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憲法をなぜかえなければならないか!
神社の本質と国家宗教
神社そのものと奉斎会とを混同してはならない
私はこの前の“月曜随想”で靖国神社を法人とせず、天皇おんみずからが「信教の自由」の原則に基いて御親祭をあそばすところの神社とするのが最も適切であるという意見を述べたのである。だいたい神社というものを法人にすること自体が間違いなのであって、(また宗教団体でもない)それは現行の宗教法人法が、霊、の存在を無視して、宗教というものを一種の企業としてみとめているから、神社というものをも宗教法人としてしまったのである。 神社と宗教法人とは別個の存在であることを明らかにしなければ、神社に対する正しい扱い方はできないのである。 神社は、神の宮、であり、「神霊の鎮まります御座所」であるのである。その御座所は無論、人間が建造したものであるが、それを人間が建造して神霊の御座所、として神霊に奉献した以上は、神社建物(神の宮)の所有権は、神霊、御自身が持ち給うのである。その神社、なるものの持主(所有権者)は神霊であらせられるから、人間が法律をつくって、これを「宗教法人」として届出でて、人間の文部省がこれを「宗教法人」として認証するなどということは、滑稽な論理の矛盾であって、文部省乃至政府はなすべからざることをしたのである。従って、よろしく文部省又は政府は、靖国神社を「宗教法人」として認証したことが間違いであったと、その認証を取消すべきであるのである。 もし靖国神社を「宗教法人」または「宗教団体」として認めていることを取消さないままで、自民党が国会への議案として提出すべく計画しているような「靖国神社法案」を国会で審議しようとするならば、それは直ちに現行憲法第二十条の
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」という条項に抵触することになるのである。「政治上の権力」とは立法・行政・司法の三権を含むのであるが、議会において、宗教団体または宗教法人を規制する法案を審議することは「立法」であって、この立法府(議会)において審議することが宗教団体に対して「政治上の権力」を行使することになるのであるから、靖国神社が宗教法人として文部省が認証している以上は、これに関する法案を国会で審議することそのことが違憲となるのである。 ここで問題をハッキリして置かなければならないのは、「靖国神社」に奉祀する神霊を尊崇して、その尊崇の結果、神社及び神社に付属する色々な社殿等を補修増築新築したり、祭祀等色々の「行事を行う団体」とを区別しておかなければ大変な混乱が起こるのである。否、既に混乱が起こっているのである。即ち「神社」と「その奉祭会」とは別質のものであるということである。 自民党政務調査会長案の「靖国神社法案」の第一条「靖国神社は、戦歿者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式行事を行い、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする」は、明らかに「靖国神社」そのものと、「靖国神社奉祭会」とを混同して間違えているのである。この規約案は、「靖国神社奉斎会」の規約としてならば、ある部分通用させて差し支えないのであるが、「神社」そのものは、神の宮、であり「神霊の鎮まります御座所」であるから、「御座所が、遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式を行う」というのは甚だしい混乱であるのである。 靖国神社の神霊は軍国主義にあらず さて現行憲法第二十条の第三項には、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と規定してあるのでこのままの憲法では、「国家が、神社の奉斎を行うことは出来ない」という訳で、それを根拠として靖国神社の国家祭祀に反対するのが反国家群のインテリ屋であり、戦中に国家から弾圧を受けたのを恨みに思っているキリスト教徒の一部であるのである。怨みに報いるに怨みをもってせず、「なやめ責むる者のために祈れ」というイエスの教えを信奉している筈のキリスト教徒が、戦争中の弾圧に報復するような手段に出るのでは教祖イエスが嘆かれるであろうと思うのである。一方、反国家群のインテリ屋が靖国神社の国家祭祀に反対するのは、靖国神社の神霊は、軍人の霊魂であるから、それを優遇することは軍国主義を鼓吹するということになる、その国家祭祀は国家そのものの軍国主義化の徴候であるという意味であるのである。 しかしこのような考えが間違っていることは当然である。軍人が自分の属する国家に外国からの侵攻がある場合、または外国からの侵攻が必然の危機として自国に迫って来ている場合、それを防衛するために、戦うのは、国家を、生命体、として観る場合、その、生命体、を危機から護るために、その、生命体、を構成している、細胞、にあたる国民が決起して戦うのは当然のことであるのである。