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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
憲法復元か、革命か
超高峰を踏んで立つ生き甲斐(過去記事2月7日掲載)
日本の学生騒乱のテキスト・ブック『日本革命の根本問題』について、田中卓氏は『国家興亡の岐路』に次のように説明されている。
・・・中略・・・
はじめから武カで革命をやるんだと言い、つぎにこの武カをどのようにして手に入れるかということが書いてあります。そして革命を行なうときには、まず第一に自衛隊を内部からマヒさせる。第二には全国の主要街道をバリケードを築いて封鎖する。第三には首都東京における市街戦を展開する。その次には自分が働いている工場経営を占領する。その次には警察権カの中枢を破壊する。最後にマスコミ機関を占拠し革命権カの掌握下におくーこういう順序で革命のやり方が詳しく書かれているのです」
・・・・省略・・・
革命政府は、天皇を戦犯者として処刑する
(過去記事2月8日掲載)
昭和四十四年
こうして国家権カを武カによって奪取した後、革命政府は何をやるのであろうか、田申卓氏は前記、太田竜著び日本革命のバイブルを引用して次のごとく書いている。
「その次には『革命政府の果たすべき課題』として、革命を行なった後どうするかということまで書いています。天皇制については、『革命政府は天皇を直ちに皇居から追放し、対中国.ソ連侵略戦争の戦争犯罪人として裁判にかける』。警察官なども『警部以上の幹部は即時追放』し、場合によっては人民裁判にかける。検事も追放する。『自衛隊は解散する』そのかわりに『人民解放軍』をつくる。
・・・・省略・・・
速やかに明治憲法の復効を宣言せよ
もしこのような順序によって革命が行なわれ、警察権カの及ばない東京大学の工学部その他で、武器や爆弾が製造せられ、日本中の各大学を革命の拠点として学生が武装蜂起し、左翼労働組合員等がそれに合同して市街戦が演ぜられるようになったとき、この国内非常事態に臨んで日本政府当局は、これを防衛する治安対策をもっているであろうかということが、私には気がかりでならないのである。
明治憲法が存続または復効しておれば、このような場合には、天皇が戒厳令を宣言すると、行政権も、司法権も、軍司令官の手にゆだねられて軍隊は絶対の権限を発揮することができたのである。だから二・二六事件のごとき軍内部の反乱さえも、たちまちのうちに鎮圧することができ、関東大震災時の朝鮮人の不穏状態も事無きを得たのであるが、現行憲法の集会、言論、結杜、表現の自由のごとき条項を楯にとって、どんな反乱も公許され、取締る方がかえって違憲であるとの判決を受けるごとき、日本現下の状態に於いては、このような計画的な全国的に拡大された武装蜂超を、現在の警察隊のごときもので鎮圧することができるかどうかということになると、まことに自信がもてないのである。
だから私は今ただちに、少くとも今年中に占領憲法の失効を宣言し、大日本帝国憲法が正当なるわが国の憲法として復効を宣言せよというのである。
地方選挙に於いて一考を要すること
昭和四十四年
・・・・省略・・・
ところで「自衛隊は、陸・海・空の三軍から成っているが、自衛隊法によると、治安出動の場合の武器使用の根拠規定を持ったのは、陸上自衛隊の場合だけであって、海上ならびに、航空自衛隊には、治安出動の場合における武器使用の規定が全然定められていない…自衛隊法によると、『都道府県知事は、治安維持上重大な事態につきやむを得ない必要があると認める場合には、・・・・内閣総理大臣に対し、部隊等の出動を要請することができる』規定になっている。しかし最も困ったことは、仮りに東京都で、そういうような非常事態が発生したとしても、左翼革命戦線の代表である美濃部都知事が、自衛隊出動による暴動鎮圧などを要請する道理がないということであり、現に美濃部都知事は警察機動隊の増員にすら真っ向から反対している」と歎いているのである。
・・・・中略・・・・
今まで知事選挙に臨んで来た道府県の国民は、国家的な非常事態を生じたときに、革新系の知事を頂いていると、革命を自衛隊によって阻止してもらうことができなくなるおそれが十分あるのである。
自衛隊はいかに革命軍に対抗し得るか(過去記事2月10日掲載)
