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ゲリラ戦の実地演習

四十三年三月八日の東京・王子の米軍野戦病院反対闘争では、羽田、佐世保に於けるような、全学連が正攻法で体当たりして警官隊と激突したのとは異なり、戦術をかえて、一般市民の中にもぐり込み一般市民を盾にとってゲリラ戦を演じて警官隊を襲撃する戦法に出たのである。この戦法は成田騒擾では、一層それが組織的に行なわれ、市民の家に潜伏していて突然出て警官を襲撃するような、あたかも南ベトナムでベトコンがやっているようなゲリラ戦にまで発展した。こうしていろいろの戦術を試みて彼らは籠手(こて)調べをやっているのであり、いよいよ革命のときに、どのような戦術を混成して実演すればもっぱら効果があるかが、実地に演習せられているのである。政府はこれを甘く見てはならないのである。

しかも米軍野戦病院反対闘争に於いては社会党(今の民主党)が三派全学連に協力して町民に、警官に反対するよう、呼びかけたことである。これについて帝都新聞の三月十一付(四十三年)には次の如く書いている「なお八日の米軍野戦病院反対闘争で黙過できないことは、三派全学連の暴徒とは別個行動をとっていたデモ隊の先頭に社会党の広報車が配置され、ラウドスピーカーをもって『警察官がデモ隊に不当弾圧を加えています。区民のみなさんも一緒に抗議しましょう』と一般市民に呼びかけ、三派全学連の暴力を是認した態度を打ち出し、治安の一緒にたって苦労している警察官に公然と挑戦に出たことである。

われわれは、この社会党の在り方は、公党として断じて許されないと思う。ことに八日夜の騒擾のような場合、、この社会党の呼びかけは、群衆心理ー府和雷同(ふわらいどう)性を巧みに利用した革命の予行演習でなくてなんであろう。

ここに、はしなくも社会党の仮面、革命党の本質を露呈していると断じても決していい過ぎではなかろう。かく観じてくれかば、政府の暴徒に対する寛容な態度も、すでに限界に来ているといっていい。1日の偸安(とうあん)も許されない。よろしく破防法を適用し、政府の責任において学生運動のヒズミを是正すべきである」


                  谷口雅春著「私の日本憲法論」
 
平和憲法、実は内乱憲法
 
                     昭和四十三年

平和憲法””平和憲法と尊称を奉っ、て革新政治家や左翼寄りの新聞雑誌からもてはやされている現行の日本国憲法が、ようやくちかごろ三派全学連の騒擾(そうじょう)事件の実態をめぐって、決して平和憲法ではなく内乱憲法である事実を暴露して来た。二回にわたる羽田空港に於ける全学連の暴動、それから佐世保港に於ける原子力航空母艦エンタープライズ号入港阻止の三派全学連の暴動事件、それから成田空港建設反対の同全学連暴動事件、王子、新宿駅での暴動、そして東大闘争その他各大学の紛争。これらは、事前に、それらの騒擾が計画され、だいたい幾百名または幾千名の学生たちがその騒擾に参加するかも内偵されてわかっており、あるいは内偵まつまでもなく、大騒擾を起こすぞよと、あらかじめ、その騒擾の予告をおおっぴらに堂々と発表しているのであるけれども、騒擾が起こること必至、そのために数百人が負傷することが必至(その際、死者を生ずる可能性も含む)であっても、それを事前に取り締まることができないのは何故でるか。


それは現行の平和憲法ならぬ内乱憲法とも革命準備憲法ともいうべき、日本国憲法、が極端に集会の自由やデモの自由を強調しているし、思想、及び、表現、の自由を強調しているから、事前に集まっている国民の集団が、その思想が日本国顛覆(てんぷく)の思想であっても(思想の自由)また日本国顛覆のために集会しているのであっても(集会の自由)、それを取締まることは、現行の日本国憲法に照らして違憲となるからである

無論、凶器準備集合罪というのかあるそうだが、角材や瓦礫は建築資材であるから、それをいくら準備し携帯していても、それをもって戦闘行為にうつる(または人を擲(なぐる))その瞬間になるまでは、それは凶器と断定することができないのであるだから、闘争または擲(なぐ)り合いの現場になるまでは、どれだけ多数の人間が集合し、そのような見込み凶器を準備していようと、それを解散せしめることはできないのである。

それを未然に防ぐことができないのは政府に治安維持の能力が欠けており、日本国憲法を背景に、革新政党から「違憲」とか「取締まりの行き過ぎだ」とかいって攻撃されることを佐藤内閣が極端に恐れているからなのである現に佐世保事件では取り締まりが行き過ぎだと社会党(現民主党の中核では政府に抗議したのである。恐れ入った社会党ではある。

