特徴ある国家形態が成立するのである。
 
 
アメリカ合衆国にはその国旗(星条旗)によって象徴せられているような民主主義国家理念が、民衆合衆の姿に国民をあつめて、合衆国特有の国家形態を成しているのである。ソ連国家はその国旗(鎚(つち)と鎌(かま))が象徴するような労農階級が主導者となる国家理念によって、国民が統合せられているのである。日本はその国旗の"日の丸"が象徴するような、ただ日の大神を中心にして国旗の全領域が無色無心にその栄光を仰ぎ見るような国家理念によって国民が統合せられているのである。

ソ連の国家理念を合衆国に持ってくることが不穏当であるのと同じく、合衆国の国家理念をソ連にもってくることも妥当を欠くのであるが、(ここには人類普遍の原理などはない)現行の日本国憲法は、アメリカの民主主義国家理念にソ連の社会主義国家理念を少しばかり混入てソ連にも多少満足させて沈黙させておくための鵺(ぬえ)的理念で"国民主権"という国家形成の単位要素に主権ありと定めた憲法を押しつけたのであるから、天皇が存在しながら、主権は天皇になく、国民にあり、天皇は基本人権すらないただの象徴(シルシ)という奇々怪々(ききかいかい)な文章をもって始まっているのである。おのおのの国家にはおのおの異なる個性ある国家理念があるべきなのに、アメリカ式民主主義に、チョッピリ、ソ連的社会主義的なものを加えた国家理念を押しつけて、これを「人類普遍の原理」であると誇称(こしょう)するのである。まことに驚き入った押しつけであるのである。
 
この憲法に基づいて、日本固有の""の美俗は廃止せられ、親孝行の必要はなく老人は社会保障制度で養い、教師は"言うまでもなく労働者"となり、生徒は教師を月謝で養っているのだと考え、大学生はストライキをする。これが人類普遍の原理であろうか。

国家形成に各国別々の理念がなく「人類普遍の原理」とやらいうもので共通されうるものならばどうして自由主義国家アメリカと、共産主義国家"中共"とが、そのイデオロギーの相異によって争ったり闘ったりしなければならないのか。それは、国家形成の理念には「人類普遍の原理」などというものは存在しないからこそ、そして互いに自国の国家理念を他国に押しつけようとするからこそ、そこに戦争が起こるのである。
 
だから現行憲法の前文にあるところの「ここに主権が国民に存することを宣言し……これは人類普遍の原理であり」などということはアメリカが勝手に、自国の国家形成の理念に、ソ連の国家形成の階級闘争理念をチヨツピリ混じたものを、「人類普遍の原理」だなどともったいぶって押しつけたのであり、それが非真理性のものであることは明らかなことなのである
 
 
日本国家形成の理念はいかなるものか
(過去記事1月20日掲載)
 
・・・・省略・・・・
「上は則ち天津神の国を授け給いし徳に答え」という建国の根元にわれらは注意しなければならないのである日本国は「人間立国」の国ではなくて、「神より統治の大権を天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子々孫々たる天皇に下し給うた」という「理念」具体化が現実の日本国としてあらわれているのである。
この理念が「大日本帝国憲法」(旧憲法)の第一条「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として明確に表現せられているのである。
・・・・中略・・・・
 
ここに注意すべきは、「國家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗二承ケ」とあることおよび「子孫タル者ヲシテ永遠二循行スル所ヲ知ラシム」とあることであって、この憲法は永遠に子孫に循行せしめなければならないししかも、その根本精神たる国家統治の大権は皇祖天照大御神および皇宗すなわち祖先歴代の天皇を通してそれを継承したところのものであって、この憲法の大精神は天皇の後嗣者および臣民および臣民の子孫たる者をして永遠に循行せしむべきものであると定められているのである。
 