知事が革命暴動に協カして自衛隊の出動を要請してくれない場合には、佐々木盛雄氏はまた「自衛隊法の別条規定に基いて『内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる』権限を発動する以外にないだろう」といっている。さて、総理大臣が自衛隊の出動を命じたとして、自衛隊に何ができるかというと、まことに心細い感じがするのである。佐々木盛雄氏によれば、自衛隊が治安出動した場合に、「自衛隊員の持つ職権は、自衛隊法によって、警察官職務執行法が準用されることになっているから、簡単にいえば、自衛隊員が警察官に早変りするのである。
・・・・省略・・・・
暴動側を無罪にし、鎮圧側を有罪にする憲法
現行の法令のままでは、自衛隊の指揮者が「射て」の命令を出して、相手が殺傷せしめられた場合は、刑法上の「殺人罪」に問われるのに、全学連の指導者が指揮して投石して、警官や国民を殺傷した場合、それは多数の集まりであり、誰の投石が当って傷ついたのか、確たる認証ができない。「私は石を投げたが、その石が当ったのではなく、他の人が投げたのが当ったのだが、その他の人が誰かはわからない」といえば、証拠不十分で無罪にするほかはないのである。現に岡山大学で投石して警官を殺した容疑者として逮捕されていた学生は無罪の判決を受けている。
・・・・中略・・・・・
そして逮捕されたら一私でない』という以外一切黙秘権をつかえ一これで万事OKである。そして容疑者は数日のうち拘置から解放される。解放されないで地方判所まで廻れば、一証拠不十分で無罪一と判決され、無罪の判決を受けたら、国家から多額の補償金を要求することができるのである。暴動する者が得をして鎮圧する者が損をする日本国である。
噫(ああ)!!
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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無題
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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
憲法復元か、革命か
占領憲法下では首相が事実上の元首である(過去記事1月30日掲載)
私のように「天皇に大政を奉還すべし」と説くのではないが、「天皇を元首にすべし」と説いている武藤貞一氏にも反対する人からの投書や意見が送られて行くのか、武藤氏は次のように述べている。
・・・・省略・・・
天皇を「象徴」と観ることに対する反論
(過去記事1月31日掲載)
私は、占領憲法に於いて、天皇が何らの実権をもたず、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定めて、ただのシンボルまたは一種の符号的、無人格的存在にしてしまったことに反対するものなのである。武藤氏は『改憲か革命か』の三十四頁に次のごとく書いている。
・・・・中略・・・・・
われわれは、生ける国家、生命体としての国家、その国家の生命の中核であり本質である天皇にこそ自分の生命を献げるのである。天皇を「国家の生命の中核」と観るのと、単に「国家の象徴」と見たり、「国家といっても漢然としていて国民の心を統合する中心になりにくいから、国民の心を一点に集中するために生み出した象徴的具象」と見たりするのは、天皇の本質についての理解が異なるのである。この点はやがて武藤氏はわれわれの説に同調して下さることだと思う。
首相を守るために傷つく警官もある(過去記事2月1日掲載)
昭和四十四年
武藤貞一氏は、佐藤栄作氏のために、「戦場で決死、敵に当る兵士はあるまい」と断言しておられるが、事実は、戦場ではないが、羽田飛行場に佐藤総理大臣がアメリカ訪問のために出かけるのを途上に邀(よう)して阻止しようとした三派全学連に対して佐藤総理の一身を守るために、警官が自分の生命を的にして出動して学生と戦って、双方、多数の負傷者を出したのであった。
これは占領憲法下では首相は単なる「象徴」ではなく、警察業務はもちろん、行政全般を掌握する指揮者であり、自衛隊と称する陸海空三軍の最高指令権をもつ指揮者であるからだ。この実権をもつ指揮者が「俺の一身を衛るために、警官よ、出動して、全学連と戦え」と指揮すれば、その闘争が警官自身の生命にかかわる危険があっても、自身の生命を犠牲にして戦わねばならぬのであり、また戦ったのであった。