そして全体の、生命体、である、国家、を護る職務に殉じた者が、どうして軍国主義者だということになるのであろうか。自国を敵が侵攻して来た場合「どうぞ自由にこの国を侵略して下さい。わたしは決して自国を護ろうとはいたしません。あなた達の公正と信義に信頼して自国の安全と生存とをおまかせ致します」とお辞儀をして国民総捕虜になって自国が敵に蹂躙せられるに委せている卑怯者だけが軍国主義者でないのだろうか。無論、現行憲法は占領憲法であり、国民総捕虜憲法であるから、その前文に「あなた達の公正と信義に信頼して自国の安全と生存とを保持しようとと決意しました」という意味は書いてある。しかしこれはアメリカが占領当時無理押しに軍力で制定さした占領の名残りではないか。それゆえにこそ、日本のナショナリストがアメリカ占領の名残りがあるが故にこそ、「完全独立でない」といって、「完全独立」の実を得ようとしてゲバ棒をもって起ちあがり「アメリカの基地撤去せよ」「アメリカ軍よ、自国に帰れ」と叫んでいるのではないか。ゲバ棒をもって外国軍隊に向かって「汝、還れ」と蟷螂(とうろう)の斧を揮(ふ)るって起ちあがるのも、そのやり方や行き方は見当ちがいであるけれども、祖国を外国軍隊に占領しつづけていて貰いたくないという精神は、靖国神社に奉斎されている軍人精神と同じではないか。どうして靖国神社に奉斎された軍人が軍国主義者であるか。それこそ、君たちと同じく、祖国の純粋を護ろうとして犠牲になった殉国の聖者ではないか。祖国を護るために、生命、を捧げたものの霊魂を、その祖国たる国家が、祭祀し敬礼し供養し、霊界に於けるその冥福を、国民への恩返しに祈るのが、どうして悪いのであるか。それが悪いというのは日本国憲法第二十条に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と規定してあるからであるというであろう。だから現行憲法は生命が生命の危険を護る自然の行為さえも「軍国主義奨励だ」とそれに反対するような誤解を招くように出来ているところの、人類の自然的感情に反するものであるから速やかに、その、成立の違法性、を明らかにして「占領憲法無効」を宣言せよというのである。 「神ながらの行事」は議会にかける要なし しかし占領憲法を無効として考えない場合でも、国家を独立の人格をもった、生命体、として見る場合、それは一個の「人格」であるから、一個の人間と同じく、憲法第二十条の定めるところの「信教の自由」は「日本国家」という人格に於いてもあり得なければならないのである。そして日本国家の信教というのは「神ながらの道」(即ち俗称、神道、である。但し宗派神道を除く)それは「国家」という包容力の大きい人格の「信教の自由」であるから、国家の中に住む個人の人格の「信教の自由」と抵触することはないのである。 即ち個人としては仏教の信者でありながら、伊勢神宮や熱田神宮や明治神宮や靖国神社に参拝して少しも矛盾を感じない国民が寔(まこと)に多数存在することは、「国家人格の信教の自由」(神ながらの道)は「個人の信教の自由」(宗派宗教)とは矛盾なく併存し得ることを、証明しているのである。だから国家人格という、生命体、が一人格としての「信教の自由」を行使して、国家にいのち捧げた殉教功労者の霊を斎祀する「神ながらの行事」は、何も議会にかけて立法して貰わなくとも、国家は、それを自由に堂々と行えばよいのである。 それを国会という立法府の議会にかけて議決したり否定したりしようとすることは、国家という、生命体、の「信教の自由」を侵犯し「政治上」の権力を祭祀団体に及ぼすことになるから現行憲法第二十条に照らして寧ろ違憲ということになるのである。 併し反対のための反対をしようと思えば、善事を行おうとすれば必ず「違憲」といって反対することが出来るように矛盾だらけの条文を「日本弱体化」の目的で占領軍が起草した憲法であるから、国家が奉斎団体となり靖国神社を祭祀しようとするならば、尚、文句のつけようは色々とあり得るのであるから、日本国憲法の無効宣言が成立するまでは、国家が奉斎団体となる代わりに、天皇が「個人の信教の自由」の原則に基き靖国神社を奉斎することにし、それに要する費用は皇室費を増額して賄うことにすればよいと提言したのである。 谷口雅春著「私の日本憲法論」
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靖国神社の国家祭祀について
「やまと新聞」月曜随想(昭和四十六年六月二十八日号)
南溟の玉砕島に放置される遺骨(過去記事2月25日掲載)
・・・・省略・・・
「だが、私を本当に哭(な)かせたものは、海浜やジャングルに投げ出されている、それらの破壊された兵器の残骸ではなかった。ひとたび緑の雑草におおわれている激戦のあった場所や、幽気を孕む洞窟に足を踏み入れると、そこには必ず、眼をそむけずにはいられないような、次元の違う別箇の世界が現存し、その想像を絶する悲惨さに、足もすくんでしまったのである。戦跡は意外であった。そこに、二十.数年前に戦死したまま、ずっと放置されていた兵士たちの悲しい姿を、私はまざまざと見せられたのである。