「循行」とは命(みことのり)のままに循(したが)い奉って実行することである。この憲法の根本精神は「永遠二循行スル所ヲ知ラシ」めるのであるから、憲法改正のことを定めた帝国憲法の第七十三条「將來此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ」があるにしても、その条項改正には、おのずから制約があるべきであって日本の「国家理念そのものや「建園の根本精神」たる「國家統治ノ大權ハ…之ヲ祖宗二承ケ」ということまで改定することを意味せずして、足りない条項を加えるとか、条項の文章が不適当であるのを改正するとかいうような或る限定範囲があるはずであるので、無制限の改正または、全然の書き改めを意味するのではないことは明らかであるのである。だから、帝国憲法のその第七十三条の改正条項に従って現行の憲法が合理的に制定せられたというのは一種の詭弁であり、偽装にすぎないのである。
・・・・中略・・・・
 
日本国民にとっては帝国憲法を「改正する必要」などはなかったのである。占領軍にとっては「日本弱体化のために」"改正の必要。があったかもしれないけれども、日本国の憲法を定める当事者たる日本国民には"改正の必要。などはなかったのであるから、この七十三条の「改正スルノ必要アルトキハ……」の改正条項にはあてはまらないのである。
・・・・中略・・・・・
 
だから日本民主化のために帝国憲法を改正するの必要はないのに、この改正条項に従って改正したと呼称するところに偽りがあり偽装があり、不合理があり、虚妄があるのであるから、この七十三条によつて改正したと称する現行の憲法は、法理論上から無効なのでありそれは帝国憲法に対しては違憲の大罪を強行したのであり、単にそれは占領軍の占領行政遂行の便宜上設けられた基本法であるから、占領終了と同時にそれは失効してしまっていて、すでに帝國憲法が事実上復元しているはずなのである
 
ただこの大事実を認めて宣言し、天皇に助言して、それを公布せしめる勇敢にして真理に忠実なる総理大臣の出現を私は待ちのぞむばかりである。以上の理由によって私はどこまでも、現行の憲法は、帝国憲法に対する違憲によって生まれた奇型児であるから本来無効であると主張するのである。
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
特集 なぜ憲法をかえなければならないか!
 
現行日本国憲法前文の非真理性
 
はたして現行の憲法は日本に適する憲法か
(過去記事1月15、16日掲載)
 
現行の日本国憲法は平和憲法であり、人類の平和理想を憲法上に完全に具体化した基本法でこんな憲法は世界のどの国にもない立派な憲法だから、ぜひともこれをいつまでも日本国の憲法として護祷したいという革新系の人もあるのである。しかしまた、この憲法は占領軍が日本を弱体化する目的をもって日本政府に押しつけた憲法だからぜひとも白主的憲法に改めなければならないという国粋的愛国精神の人もあるのである。
 
また賛成論者の中には、それは押しつけであっても中味がよければそれでよいではないかという人もあるのである。でははたしてこの憲法の中味はよいであろうか、それを考えてみたいと思うのである
 
この憲法がいかなるものであるかは、憲法の前文がまずそれを説明しているので、今回はまずそれを検討するために、日本国憲法の前文を次に掲げて皆さんと一緒に考えてみたいと思うのである。
 
「日本国民は、正當に選挙きれた國會における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす恵澤を確保し、政府の行爲によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
・・・・中略・・・・
 
以上で日本国憲法の前文は終わっているのであるが、この前文の特徴をなすものは、敗戦国民が、戦勝国に対して、「今まで私たちは悪いことをして来ました、今後一切あのようなことは致しませんということを誓います」という「あやまり証文」の文体および語調をもっていることである。これで、この憲法が、この国の国民が自主的に定めた憲法であるといえるであろうかということである。
 
この憲法前文は言う。「日本國民は……平和を愛する諾國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と。これを意訳するならば、「日本国民は、あなたがた戦勝国民はみな公正で信義に篤(あつ)い国民であると信じます。いけなかったのは日本国民だけです。今後われわれは、みなさん列国民がわれわれに公正で信義ある扱いをしてくださることを信じて、自分の安全と生存とを自分の力で保とうとは思わないで皆さんにお委(まか)せしようと決心しました」という意味になるのである。
 