ただ「これでよいのか」という疑問がわれわれ国民の潜在意識の底に残るのである。佐藤総理がただ自分の一身を守るために、国民同士(警官と全学連と)を戦わしたことに対する反感から、「現在の体制」に対する反感がますます高まることになり、それ以来、全学連の反体制的暴動がエスカレートすることになったのであることに、佐藤総理は気がつかないなら、それはあまりに国民的反感に対して鈍感すぎる言わねばならないのである。
食べられない〃画餅(がへい)〃に注意せよ
(過去記事2月2日掲載)
昭和四十四年
「アメリカ出て行け」の叫びは、主として共産主義陣営に同調する国民または政党から出ているのであるが、これは沖縄返還の問題が国会論議の一つの焦点になったのを機会に、そして日米安保条約再検討の時期が近づくので、その闘争のための前哨戦として、国会及び言論界で戦わされているものであるが、沖縄返還は「即時無条件返遼」でなければならないとか、「B52爆撃機を沖縄から即時撤去せよ」とか、いろいろの現実ばなれのした理想論が、おおむね、革新側から提出されたのである。
政府与党に属しない革新側は、自分が政権をすぐ担当する見込みもなにもないから、現実に政権を担当したらとてもできない理想論を、国民の歓心を買うために唱えて、「あの政党は良い理想をもっているから今後投票してやろう」.と国民が思うように誘導するのである。国民はそれが単なる絵に描いた理想で、実際には食べられない牡丹餅(ぼたもち)であることを見破らねばならないのである。
非武装中立は理想論でなければ偽善である(過去記事2月3日掲載)
昭和四十四年
社会党(民主党)は、「非武装、中立」の政策を打ち出し続けているのであるが、それは宗教的理想論として宗教者が、たとえばイエスが、みずからを無防備にして、全然無抵抗にして刑場に曳かれて行って十字架にかかるごとき純粋なる心境でそれが説かれるならば尊いことであるけれども、防備を現実的に必要としている現体制を打倒すゐためだけの「言論の爆弾」としてそれが用いられるときは、それは、悪質なる偽善となるのである。
・・・・・中略・・・・
これを評して、民主社会主義研究会の遠藤欣之助氏は次のごとくいっている。「社会党は、幻想と希望的観測によって棲息している、世にも『不思議な政党』である。たとえ現実のきびしい国際政治のもとにあっても、ひとり超然として非武装平和の名のもとに反体制闘争に国民を巻き込むその感覚は、無責任時代の産物である。
・・・・省略・・・・
ソ連は決して平和勢力ではない(過去記事2月4日掲載)
昭和四十四年
左翼の学生やマルクス主義者は、「アメリカは戦争勢力であり、ソ連や中共は平和勢力であるから、アメリカと手をつないでいると、戦争に巻き込まれるおそれがある。だから、アメリカには日本から還ってもらって、日本は独立国となり、ソ連中共という隣国と仲よくして中立条約を結んでおいたら、日本は永久に平和で他国の侵略のおそれはない」ーなどという説をなすのであり、それを信ぜしめられている国民も多数あるけれども、それは全く事実に符合しない宣伝であるのである。日本がアメリカの空軍に広島、長崎を爆撃されて「日本弱し、抵抗カなし」と見たときに、ソ連が、日ソ中立条約を破って一方的に満洲、朝鮮、樺太に侵入して来たのであった。そのようなソ連国の性格を私たちは忘れてはならないのである。
・・・・省略・・・・
もし日本が分割されていたら(過去記事2月5日掲載)
昭和四十四年
・・・・省略・・・・
「なかんずく気の毒なのはドイツです。戦前のナチス・ドイツはヒトラーの指導の下に鉄の団結を誇る民族でありました。そのドイツは、戦いに破れて東西に分裂させられ、たとえば東京にあたるベルリンの町のまん中に国境線があって、旅行者はその国境線で厳重な身体検査を受けます。そして国境線では同じドイツ人が違った色の軍服を着て自動小銃をかまえて睨み合っているのです」
・・・・中略・・・・
日本がこんな状態にならなかったのは、ソ連の北海道進駐をゆるさなかったマツカーサー元帥と蒋介石総統の叡智ある処置に負うのである。われわれはこの恩恵を忘れないのである。アメリカに「還れ」といったり、蒋介石政府を国連から閉め出して、中共を国連に於ける中国代表者としようなどと考える者があれば、彼は破廉恥(はれんち)な忘恩者と評するほかは仕方がないのである。
『毛沢東語録』で進軍する中共(過去記事2月6日掲載)
昭和四十四年