長い間、雨に打たれて朽ち果て、風化された白骨は、もうすでに黄色く変色し、それらが枯木のように折り重なって、無数の骨、骨、骨……この骨の山が、かつての善良な青年たちであり、純粋で疑うことも知らず、皇軍の必勝を教えられたまま信じ、日本の楯となって本土の人々の身代わりになろうと、身を粉にして闘い、生きて虜囚の辱しめを受けまいと、最後まで敢闘を続けた兵士たちなのだ。彼等は人間として、当然享受出来る幸せを投げ棄て、国家のために尊い生命を捧げた兵士たちであり、同時に私の親しい仲間でもある。そう思うと、その悲惨さに堪えられず、激しい憤りを覚えて、長い慟哭さえ押しとどめることも出来なかった。私はその時以来、毎年、必ず、収骨慰霊に渡島し、もう前後九回におよぶ。これからも私の身体が動く限り、これを続け、彼等英霊たちの冥福を祈りたい。これは多くの英霊が、私を招いているからでもある」
船坂氏のこの文章は私の胸を激しく深く打ったのである。民間人である船坂氏がこのように遺骨収集のために幾回も南溟の孤島に渡っているのに、政府としてはどうしてもっと大掛りの遺骨収集団を派遣して、そんな気の毒な遺骨が露出したまま風雨にさらされているのが一片もなくなるように、収骨してとむらってやることを実行しないのだろうと思った船坂氏が「その悲惨さに堪えられず激しい憤りを覚えた」と書いていられるのは、政府が、この国家の犠牲者をこんな悲惨な状態のままで放置しているその冷淡さと、政治の無策に対する激しい憤りであったのだろうと想像されるのである。
革新党、キリスト教側の反論(過去記事2月26日掲載)
けれども政府が国家を代表して、国家の行事として遺骨を収集して慰霊する行事を行なうことは、現行の日本国憲法ではできないーという壁にぶつかることに私は思い当たったのである。それはこの憲法の第二十条に、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と占領軍が定めて往ったのであり、日本国民は今に至るまで、この憲法を改正しようとせず、この欺瞞憲法の枠の中で、行動を束縛されて自由を得ず、こそこそと反対党の目をぬすんで、自衛隊は「戦力ではない」と詭弁を弄して創設してみたり、護国の英霊をまつることは「国」としては行なうことは出来ないということになっているので、靖国神社国家祭祀の法案も政府提出法案とせず議員立法として最近の通常国会に提出せられたのであるが、革命党の反対気勢が高いために、この法案を最初に出したら、審議が長びいて、他の重要法案が審議できず、参院選挙戦の期日に食い込んでしまうおそれがあるというのでこの法案は、後回しにされ、ついに審議未了廃案になったのである。 しかも、この法案の通過を間接的に妨害するために、津市における地鎮祭を市当局が行ったことは、前掲の憲法第二十条に触れる行為であるとて、「政府機関や市当局は地鎮祭すらも行ってはならぬ」という判決を名古屋高等裁判所は下したのであった。 革新系の政党が、靖国神社を国家または国の機関が祭祀することに反対するのは、神社の祭祀は一種の「宗教的活動」であるから国や政府機関が行うのは、右の憲法に触れるということと、戦争に命をささげた英霊を尊崇したり、頌徳したり、遺徳をしのぶということは、好戦的精神を国民に養成し、それが戦争につながるという理由のようである。
特にキリスト教側からは、大東亜戦争中、日本政府が国内のキリスト教を禁止同様に圧迫したことに対する反感から、戦争を一種の犯罪として見、その犯罪に従事して敵兵を殺すという殺人行為をした者を国家がまつるということは以っての外だという議論も出ているのである。それゆえにこの法案の提出者側が提示した、提案理由、は非常に遠慮がちなもので、次のように書かれている。 ・・・・省略・・・・
次元を低めた法案の廃案は神意である。 (過去記事2月27日掲載)
この提案理由を読んでみると、一字も、祭祀、という語を用いず、「まつる」とも言わず”護る”といい、護持する、といっていて、出来る限り、宗教語を避け、その「まもる」又は、護持する、ことが、憲法第二十条に定められたる「国及び政府機関」がしてはならない「宗教活動」とみとめられて、違憲のそしりを受けないように、謂わば「表現の微妙なカラクリ」によって、「英霊を祭祀すること」を「祭祀するのではない」「まもるのだ」「護持するのだ」と言いのがれる工夫が凝らされているのである。そしてその靖国神社なる建物を「国民の負担においてまもる」ことは、神社に「祭祀たる英霊」にこたえるためではなく、「英霊に対する国民の尊崇の念にこたえる」ためになっているのである。それを提案理由の中から箇条書きにしてみると