私はこの憲法の前文を読むたびごとに悲しくなって泣きだしたくなるのである。「自分の安全も生存も自主的に自分で護(まも)る権利を放棄します。自分の生存を保持することすら、平和を愛するあなたがた諾国民の公正と信義におまかせします」というのである。
 
一国の憲法に、このような卑屈な言葉の表現があってよいものだろうか国民の決意なら決意で、もっと自主的な決意があってよいはずなのに、「今まで自分の国は悪うございました。それで今後は自分で自分の生存をも護りません。皆様のあなたまかせにいたします」とあるのである。このような文章は強圧者の前にひたすら処刑をまぬかれるために憐れみを請(こ)う気持でなければ書けぬ文章なのである。
 
 
各国のお慈悲にすがる告白文(過去記事1月17日掲載)


さてその「あなた委せ」にひたすら、「そのお慈悲にたよって生存いたします」と日本国民が誓うところのその相手国である諸国民がそんなに公正で信義ある国民だろうか
・・・・中略・・・
 
「戦争を廃絶する道は戦争によるほかはない」と隣国に分裂内戦の火をつけるだけではなく、コンゴやインドネシアに革命内戦の火をつけ、これは失敗したが、現にベトナムを南北に分裂させて、同一民族を互いに戦わせて、"漁夫の利"を得ようとしている隣国が現にいるのに、「平和を愛する諸国民の公正と信義とに信頼する」という決意によって起草されたこの憲法全体は、すでに事実と相違するところの死法にすぎないのではないだろうか
このような不合理な憲法を「自分の生存の保持も安全もあなたまかせに いたします」とお辞儀をして受諾したのは、広島や長崎に、人類がいまだ経験したことのない原爆による巨大なる被害を受け、その上、占領軍が上陸して来て、「占領軍の言いなりになるほかない、どんな抵抗をする力もわれわれにはないのだ」と、国民が虚脱状態になっているとき、「このアメリカ製憲法を受諾しなければ"天皇の人体〃(person of Emperor という語を使ったという) もどうなるか分からぬ」と占領軍におどかされて、ひたすら、占領軍の“打首の剣(つるぎ)〃の下におののいていたのが当時の日本国民の現状であったのだ。こうして、一方では天皇を打首にするかも知れぬと"不可視の剣"をふり上げながら、「しかし一国の憲法はその国の国民が定めるのであるから自分でよく考えて、このアメリカ草案の憲法に基づいて日本国憲法を改正するかどうか、ちょっとお庭を二十分間ほど散歩してくるからその間に考えて返事をしなさい」といってホィットニー准将は散歩に出ていったというのである。

これでは、ちょうど強盗がピストルで一方でおどしながら、「お前の家の財産はお前が渡すか渡さぬかきめるものであって、決して俺が強制して定めるものでない。それはお前の自由意志が定めるのだ。しかし俺の勧告に従って金を出さねば、このピストルの弾がお前の脳天を貫くかもしれない。しかしその決定権はお前にある。俺はただ勧告するだけだ」というようなものなのである。これが"勧告"と偽称する 恐るべき恐喝(きょうかつ)でなくて何であろうか
 
つづく
 
谷口雅春著「私の日本憲法論」
 
 
特集 なぜ憲法をえなければならないか
 
憲法について知らねばならぬこと
 
明治憲法の自動的復原(過去記事111日掲載) 
 
兎も角、以上述べたところで明かであるように、占領憲法は色々の理由によって無効であることは明かである。
・・・・中略・・・・
 
この復原の可能については、井上孚麿氏は次のように述べているのである。
「占領の実情に鑑(かんが)みて全面無効説を採るにせよ、その実情に目を閉じて一時的部分的有効説を採るにせよ、占領終了と共に、日本国憲法が失効消滅し、帝国憲法が全面的に発効復活すべきことに変りはない。これは格段なる人為の認定を待つことなく、占領終了という期間の到来につれて、自動的に行われるものである。人間の役割は、ただこれを自覚し確認し顕彰し、その他これに即応して適当なる措置を執るだけのことである。
・・・・省略・・・・
 