ソ連に進駐されたら、こんな悲惨な状態になるはずだったが、中共の方は、はたして平和勢カであろうか。中共は、原爆水爆を実験していて、すでに中距離の弾道弾を開発中で、ソ連の各都市および日本全土は、その射程内にあるということである。それだから中共の御機嫌を損じないように、今から媚(こび)を呈しておかなければならないと容共派の政治家は考えているらしいが、それは敗北主義にすぎないのである。
中共は「みずから進んで最初の原水爆攻撃はやらない。世界から原爆兵器をなくするための抑止カとして、原水爆を開発しているのだ」とたびたび言明するけれども、『毛沢東語録』には、
「世界はただ武器によってのみ改造することができる」
「永久に戦争なき平和は、ただ戦争を通してのみ得られる」
「共産党員の一人ひとりが、みな『銃口から政権がうまれ出てくる』という真理を理解しているべきである」「革命の中心任務と最高の形態は武装による政権の奪取であり、戦争による問題の解決である。このマルクス・レーニン主義的な革命の原則は、普遍的な妥当性をもち、中国であろうが、外国であろうが、みな一様に妥当する」
・・・・中略・・・・
戦争をけしかけることによって、戦争を通して全世界に共産革命を起こそうというのが、毛沢東の理想であり、理論なのだから。
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つづく
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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天皇には基本人権も選挙権もない、象徴とはシルシ、符号であり人間ではないのである。
憲法復元か、革命か
象徴としての天皇の虚位について(過去記事1月28日掲載)
占領憲法は元首でない天皇、主権のない天皇、いつでも"主権をもつ国民“から馘首(かくしゅ)されても仕方のない虚位の天皇をつくったのである。主権が全国民にあるのだから、多頭国家ができあがったわけである。八岐大蛇(やまたのおろち)によって占領された恰好である。天皇は元首でないから、私が『憲法の正しい理解』の中で指摘しておいたように、「国賓を迎えられた場合、自衛隊の儀仗兵(ぎじょうへい)を閲兵する資格がないから、国賓が閲兵する間だけ、天皇はそっと片隅へ避けてしょんぼり立っておられる」と、武藤貞一氏も、「お気の毒で正視に堪えぬ有様である」と評しているのである。
天皇に主権がなくなったために、誰に主権があるかというと、国民のすべてに主権があるというわけであるが、実際は、国民は代議士を選挙のときに一票を投ずる権利があるというだけが民主主義というわけであるが、天皇には、一票を投ずることすら許されないのである。天皇には基本人権もなければ、選挙権も被選挙権もないのであり、一般国民には自分の名誉を穀損するような虚偽のことでも書かれれば名誉駿損で訴えることもできるが、天皇は悪口を書かれても、天皇は名誉段損で訴訟する権利もないのである。象徴というものはシルシであり、符号であり、人間ではないからである。
天皇に大権を奉還すべし(過去記事1月28日掲載)
天皇が「国家統治の大権」を一時喪(うしな)われたのは、天皇の発意(ほつい)ではなく、占領の圧力によって、占領軍の威圧による命令によって占領憲法が施行せられた結果である。だから、占領が終了すれば、「国家統治の大権」は自然に天皇に還って来るべきはずのものである。ところが、占領のドサクサによって、占領軍からもらった「国家統治の大権」を天皇に奉還することを怠って、それをよいことにして「国家統治の大権」を僭越(せんえつ)にも壟断(ろうだん)しているのが、日本国の総理大臣閣下である。日本の総理大臣が、占領軍から貰った「日本国家統治の大権」を天皇陛下にお返し申し上げないということは何たる不忠の事であろうか。だから、私は『占領憲法下の日本』の最後の章にも、よろしく自民党政府は、国家統治の大権を天皇に奉還し奉るように慫(すす)めておいたのであるが、何の反応も得られないのはまことに残念なことである。
なぜ、総理は大政を奉還しないか、その分析
(過去記事1月29日掲載)