一、英霊に対して全国民的な尊崇の念を表すために、 二、遺徳をしのび、 三、これを慰め、 四、その事績をたたえ 五、その偉業を永遠に伝えること、となっているのである。 この第三項「これを慰め」以外は、神社に祭祀してある英霊の冥福を祈るという意味は全然ないのであって、靖国神社を、神社、という名称だけを温存しつつ、その実質は単なる「尊崇の念を表し、遺徳をしのび、事績をたたえ、偉業を永遠に伝える」ための記念碑的存在たらしめることによって、占領憲法の「国家祭祀の禁止条項」から言いのがれようとしているのである。 しかも国家が祭祀することを祭祀といわずに「護持」といってその記念碑的建物を保存維持する経費を国家が負担するというような、半ば唯物論的表現になっているのである。しかも、この提案理由の説明によれば「国民の名において、かつ国民の負担においてまもること、すなわち靖国神社を国家護持すること」となっており、国民、と、国家、とが混同されているのである。
つまりこの提案理由書によれば、 占領憲法の最大の欠点であるところの「国民はあるが国家はない」ということが露骨にあらわれていることである。このような国家がない占領憲法の下に於いて、国家のために命を棄て、「天皇陛下万歳」と叫びながら死んで往った英霊の心が慰められるであろうか。 そして、国家護持、と称する意味不明の表現の下で、ノリトを誦えることも宗教活動、として遠慮しなければならないような状態で、国民がその護持の費用を受けもってくれても、果たして「英霊の心は慰め」られるであろうかと私は疑問に思うのである。 それは次元の高い靖国神社を、次元の低い記念碑に落としてしまうことになるのである。そして国家、と、国民、とを混同した曖昧な心構えで「国民の名に於いて」「国民の負担において」「国家護持する」という趣旨で、この法案が通っていたならば「国家のために命を捧げた英霊」を「国をつぶした戦犯協力者」として攻撃している共産党員の如きが政権を握ったときに共産党員は礼を以て神社を護持し得るか。本当に英霊は「礼をもって」その国家護持を受け給うであろうか。「神は非礼を受け給わず」ということは敬神家の常識であるのである。従って先般提案の「靖国神社法案」が審議に到らず廃案になったことは「神は非礼を受け給わず」のあらわれで、私は神意であると思うのである。
恰(あたか)も、この原稿を書いているとき「靖国会」から、徳川氏が病気療養中なのでその代理者としての塙三郎氏から、私が嘗(かつ)て、現憲法下ではその第二十条により靖国神社の国家祭祀には抵抗が多いから、同条の信教の自由に基き天皇陛下が御自身の御意志にて靖国の神霊を祭祀するのは違憲ではない。そして、その費用は天皇の皇室費(御生活費)の中から支出すればよいのであって、それは国会で皇室費を増額すれば事足りるのだから、これは頗(すこぶる)簡単なことなのであるーこんな意味をこの欄に書いたことがあるのを塙氏がどこからかお聞きになって、 「天皇御自身の御意志によって、靖国神社の忠霊をお祭り申し上げる事が若し実現出来ますならば、二百五十万の忠霊はどんなにか感動することでありましょう」と大いに賛意を表して来られたのである。塙氏は「靖国神社は先ず宗教法人たることを辞退して普通の公益法人にしてその財産を管理し」と書いておられたが、信教は自由であるから靖国神社が宗教法人そのままで天皇陛下が御視察あらせられても一向差支えはないと私は思っている。そしてその費用は、吾々が先祖の霊を祭る仏壇を購入し維持するのに、自分の家計の中から支出するのと同じように皇室の中から 天皇御自身の費用として支出することにすればよい訳である。天皇陛下万歳、と唱えて国家に命ささげた忠誠の英霊のために謹んでこの稿を認(したた)める 谷口雅春著「私の日本憲法論」より
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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
民主主義の矛盾について
外人に国を倒す自由をみとめた現憲法
昭和四十三年
武藤貞一氏はまた一言われる。
「国家と個人主義とは絶対に両立すべからざるものだ。国家は共同の利益の結晶体で、すなわち公共体である。公共体は、大局的には個人の利益を防護するためのものだが、局部的には個人の犠牲の上に成立っている。権利義務の"義務"は犠牲と同意義である……」
民主主義憲法すなわち現行の日本国憲法は、結局個人主義憲法であるから、国家を防衛するためにはできていないのである。その成立の経過手続きそのものから、日本弱体化のためにつくって占領軍が押しつけたものであるから、国家を防衛する戦力も交戦権もみとめていないのは無論であるが、国民が言論で国家を倒す自由や、革命教育を行って国家を倒す自由をみとめているのであるから、この憲法が存続する限り、日本国家は累卵(るいらん)の危機にさらされているのである。この憲法を楯にとって美濃部都知事は、学校の認可に日本を衛るという政治的配慮を用うべきでないとして、朝鮮人をして反日的言論と教育とで日本国を倒す自由をみとめて"朝鮮大学校"を公式に認可したのである。外人をして「日本国を倒すための言論と教育の自由」をみとめしめた日本国憲法こそ、世界唯一の怪物というべきである。