しかし、これらの騒擾は、学生数千によって行なわれたに過ぎないので、あの程度のことで一応おさまったのであるけれども、あのやり方で味をおぼえて、あるいは騒擾のコップをおぼえて、数十万の人数が「革命」を叫んで(思想及び表現の自由)諸方に集合し(集会の自由)、角材や丸太棒(成田では角材のほかに丸太や竹槍も準備された)をもって行動を始めたら政府はそれをどのようにして防止することができるか現行の憲法ではそれを防ぎようがないではないか。占領中につくられたアメリカ製の現行憲法はその成立が不合法にできたもので無効であることを明らかにするほかに、この革命準備憲法に護られているところの革命準備行動も、大量負傷者をつくること必然と予想される凶器準備行動も、それをとどめることはできないではないか。



                                             谷口雅春著「私の日本憲法論」
 
 
 
今後の政治の要諦は

このような左翼革命煽動家の乗ずるところとなるような隙をつくらないのが政治の要諦なのである。そのためには、国家の根本法規である憲法の筋を通すことである。

そもそも事の起こりは、占領行政の便宜上、占領軍が押しつけたニセモノの自称日本国憲法を温存したままで、詭弁をもって自衛隊などを作って政府みずから多数決の暴力で憲法を蹂躙するからである。政府は速やかに「現行憲法は憲法でなかった」と正直に素直に真実を告白すべきである。そして、「バラバラの国民主権の多中心国家」で、国民が指名した一公務員にすぎないものを、あたかも国家の統治の大権を有する者のごとくふるまわせぬことである。

すみやかに現行憲法の無効を宣言して、神聖なる伝統をもち給う天皇を、単に象徴ではなく真に国家の元首とし、主権者とし中心を多極化せずに天皇御一人に中心帰一する国家として日本国を復活せしめることである。

三島由紀夫氏が、『英霊の声』という創作において天皇を理想化して左の如く描きたるごとき、天皇中心国家、に引き戻すことによって、永遠に左翼革命家が純情なる青年を(煽動)して暴動にまでかりたてる隙なきようになすべきである。「皇祖皇宗のおんみ霊を体現したまい、兵を率いては向うに敵なく、蒼生(たみくさ)を憐れんでは慈雨よりもゆたかなおん方。われらの心は恋に燃え、仰ぎ見ることはおそれ憚(はばか)りながら、忠良の兵士の若いかがやく目は、ひとしくそのおん方の至高のお姿をえがいていた。われらの大元師にしてわれらの慈母。勇武にして仁慈のおん方。」
 
 
国民から選ばれ指名されたるあらゆる総理大臣は、何かの党の利益代表であり、国家全体の福祉と興隆とを代表する者とはなりえないのであるただ、天皇のみ無我無私にして、どの団体、どの政党の利益代表でもないのである。終戦に際しても「自分の体はどうなっても、できるだけ多くの国民に生き残ってもらって、日本国の再建につくしてもらいたい」と仰せられたのが日本天皇であるよろしく日本天皇を単に象徴としてマーク扱いして天皇から仁慈無限の人権を奪うことなく、国家の元首となり給いて、すべての国民が「唯一つの中心」に帰一し奉って一糸紊(みだ)れず秩序整然たる日本国たらしむべきである。

そのためには、占領暴力によって制定された占領憲法を否定し、「多中心国家」を「一中心国家」たる元に戻すべく、1日も速やかに占領憲法の無効を宣言し、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められたる帝国憲法の有効を宣言公布すべきである。これがあらゆる国内多党化による、国内闘争、ひいては生ずる赤色革命を防止する唯一の方法である。帝国憲法有効の宣言が1日おくれれば、それだけ日本国内の危機は増大するのである。革命は足音をたてて近づきつつあるのある。


                  谷口雅春著「私の日本憲法論」より


職業革命家に踊らされている純情な学生
                                            昭和四十二年

私は暴れた学生たちに多少同情的な言論を吐いたかもしれないが、憲法の不当性が原因となってその結果生じている社会事象を、結果だけ見て学生のみに罪をきせるのはまちがいであると思う。こうした社会事象が起こるのは、職業革命家に指導されて扇動されている
結果だと考える人も多いと思う。慶大教授の池田彌三郎氏(やさぶろう)も、「暴力行為を是認し、これを行動の出発点としているいまの学生運動家たちを、わたしは学生だとは思わない。彼らが学生の名を借りた職業革命家であることは、法政大学事件の経緯をみても
あきらかだ。職業的革命家たちに指導されている学生運動は、全く社会とのつながりを失い、不健全なものに堕落してしまっている。