天皇に大政を奉還すべしと私が説くと、"もと皇族"とかいう匿名の人から投書をいただいたが、それには、「現在の状態で天皇は、何の責任もなく、気楽であって、この天皇に再び国家統治の責任を負わし奉ることはかえって不忠のことである。現在の象徴天皇がもっともよろしい」という意味のことが書いてあった。しかし私が考えるのに、男子いやしくも此の世に生まれて、何の責任もなく、皆の決めたことに、自分の意見を述べる権利もなくただ判を押させられる役などになっていて、はたして生き甲斐が感じられるであろうか。何の仕事も責任も与えられないで、裕(ゆた)かに生活をする保障だけを与えられているものを、或る人は「飼い殺し」と名づけていた。誰でも平杜員から係長になり、課長となり、部長となり、重役となり、杜長となるべく努力をつづけているのは、一層責任のある地位について男の生き甲斐を感じたいからではないか。そして日本の総理大臣が、占領軍から貰った国家統治の大権を、占領が終ってからも天皇に奉還したがらないのは、精神分析的に観れば、やっぱり、男子いやしくも此の世にうまれて、国家統治の責任という最も大なる責任を担い続けていることが、どんなに気持がいいことかしれない気持があるからではないか。
つづく
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
憲法復元か、革命か
昭和四十四年
日本にも愛国者はまだいるのだ(過去記事1月22日掲載)
日本にはやはりまだ愛国者はたくさんいるのである。 ・・・中略・・・・
この力を互いに結集し、一つの運動体系にまとめあげて行くことにするならば、この日本の危機も無事切り抜けて、さらに、大日本帝国憲法を実際に、復元することができるに相違ないのである。
武藤貞一氏は「改憲か革命か二者択一のせとぎわ」というのを最近「動向」誌の特集号として出されたが、烈々たる愛国の至情に燃えていることを感ずるのである。武藤氏は次のじとく述べている。「"日本国憲法"即ち米国製憲法が、平たくいうといよいよ日本の命取りとなって来た。いまわれわれを拘束している占領憲法が、われわれの日本を崩壊へ追い込む万悪の因であり、その呪縛(じゆばく)から脱け出さない限り、日本は助からない。これは、もはや心ある人々のだれもが一様に痛感するところであろう」 ・・・・省略・・・ 日本を自然に自滅させる目的の憲法(過去記事1月23日掲載)
武藤貞一氏はいう。「もともと日本破壊の目的をもったこの占領憲法を護ってゆく限り日本は助からない。名は自由主義、民主主義だが、その実、恐るべき勢いで培養され繁殖されて来たものは共産主義ではないか……日本を共産革命の危機から、いま直ちに救い出さねば手遅れになる。それにはただ一事、米製憲法を廃棄し、改めて新憲法をつくることである。改憲こそが、革命暴カに立ち向かう唯一の方法であり、われわれは勇気をもって、改憲を断行するか、それとも革命勢カに道を譲るかの二者択一の関頭に立たされている」こういって今の憲法下では、諸君の知っている通り、裁判所の判事が革命勢カに味方していることを次のごとく武藤氏は指摘するのである。
「ゲバルターも裁判にかかると無罪になる。駅の構内を持兇器暴徒集団で埋めても、これを規制すると過剰警傭となる。憲法の"表現の自由“を侵すからだ。殺人も、時には判事の判決次第で無罪とされ、おまけに国家は多額の賠償金を殺人犯に支払わされるが、殺された方は殺され損だ。砂川裁判のように一地方判事が平気で自衛隊違憲の判決を下す。東大講堂の攻防戦には一万八干の機動隊出動。学生の暴状はテレビの映像で万人がまざまざと見せつけられているのに、この学生暴徒が一人として退学処分を受けず、犬学粉砕を叫ぶものを依然大学に止めて国家が莫大な税金を投じている……」
「新日本春秋」は旬刊五の日発行の愛国新聞であるが、われわれと同様に、その言論は、単に改憲ではなく明治憲法への復元を目標としている崇高なる精神に貫かれている。その四十四年五月十五日号の第一面杜説はまさにわれわれが言わんと欲するところを、きわめて端的にまとめているので、その一部を次に引用してわれわれと同じ憂国愛国の士がここにもあるのであって、吾々だけが明治憲法復元を説いているのではないことを知っていただきたい。
・・・・中略・・・・
― 占領憲法の弊害かくの如し ―
独立後十有七年の今年も、占領軍によって粗製濫造された「占領憲法」の記念日があり、そして「反米・反安保」を革命の突破口とする杜会党(今の民主党)一連の左翼勢カが例のごとく「占領憲法擁護」を呼びかけた。矛眉だらけの日本の現状をもっとも象徴的に見せつける一焦点である。
・・・・中略・・・・