美濃部東京都知事が、灘尾文部大臣(当時)のいうことをきかないで、知事の権限内のこととして、日本国覆減革命教育をほどこしている"朝鮮大学校"を公認したことは、"知事選挙のとき共産党・社会党(現民主党)に支持されて当選したのでそれらの党の突き上げによる"との説をなす者もあるが、そうかも知れない、そうでないかも知れないが、民主主義が"下剋上"主義であるかぎり、このことのあるのは当然のことである。
「民主主義は、当然のことながら、階級と秩序と倫理と情操を打破する。生徒の民主主義は、教師を同列の人間としてこれを軽蔑することであり、生徒が教師を殴りつけたり、監禁したりするのは、民主的エリートの行為として称賛されねばならないし、また、子が親を、弟が兄を、妻が夫を虐待することが民主的理念に適(かな)い、いやしくもこれを逆にして、子が親に、弟が兄に、妻が夫に服従したり敬愛したりすることは、甚だしき民主主義の背戻行為(はいれい)であって犯罪に等しい。旧道徳、旧封建的、義理人情的な一切のものを踏みにじらなければ、民主主義とはいえない。民主主義とはそういうものなの
である」
と武藤貞一氏は喝破(かっぱ)している。国家を愛し、国家を衛るところの国に対する忠誠などという精神は封建的であるから、自国をつぶす革命教育を行う外人学校を公認し、国家の文教方針を代表する文部省の指示に反して、外人がいやしくもその首都にいて革命教育を現に行いつつあるものを許す。この怪物の正体をわれわれはよく見きわめなければならない。
〃下剋上"もここまで来ればすでに狂気の沙汰であるが、そういう者が進歩的文化人にとってはエリートなのである。日本弱体化のために押しつけられた日本国憲法の下に於いては、国家は個人の利益を擁護するための組合組織に過ぎないのであるから、個人の利益及び思想・行動の自由は、国家の存在権に優先するのである。国家が潰れようが、そんなことは個人の思想及び行動の白由の前には、顧慮する必要がない建前になっているのが現行の民主憲法なのである。
冷酷非情な唯物論の世界
(過去記事2月24日掲載)
唯物論と民主主義とが結びつくとき、個々の人間の基本人権を尊重するという高い理想の名目の下に、理想に反する極端な個人主義が生れるのだ。そこには、個人の権利のみ人権として主張せられて「全体」に対する義務や奉仕がわすれられる。「全体主義はいけない」と民主主義国家では考えられがちであるからである。しかし、全体が健康にならないで部分の臓器が健康になれるはずはないのである。
現在日本の民主主義は唯物論に立脚しているが故に、人間と人間との関係は「物質」と「物質」との関係同様に扱われるに至るのである。
・・・・中略・・・・
そこにはただ非常な冷酷があるばかりであって温かい"愛〃はないのである。なぜなら唯物論的集団の世界に於いては、おのおのの人間は物質の一単位に過ぎないから、その離合集散は非情に行われるのが当然なのである。
人間を唯物論的に取扱うとき、
・・・・中略・・・・
祖先→父母→子孫というような生命のつながりも、霊魂のつながりもなくなる。子は父母に背き、祖先を無視し、祖先崇拝や父母に"孝養"などという考えは"古い"として棄て去られる。そして「個」のいのちは神から断絶し、祖先から断絶し、父母から断絶し、人間は独立独歩であると宣言する。独立独歩は壮大な宣言でよさそうであるけれども、それは神からも祖先からも父母からも断絶した独立独歩であるから、
・・・中略・・・
彼は唯物論的主義の生活に於いて避けられない孤独と寂寥(せきりょう)とに魂がさいなまれ、人生無意義の感ふかく、生き甲斐を失ってしまうのである。その結果、暴動学生になるか、フーテン族になるか、快楽主義者になるか、極端な利己主義者になるかが落ちである。
物質はただ非情な、電圧や水圧や、金力による圧カによって、機械的に物理的に動くのである。大学で争闘している学生の中には、一人日当千円で傭われて来ている者があり、警官の放水で濡れた者は、五百円の割増金がついているのだという噂をきいた時に、私は愕然(がくぜん)としたのである。かつて日教組の街頭行列による示威(じい)運動が和歌山に於いて行われたとき、やはり他県から日当で雇われて行列に来ているものがあるということをきいたことがあったが、それは汚れた大人のことであると思って気にもとめなかったが、純粋に「人類愛」という、幻想にせよ、錯覚にせよ、使嗾(しそう)によるにせよ、ともかく、高邁な理想を心に描いて、血を流すことをもいとわず、不惜身命(ふしゃくしんみょう)に邁進する学生たちだと思っていたのに、その中にそのような不純な者が混っていたときいては驚くほかはないのである。その"金“はいったいどこから出ているのだろうか、第三国からだろうか。日本の革新団体からであろうか。金銭で身を売って、同胞相争うて血を流すような冷酷非情の世界、それが唯物論に結びついた民主主義世界なのである。噫(ああ)!!私は世界全体の健全なる繁栄と幸福のために個人主義的民主主義の迷妄を払拭して、新しき霊的全体主義に人類が目覚めることを待ち望むのである。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