法理の筋を通すのが法秩序の根本である
(過去記事111日掲載) 
 
現行憲法擁護論者の中には往々に新旧憲法を比較して、「その制定が違法であろうとなかろうと、新憲法は戦争を放棄してある平和憲法だからそれを保存すべきである」と説く人があるのであるが、井上孚麿氏は「このこと(占領終了後に、旧憲法の自然的復活)は新旧両法の内容の優劣長短とか、問題処理の難易、得失とか、殊にはこれらに対する愛僧好悪とかいうような比較計量取捨選択には関わりなく、当然かくあるべく、かくなくてはならぬ事物自然の法則である。帝国憲法が優秀であり、日本国憲法が劣悪であるからという理由によって、帝国憲法の復原が要求せられるのでもなく、新憲法の内容が優っており、帝国憲法の内容が劣っておるにしても、復原が拒否せらるべきものではない…」と言って、憲法復原は便宜上でもなければ愛憎好悪の問題でもなくして、法秩序の必然の帰趨(きすう)を示すことによって、当然、無効なるものが無効となり、本来有効なる帝国憲法がその有効なる実(じつ)をあらわすのであり、便宜主義にながれず、どこまでも法理の筋を通すことによってのみ法の権威が示されるのだと説いており、まことに、私が従来、明治憲法復原論を説いて来たものを、法理論上から堂々と説いていられるので嬉しいきわみである。
 
 
憲法復原の実施は如何にすべきか(過去記事112日掲載) 
 
法理は法理として、それでは、憲法復原を実施するのに如何にすべきかの問題があるのである。現行憲法が果して無効であるとするならば、無効なるその憲法下において行われたところの諸種の法的行為は果して有効か、無効か、その変転に関しての混乱、また無効を宣言する場合、何人が為すべきか等の複雑な問題を生ずる。私は鳩山一郎氏(元民主党の鳩山首相の祖父)が首相在任中、鳩山首相自身の明断によって、占領憲法の占領終了と共に無効となること、従ってまた、明治憲法の復活すべきことを宣言するよう建言したのであったが、井上孚麿氏はこの手続を「占領憲法の無効確認」を行えばよいのだという風に書いている
 
 
憲法復原の宣言者は天皇が最適なリとの説
(過去記事113日掲載) 
 
占領憲法がたとい、本来無効なるものであるとしても、「各人勝手に自己の所信のままに、無効の現行憲法に従うことをやめて、これに背反し、これを蹂躙してよい」ということになれば、「国を挙げて収拾すべからざる無政府的混乱に陥る外はない」「その手段は何かといえば、先ず公の権威による無効の確認が必要とせられる。この確認によって、初めて無効の法が無効となり、正当の憲法が正当の地位に復帰することになる」と井上氏は言うのである。ではその「公の権威」とは誰をもって権威の代表となすべきかと言えば、井上氏は、
 
「かかる無効確認を為すべき公の権威者は単なる立法府とか行政府とか裁判所とか、凡そ他と互角に対立するようなものでなくして、一切の対立を絶し、一切を超越する至尊者を要することになるのである…日本では、実質的にかかる権威者がある。しかもそれがそのまま成文憲法の文面にも現れておる。帝国憲法は勿論であるが、日本国憲法の第一条の規定にも残されておる。憲法の無効確認者が天皇にして天皇に限られていることはいうまでもない」と言っている。
 
 
憲法無効確認後の諸問題(過去記事1月13日掲載) 
 