組織の違法デモスト闘争の場合と同様に、「裁判がアテにならない」という大きな「陥し穴」がある。国家の統制カ、国家の権威を極度に罪悪視した「日本弱体化のための占領憲法」は反国家活動を助長するばかりでなく、杜会的には百弊万悪の根源となり、「公共の福祉」よりも「組織の利害、個人の権利」を優先せしめ、公共の福祉を最小限度に保持せんとする一切の法令も「違憲」の一語によってしりぞけられ、しばしば公共企業体の違法ストに無罪の「反公共的判決」があり、甚だしきは兇悪犯人の精神異常を理由に、拘置期間中の国家補償請求を正当とする没常識の判決まで現われた。世の乱れは当然であろう。
まことに要領よく、占領憲法の弊害を衝いているのである。
憲法の本質はいかにあるべきか(過去記事1月23日掲載)
「新日本春秋」の杜説は続いて、憲法の本質たるべきものについて次のごとく説くのである。まことに憲法は国家の基本憲章であり、その正否は国家・民族の運命を左右する死活のカギである。そしてまた、いかなる憲法の下にあっても、国家は憲法以前の儼然たる存在であり、その運用は歴史と伝統に基いて峻厳、慎重であらねばならぬ。明治憲法の下における道義日本の統一と国運の興隆発展、そして昭和敗戦のあとには深い教訓と啓示がある。明治憲法への復元を救国打開の目標とするとともに、その歴史的反省は当面する諾懸案の解決にも為政者の姿勢を正し、信念を鼓舞するために必須の心構えというべきであろう。
・・・・中略・・・
それは、日本民族の創造せる最も偉大なる文化的芸術作品であって、他の国の建国の歴史的イデオロギーであるマルキシズムや、民主主義や、共産主義をもって置き換えることのできないものであり、それを強制的に置き換えられたとき、その国は、すでに本来のその国ではなく、植民地国家となったのである。日本国は、アメリカ軍の日本を守る基地を日本の諸方にもっているから殖民地なのではなく、建国の個性ある精神の顕現たる歴史と伝統を表現する国家及び国民のあり方を表現する大日本帝国憲法を廃せしめられて、他国のイデオロギーで綴られた占領憲法を押しつけられ、もって、日本国家の個性と伝統とを埋没してしまったとき、日本国家は自己の精神を失って植民地国家となったのである。われわれがこの植民地的状態を脱する道は、日本を守ってくれているアメリカ軍に撤退してもらうことよりも先に、日本の精神を埋没してその上に植えつけた占領憲法を廃棄し、日本独自の明治憲法に復帰することなのである。日本の精神の復元こそ個性ある国家独立の復元ではないか。
・・・・中略・・・・
― 天皇親臨の下に審議九ヵ月、起草に四年を要した明治憲法 ―
明治十七年三月明治天皇は伊藤博文に憲法起草を命ぜられ、爾来四年間、伊藤公の下に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の三俊英が調査、起草に肝胆(かんたん)を砕き、二十一年四月漸く草案完成、直ちに枢密院が創設されて同年五月八目より憲法草案審議の御前会議が開かれ、
・・・・中略・・・・
日本自由主義研究所発行の旬刊新聞「国民の声」五月十五日号の杜説にも、いま日本に起こっている諸悪の根源は、この占領憲法とそれに基いて日本教育を牛じっている日教組の教育方針にあることを次のごとく述べているのである。日本国内の諸悪の根源は占領憲法にある
いまの日本に生起しているもろもろの奇現象と怪現象、それに、悲しむべきもろもろの諾悪の成因は、主として新憲法と日教組による日本教育の壟断(ろうだん)である。この事実は、科学者の冷静さとその狂いのない分析をもってすれば、きわめて容易につきとめることが出来るはずだ。
・・・・中略・・・・
もともとこの憲法が、占領軍によって日本弱体化の主要な武器として押しつけられたことは説明するまでもない。共産党や社会党などの左翼独裁勢力が、この憲法を暫定的に(?)金科玉条(きんかぎょくじょう)として堅持しているのもその点に理由がある。日本を弱体化して混乱激成し、一挙にめざす革命に導くのにこれほど便利ものはない。かれらは口を開けば“護憲”を言うが、それはここ当分、この憲法を利用したいからに過ぎぬ。もしかりに、めざす革命に成功すれば・かれらは弊履(へいり)のごとくこれを捨て去るのである。事実は、真ツ赤ないつわりの“護憲"なのだ。
つづく
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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特集 なぜ憲法をかえなければならないか!