民主主義の矛盾について
日本民族を浮浪の民族に
昭和四十三年
アメリカはその唯物論的民主主義を押しつけ的に輸入させて、日本を歴史なき国にすることによって、日本民族を根の生えていない浮草のように、どこの国に隷属してもよいような浮浪の民族にしようとした。そして神話教育、歴史教育を系統的に教える歴史科を廃して、社会科の中に、日本の歴史中の恥部のみを選んで載せて学童を教育することによって、「伝統ある日本」を愛するところの愛国心を消滅せしめ、これによって日本を弱体化しようとしたのである。
この計画はみごとに功を秦して、日本国民の四分の一くらいは、日本の国をソ連が治めてくれようが、中共が治めてくれようが、個人の肉体的幸福と物質的福祉とが得られればそれでよい、というような、愛国心なき精神の若者が氾濫することになったのである。かつては"外国の第五列"と謂われることを恥辱とした日本の若者が、東大の学園紛争に於いては、毛沢東の肖像を高く掲げて、日本国家権力機構の手先であるとして警官隊に向って火焔瓶や石を投げて激しく戦ったのであった。国家権力に対して「毛沢東」の肖像と赤旗とをもって武装して戦っている彼らは、すでに「外国の軍隊」なのである。それに対して日本の自衛隊は沈黙している。そして警察も学園自身の要請がなければ学内に立ち入れないし、その要請も、暴動側の学生の承認がなければできないという確認書を、学校当局と学生代表とが取り交わしたというのである。
彼らは「歴史と伝統とをもつ日本の国」を愛する愛国心などは毛頭ない。アメリカの占領軍が唯物論的民主主義を輸入せしめることによって、日本を弱体化する計画はこのように成功し、しかもその弱体化は日本のあらゆる階層に癌の転移の如くひろがりつつあるのであるから、すみやかに、この唯物論的民主主義の根元である占領憲法を追放しなければ、日本には「日の丸」の国旗は消え、「赤旗」が国旗となり、日本のいたるところに、「毛沢東」の肖像写真が、あたかも中共の紅衛兵騒動の時にひろがったように、へんぽんとして翻(ひるがえ)ることになるであろう。
歴史と伝統を否定する唯物論
(過去記事2月21日掲載)
唯物論的民主主義においては、すべての「伝統」とか「歴史」とか「精神的連続」とかいうものは否定せられる。それは人間をも"物質的単位"をもって計上して、歴史とか家柄とかいう、精神によって伝わる価値を否定してしまうのである。なぜなら、「物質」には歴史はないからである。
・・・・・中略・・・・
すなわち物質は常に、「歴史から断絶」するものであり、ただ素粒子の数量的関係によって価値が定まる。物質を構成する素粒子の数の少いものは質量が軽いし、素粒子の数の多いものは質量が重いのである。その元素が、どんな生成の歴史を通して今の元素としてあらわれているかは問うことはないのである。
それと同じことが人間にあてはめられた教育が唯物論的民主主義教育である。水素の核融合によってできたヘリウムは、水素はヘリウムの親元素であっても、そこにはもう親子としての関係はない。ヘリウムはヘリウムであり、水素は水素であり、その歴史は相互に断絶するごとく、「子は親に対して孝養をつくす義務も責任もない」といって子供は教育せられるのである。学園で暴動して、その両親がどんなに悲しんでいても、親の嘆きなどは彼らにとって屍チヤラである。彼らは人間の形をしているけれども、その精神は一個の物質分子であり、いのちの歴史からも家系からも国家の歴史からも断絶したバラバラの物質的存在であるのである。
彼らは「日本の国民」という伝統も歴史をも精神の中にもっていないで、ただ日本の国土という地球の一部分にわいたところの寄生微生物みたいなものである。寄生微生物は、人間の肉体の中で発生し生存していても、「人体」の一部分であるという自覚をもっていないで、「自分に主権あり」とて、自分ばかり都合がよければよいとむやみに増殖して、「人体」ぜんたいの生存を危くしてしまうのである。
唯物論的民主主義は、人間を物質的単位において考察し、「個」が「全」の内包する歴史と伝統とからの断絶を目指すがゆえに、すべての存在をその「番号的空間位置」と「数量」とによって表示されるのである。たとえば地名または町名の如きも、歴史的雰囲気をもつ称呼は廃止せられて、"六―三三―二四号〃というように便利的に取扱われるだけであって、その地名または町名の、みやびな言語の雰囲気やその地または町においてかつて何が行われ、いかなる人が生れて来たかの歴史の連続や記憶や連想による複雑な厚みのある精神的内容は、ことごとく抹殺されるのである。
このような民主主義の下においては、そのうちに町名だけではなく、人間をも番号によって、「何番の何号」というふうに囚人式に取扱かれることになりかねないのである。すでにその一端が人間の命名において強制せられているのである。私は、先日ある人に女の子が生れたので、「美沙子」と命名してあげたら「沙」の字は当用漢字にないからとて、出生届が却下せられたということを聞いたのである。その文字のもつ歴史とか、風格とか、二ユアンスとか、味わいとか、美的感覚とかいうものを唯物論的民主主義は拒絶するのである。