理論的にはそうであり、帝国憲法は欽定憲法であり発議者が天皇であるのは勿論であるが、日本国憲法も帝国憲法七十三条の規定をもってそれが改正せられた形をもっているのであるから、その無効宣言も天皇が為されるべきものではある。併し、そのような形をとるということは、天皇が自由に恣意(しい)をもってほしいままに憲法を改廃する専制君主の如き観念を国民に与えるおそれがあるので、私は鳩山首相に首相みずから「日本国憲法の無効、帝国憲法の復原」を建言したのであった。ところが、井上氏もこの問題にも触れていて、「天皇には常に輔翼機関が随伴するのであって、その輔翼機関をして無効確認を行わしめると、事態を円滑に処理できるであろう」意味のことを述べている。ところでその無効確認を行う天皇の輔翼機関とは一体誰であるか。現行の日本国憲法は無効であるから、無効なる憲法の下に成立している輔翼機関が、現行憲法無効確認を行い得る実権を有するであろうかという疑間が生ずるのである。井上氏はこれに対して、「本来無効のものであるに拘らず、差当り、実定法の世界に於て有効の推定を受くべき地位にあるものは、現行憲法下に於ける諸機関であり」「これまで無効の法を無効とも知らずに迂闊(うかつ)に過して来たことを詫び無効を無効と見るの聡明と、これを確認する勇気とをもって、無効者が無効なりと自己確認することにすればよいのだ」という意味(意味というのは、その通りの文章ではない)のことを述べているのである。つまり輔翼大臣が無効を確認し、無効宣言の詔書煥発を天皇に奏請し、その詔書に輔翼大臣が副署すればよい訳である。
 
 
自然に復原するのだから国会の審議は不要である 昭和34
(過去記事1月14日掲載) 
 
 
しかし井上氏は、天皇の輔翼機関に「政府国会」の四字を用いているが、国会で無効確認を審議することになると、現在の国会では杜会党の勢カが強過ぎ「現行憲法擁護全国共同闘争」などを行って、「帝国憲法復原の詔書換発までに国内に大騒擾(だいそうじょう) を惹起(ひきおこ)すおそれ」がある。
 
ところが現在の民主憲法は「占領状態に奉仕するために時節随順の仮憲法」に過ぎないのであるから、明治憲法復活の時節到来の「今」であるから、国会の審議など行う必要はなく、(審議によって出来た憲法は欽定憲法でなく民定憲法となる)欽定憲法の復活の性質上、国会審議不要であり、輔翼大臣だけが「日本国憲法無効、帝国憲法復帰の詔書換発」を奏請すればよいと思う。
 
井上氏はあれほど理路整然と、現行憲法の無効論を説きながら、現在の国内状勢を鑑みて それを実現するのは中々むっかしいと悲観的なことを述べているが、それは国会審議などを考えているからではなかろうか。無論、「明治憲法復帰宣言」に先立って、現行憲法が何故無効であるかを国民に充分 PRしておくことはその「復帰宣言」にともなう国内の騒擾をふせぐのに有効である。私がこの稿を書いたのも、そのPRの一端としたい念願からである。また実際それを宣言してみれば、天皇の御徳のゆえに、案ずるよりも産むがやすく国民の大多数は歓呼の声を挙げて喜び、祝賀の堤燈(ちょうちん)行列などもやり兼ねないと思われる。
 
私が憲法復原を願うのは井上孚麿氏のように単に法理論上から言うのではなく現行憲法が占領軍の日本弱体化政策上つくられたものであるから、この憲法を楯にして、どんな法律や条例でも憲法違反として無効の判決を下し得るからであるその実例は既に、砂川事件の判決や、全学連幹部の東京都条例違反などにも、安保条約や都条例そのものが憲法違反だというので、無効の判決がでているのである。
 
現行憲法には日本弱体化の政策として根本的に「集会、結杜及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となつているので、どんな大仕掛の集会(暴動的な大衆行進でもどんなエロ行為の映画上映)でもそれを禁止すれば、それは違憲として無効の訴訟が出来、裁判官が「赤」であれば、どんな日本破壊行為をも止めることができないからである。
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 

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