現行日本国憲法前文の非真理性
はたして"人類普遍の原理"がこの憲法にあるか
(過去記事1月18日掲載)
ところで、新憲法の前文には「人類普遍の原理」に基づいてこの憲法が制定されたものであると宣言されているのであるが、この憲法に盛られているいわゆる"民主主義の原理"がはたして「人類普遍の原理」であろうか、はなはだ疑わしいと言わなければならないのである。 この現行憲法に盛られてあるいわゆる"民主主義の原理"なるものは唯物論であり、素粒子がすべてに先行して、それが結合して分子となり、さらに分子が結合して有機体となるように、事物の組成分たる構成単位が主権をもつという考え方である。そのような唯物論を国家にあてはめて、国家の構成単位であるところの国民ひとりひとりに主権があると定めているのであるから、国家の部分としての国民が幸福(この憲法では唯物論的な肉体的快楽を国民の幸福という)であれば、国家はどうでもよいというように定めてある憲法なのである。そこで国家を衛(まも)る自衛隊の存在も憲法違反だとして法廷で抗争できるような憲法になっているのである。
『無門關』第八則の"奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の"公案の如く、車をバラバラに部分品に分解して、"車"はどこにあるかと探しても、"車"は見つからないと同じように、国家を国家の形成部分要素たる国民にバラバラに分解して、国民に主権をもたしたら"国家"は見つからなくなる。"国家"が見つからなかったら"愛国心"はなくなる。現に日本国民の"愛国心"は非常に衰退しつつあって、テレビの街頭録音で、あらゆる階層の日本国民に「あなたは国家と家庭とどちらが大切に思いますか」という質問をしたのに対する回答を聴いていたら、回答者の八〇%は「国家よりも家庭を大切に思う」と答えたのに驚いたのであった。 ・・・・省略・・・
国家は生命である(過去記事1月19日掲載)
そのように考えてくるならば、国家という有機的生命体も、単位要素を結合して、国家をして「国家」という生命体とならしめるためには、単に"国民"ひとりひとりという単位要素が勝手気儘(きまま)に自主権をバラバラに主張して、寄合所帯(よりあいじょたい)を形成するだけでは不可能なのである。バラがバラの花を咲かせ、藤が藤の花を咲かせるためには、養分とか肥料とかいう単位要素が、ただ無定見にあつめられるだけではその個性ある花の形が成り立たないのであって、その養分とか肥料とかの単位分子を、バラの花の理念が優先してバラの花の形にそれを配列したとき、バラの花が咲くのであり、藤の花の理念が優先して、養分とか肥料とかの単位分子を藤の花の形に配列したとき、藤の花が咲くのである。生命体の形成には「理念」が単位分子に先行し、「理念」が単位要素を支配して、これを個性ある形に形成しなければならないのである。それゆえに「生命体である国家」も、国家形成の単位要素たる国民(民族個人)に先行して、その国それぞれの特徴ある国家理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられて、それぞれの特徴ある国家形態が成立するのである。 アメリカ合衆国にはその国旗(星条旗)によって象徴せられているような民主主義国家理念が、民衆合衆の姿に国民をあつめて、合衆国特有の国家形態を成しているのである。ソ連国家はその国旗(鎚(つち)と鎌(かま))が象徴するような労農階級が主導者となる国家理念によって、国民が統合せられているのである。日本はその国旗の"日の丸"が象徴するような、ただ日の大神を中心にして国旗の全領域が無色無心にその栄光を仰ぎ見るような国家理念によって国民が統合せられているのである。
ソ連の国家理念を合衆国に持ってくることが不穏当であるのと同じく、合衆国の国家理念をソ連にもってくることも妥当を欠くのであるが、(ここには人類普遍の原理などはない)現行の日本国憲法は、アメリカの民主主義国家理念にソ連の社会主義国家理念を少しばかり混入してソ連にも多少満足させて沈黙させておくための鵺(ぬえ)的理念で、"国民主権"という国家形成の単位要素に主権ありと定めた憲法を押しつけたのであるから、天皇が存在しながら、主権は天皇になく、国民にあり、天皇は基本人権すらないただの象徴(シルシ)という奇々怪々(ききかいかい)な文章をもって始まっているのである。おのおのの国家にはおのおの異なる個性ある国家理念があるべきなのに、アメリカ式民主主義に、チョッピリ、ソ連的社会主義的なものを加えた国家理念を押しつけて、これを「人類普遍の原理」であると誇称(こしょう)するのである。まことに驚き入った押しつけであるのである。 この憲法に基づいて、日本固有の"家"の美俗は廃止せられ、親孝行の必要はなく老人は社会保障制度で養い、教師は"言うまでもなく労働者"となり、生徒は教師を月謝で養っているのだと考え、大学生はストライキをする。これが人類普遍の原理であろうか。