そして人間はただの電算機となる。それは番号と符号とによって便利に動く機械となるのである。ただ私はこの唯物論的民主主義の憲法下で不思議に思うことは、ゲバ棒をもって数干人が集団して示威運動することは「表現の白由」でゆるされていながら、美的感覚や、歴史的伝統ある連想をもついろいろの美しい漢字や熟語の使用を禁じて、文字や言語のもつ歴史抹殺することによって、われわれ文学芸術家の「表現の自由」を制限していることである。
これは結局、現代日本の民主主義なるものが、日本人の心から歴史を抹殺して日本国を伝統と歴史とから断絶し、歴史なき浮浪の民族に過ぎないという潜在意識を養成して、日本民族の民族精神の根元を断ち、「伝統ある日本」への愛国心を根絶し、他国の侵略に唯々(いい)として盲従しやすい国民を養成する方向に、隠れたる侵略者の手が動いていることを示すものである。国を愛する人たちに注意していただきたい。
民主主義という次期独裁者のカクレミノ
(過去記事2月22日掲載)
武藤貞一氏はその機関誌「動向」の四十三年五月号巻頭に"民主亡国"と題して次のようなことを書いている。「民主主義とは、下剋上のことである。民主主義とは、個人主義、エゴイズム、反公共主義のことである。民主主義は、独裁、専制、権力主義を排するための言葉であることはもちろんである。しかしそれは一応のカクレミノに過ぎない…:」
"下剋上"とは"下が上を剋す"ということである。
・・・・・中略・・・・・
この天地逆転・世界紛乱(ふんらん)の原因がアメリカから日本弱体化のために輸入された民主主義と、そのいわゆる〃民主主義憲法"である。公共の福祉などは考えず、市民に迷惑がかかっても、自己主張を貫徹するために全学連が暴力を揮い自分の給料さえ上ればよいというので、総評または国労の命令一下で交通機関のゼネストをやるがごとき、ことごとく、この民主主義憲法の許すところである。
・・・・中略・・・・
つづく
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
民主主義の矛盾について 昭和四十三年
人間軽蔑と人間尊重の矛盾(過去記事2月13日掲載)
「人間は自分ひとりを治めることさえ安心して任せられないものだと言われることが時々ある。それならば、彼に他の人々を治めることをどうして安心して任せられようか。それとも、われわれは天使が人間を治めるために王者の姿をして現れたと考えるべきなのか」とはアメリカ合衆国建国の功労者の一人で、第三代の大統領になった民主主義の思想家ジェファソンの言葉である。この言葉の中には民主主義の欠陥がハッキリあらわれているのである。それは人間軽蔑の思想である。人間は自分ひとりすら治め得ないところの愚かなものであるから、どうして他の人を治める資格があろうか、それだから多人数の会議によって最大公約数的結論を出さねばならぬと言うのである。ところが民主主義の思想の、もう一つは「すべての人間は道徳杜会の一員として平等の尊敬を払われねばならぬのであって、その尊厳性は何人も侵すことができない」という人間尊重の思想である。この、一方に於いて人間を愚者として軽蔑しながら、他方に於いて「すべての人間を平等の尊敬をもって扱わねばならぬ」という矛盾命題の中で国民が生活せしめられるのであるから、民主主義社会に於いては常に内部闘争の契機を孕んでいるのである。
「三人寄れば文殊の知恵」とい諺(ことわざ)もあるけれども、「盲人が盲人の手引きをして崖から墜落する」というたとえもあるのである。盲人がいくら集団になったからとて目明きの聡明さになることはあり得ないのである。
・・・・省略・・・・
平等の権利・異る個性の矛盾(過去記事2月14日掲載)
民主主義の考え方の中には、二つの矛盾の性格を孕んでいるのである。それは、すべての人間は「平等の自由と権利」をもっているということ。そして、すべての人間は「異る個性と考え方」をもっているということである。この「平等の権利」の主張と「異る考え方」の主張とーこの二つの相反する主張を、国家という同一面の"場"に於いて調和せしめつつ生かさなければならないのが民主主義であり、それを調和せしめつつ、最大多数の国民が幸福になるように政策を進めて行くのが民主政治の要諦である。
・・・・省略・・・・
この混乱を救う道は(過去記事2月15日掲載)
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ここで前掲のジェファソンの言葉の最後の一節、「われわれは天使が人間を治めるために王者の姿をして現れたと考えるべきなのか」という彼の憧(あこが)れと歎息を思い起すがよい。民主主義と称する、多党化して自党の利益のみを主張してテンデン、バラバラになって争う内紛を常に内に蔵する政治形態よりも、もっとすぐれた政治形態への憧れがこのジェファソンの言葉の中にはあるのである。
それは、「天使が人間を治めるために王者の姿をして現れて人間を治めてくれる」という神話的な憧れである。しかしそれは決して単なる空想でも神話でもなかったのである。そういう天使の実現が日本にはあるのである。何党にも、いかなる閥にも属さずに「自分のからだはどうなってもよいから万世に泰平をひらくために戦争をやめる」と仰せられた天皇、みずからは戦争に反対しながら、多数決で民主的にはじまったあの戦争が終ると、「あの戦争の責任はひとり自分にあるから自分を罰せられたい」と占領軍司令官の前で自分ひとりが責任を引き受けようとせられた天皇ーこのような天皇によって政治が指導せられるとき、その国はジェフアソンの「人間を治めるために仮に王者の姿をしてあらわれた天使」によって治められることになり、どんなに国内に内部闘争や意見の対立があっても、その天使の〃鶴の一声〃によって内部闘争も意見の対立も消えてしまうのである。
このことは過去に於いて実際そうであった。終戦の時もそうであった。私はこうした天皇政治が復活することを待ちのぞむのである。日本国の不幸は天皇を政治の圏外に締め出して、私利私欲の固まりである個人及び党派の寄合い協議によって政治を始めることにしたことである。
"国民主権“は絵に描いたモチ(過去記事2月18日掲載)
国民主権と議会制民主主義との間には根本的に矛盾が存在しているのである。国民ひとりひとりに主権があり、思想の自由、行動の自由、言論の自由、表現の自由が憲法の条項の上では許されているけれども、国民ひとりひとりはことごとくその物の考え方が異るし、従ってまた思想も異り、その希望するところも異り、その希望を自由に表現しようと思うならば、必ず他の人々の希望の実現と衝突する事実にぶつからざるを得ないのである。だから国民主権などというものは、単に絵に描いた餅みたいなものであって』実際には食べられる餅ではないのである。
・・・・中略・・・・
、現ある利益団体の代表者議会制民主主義による国会というものは、利益団体と利益団体との戦いの"場"であって、その利益団体が二つである場合には二大政党というふうになるし、
・・・・中略・・・・
主権をもつという国民ひとりひとりは置き去りにされていて、ほとんど何の意思表示もできないのである。
・・・・中略・・・
日本国憲法に定められた国民主権というものは、実際には、絵に描いた餅、又は作文の上に創作されたウソの主権であって、日本国憲法そのものが、実際には持ち得ない国民主権を持ち得る如く偽臓して作文されたものなのである。
議会制民主主義の落ちつく先(過去記事2月18日掲載)
現状に於いては利益団体と利益団体とがその利益を守るために論戦をする"場"が国会であるのであるから・策略を弄して(この策略の中には"金も含む)人数をより多く集めたものが統治の権力を握るわけであって、民主主義政治というものは、おおよそ、そんなものなのである。だから常に利害の対立があって、負けた方の政党は、この何とか相手の政党を倒してやろうと策略を練るのである。
だから民主主義国家に於いては、国そのものの繁栄よりも、各自の利益団体の利益と権カの維持に施政の目標がおかれることになり、国会も院外も総じて謀略者の利益及び権力の争奪のための戦場となるのである。そこで国会は国民の総意などは反映しない、
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人間を物質的単位として取扱う民主主義
(過去記事2月19日掲載)
戦後、アメリカが日本に移入した民主主義というもの最大の欠点は、それが霊的民主主義でなくして、唯物論的民主主義であるということである。
唯物論というものはすべての存在を素粒子又は分子・原子に還元して考える。それが水素であり、ヘリウムであり、酸素であり、炭素であるということは、原子核の構成とその周囲を旋回する電子の数によって定まる。それによって質量がはかられ原子番号が付せられる。いろいろの性質の元素があるけれども、それは単に素粒子の数と配列の問題であって、みんな同じ単位の寄合いである。そこには特に何元素が高貴なというわけはないのである。それはただ数量的関係に過ぎないのである。
・・・・中略・・・・・
それゆえに君臣の義も、親子兄弟の義理もない、長幼の序もない、師と弟子との間には情誼もないのである。
・・・・中略・・・・
ロシア革命は、ケレンスキー将軍が、「将校も兵卒も平等の人間であるから、今後、兵卒は将校に敬礼しないでよろしい」といったことから端を発したと伝えられている。すべての人間は「物質の塊にすぎない肉体」であるから、どんなに偉そうに見えても皆平等である。
・・・・省略・・・・
つづく
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
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