国家形成に各国別々の理念がなく「人類普遍の原理」とやらいうもので共通されうるものならば、どうして自由主義国家アメリカと、共産主義国家"中共"とが、そのイデオロギーの相異によって争ったり闘ったりしなければならないのか。それは、国家形成の理念には「人類普遍の原理」などというものは存在しないからこそ、そして互いに自国の国家理念を他国に押しつけようとするからこそ、そこに戦争が起こるのである。 だから現行憲法の前文にあるところの「ここに主権が国民に存することを宣言し……これは人類普遍の原理であり」などということはアメリカが勝手に、自国の国家形成の理念に、ソ連の国家形成の階級闘争理念をチヨツピリ混じたものを、「人類普遍の原理」だなどともったいぶって押しつけたのであり、それが非真理性のものであることは明らかなことなのである。
日本国家形成の理念はいかなるものか
(過去記事1月20日掲載)
・・・・省略・・・・
「上は則ち天津神の国を授け給いし徳に答え」という建国の根元にわれらは注意しなければならないのである。日本国は「人間立国」の国ではなくて、「神より統治の大権を天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子々孫々たる天皇に下し給うた」という「理念」の具体化が現実の日本国としてあらわれているのである。
この理念が「大日本帝国憲法」(旧憲法)の第一条「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として明確に表現せられているのである。
・・・・中略・・・・
ここに注意すべきは、「國家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗二承ケ」とあることおよび「子孫タル者ヲシテ永遠二循行スル所ヲ知ラシム」とあることであって、この憲法は永遠に子孫に循行せしめなければならないし、しかも、その根本精神たる国家統治の大権は皇祖天照大御神および皇宗すなわち祖先歴代の天皇を通してそれを継承したところのものであって、この憲法の大精神は天皇の後嗣者および臣民および臣民の子孫たる者をして永遠に循行せしむべきものであると定められているのである。
「循行」とは命(みことのり)のままに循(したが)い奉って実行することである。この憲法の根本精神は「永遠二循行スル所ヲ知ラシ」めるのであるから、憲法改正のことを定めた帝国憲法の第七十三条「將來此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ」があるにしても、その条項改正には、おのずから制約があるべきであって日本の「国家理念」そのものや「建園の根本精神」たる「國家統治ノ大權ハ…之ヲ祖宗二承ケ」ということまで改定することを意味せずして、足りない条項を加えるとか、条項の文章が不適当であるのを改正するとかいうような或る限定範囲があるはずであるので、無制限の改正または、全然の書き改めを意味するのではないことは明らかであるのである。だから、帝国憲法のその第七十三条の改正条項に従って現行の憲法が合理的に制定せられたというのは一種の詭弁であり、偽装にすぎないのである。
・・・・中略・・・・
日本国民にとっては帝国憲法を「改正する必要」などはなかったのである。占領軍にとっては「日本弱体化のために」"改正の必要。があったかもしれないけれども、日本国の憲法を定める当事者たる日本国民には"改正の必要。などはなかったのであるから、この七十三条の「改正スルノ必要アルトキハ……」の改正条項にはあてはまらないのである。
・・・・中略・・・・・
だから日本民主化のために帝国憲法を改正するの必要はないのに、この改正条項に従って改正したと呼称するところに偽りがあり偽装があり、不合理があり、虚妄があるのであるから、この七十三条によつて改正したと称する現行の憲法は、法理論上から無効なのであり、それは帝国憲法に対しては違憲の大罪を強行したのであり、単にそれは占領軍の占領行政遂行の便宜上設けられた基本法であるから、占領終了と同時にそれは失効してしまっていて、すでに帝國憲法が事実上復元しているはずなのである。
ただこの大事実を認めて宣言し、天皇に助言して、それを公布せしめる勇敢にして真理に忠実なる総理大臣の出現を私は待ちのぞむばかりである。以上の理由によって私はどこまでも、現行の憲法は、帝国憲法に対する違憲によって生まれた奇型児であるから本来無効であると主張するのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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