ただおとなが真剣に考えなければならないことは、現代の日本の青年が希望を失っているという点だ現代では国家と個人が調和を失い、学生を含めて青年たちは情熱のハケ口を失い、欲求不満に陥っている。学生運動家とフーテン族とでは形はひどく違っているが、青年たちの自己表現の模索という点では変わりがないともいえる」と批評している。池田彌三郎氏のいう「国家と個人が調和を失い」という事象が起こったのはなぜであろうか。それ現行憲法が、一つ、の生きた国家の中心であらせられる 天皇から統治の大権を奪い、中心なき国家、バラバラの国家とした。そして多数国民がおのおの主権をもっていて自己主張をほしいままにし、それを言論の自由、行動の自由、表現の自由で、統一なくそれを行動に表現しようとするからにほかならないからである。

行政府の長官は内閣総理大臣であるけれども、それは、天皇のような神聖な伝統ある権威の中心ではないのである選挙の票集めに汲々としてお辞儀してまわった、われわれと同様、の国民の一人にすぎないそれが運よく当選し、さらに運よく多数党の総裁に選ばれた結果、「国家議員の中から国会の議決で」指名された者にすぎない。指名したのは国民であって、それは推挙したものでもなく「指名」したのである。(憲法第六十七条)だから首相というものは少しも国民に対して権威がない。権威がないくせに、それが国家の代表者のごとく。指名された以上は勝手な真似をするのである。そしてベトナム戦争を間接に援助したり。いろいろ国民(またはその一部)にとって気にくわぬことをする。主権は国民にあると考えているのに、総理大臣が国家の主権者のごとく国民(またはその一部)の意志に反することをする。

主権のある国民がその意志を言論や請願やいろいろの方法で、総理大臣のやり方は国民の意志に反すると表明しても、それを聴き入れない。すなわち総理大臣の行う「国家としての行動」が国民の意志に反する。単に国民の意志に反するだけではなくなく憲法違反のことも屁理屈をつけて行う。これが池田教授のいわれる「国家と国民とが調和を失い」である。

現行憲法にもとづく日本国のごとく「一中心国家」ではなく「多中心国家」であるかぎりにおいて、国民の意見はバラバラであり、われわれが指名した権威のない一公務員にすぎない総理大臣が憲法に違反することを平然とやるように見える場合、首相の行動に中心帰一することができないのは当然である。だから、そのような「多中心国家」においては常に、首相または行政府の長官は反対党によって叩き落とされる時期が来るのにきまっているのである。ソ連でも中共でも合衆国でも同じことである。これが現行の、占領軍に押しつけられた憲法下の日本国の、なれの果て、であるのである。

押しつけの暴力が、日本国家の神聖なる中心を奪い去り、中心に帰一しようと思っても多中心(国民主権)であるから中心は無数にあってバラバラの主張をして帰一するところを知らないで、自己を主張しようとするならば、暴力によるほか致し方がないようになっているのである多数の国民は、あきらめに似た気持ちで政治に無関心になっているのである。しかし若い純情な青年は、あきらめてはいられない。日本国家を救うために自分の理想を主張するには、暴力によるほかは仕方がないと考える。そこに職業革命家がこの種の純情なる青年学生を教唆し扇動して暴力革命にもって行こうとする危険をつねに孕んでいるのである。

池田彌三郎教授は、「彼らが学生の名を借りた職業革命家であることは、法政大学事件の経緯を見ても明らかである」といわれるが、あの事件でデモ隊が奪って乗った自動車に轢き殺された京都大学の文学部一年生、山崎博昭君(18歳)のごときが職業革命家であるはずはないのである。純情な文学青年が、国を愛するあまり職業革命家に扇動され、わざわざ京都から東京まで駆り出されて、踊らされたと判断するほかはないのである。

              
                      
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
 
 
暴力が暴力をよぶ占領憲法
                                   昭和四十二年
 
しかしその憲法そのものが、占領軍の銃剣をもって威嚇する暴力、の下において、この「憲法を受け入れなかったら 天皇の身体はどうなるかわからない」と脅かされて制定されたものである場合に、暴力を否定する理想の上からいえば、そのような暴力の下に制定された憲法は、占領という暴力が終了するとともに効力を失うべきものなのである。すなわちサンフランシスコ平和条約が結ばれると同時に、占領という暴力によって制定された現行憲法は合理的に失効してしまうべきなのである。

ところが時の内閣がアメリカに遠慮したのか、アメリカ製のこの憲法をそのまま習慣的に有効のごとく温存しながらアメリカの示唆によって、だんだん防備軍をつくり上げ、第九条の軍備放棄の条項を、無理押し、をして拡大解釈して、ついに現在の、自衛隊、をつくり上げていったのである。無理押し、というものは、たといそれが国会での多数の議決の形をとろうとも一種の暴力であるから、その改廃をせまるには、「平穏に請願」しているようなことで、この、無理押し、の暴力を排除することはできないのである

そこに、無理押し、の暴力に抵抗しそれを排除するためには、無理押し、の暴力のほか仕方がない、そういう考えが全学連 の潜在意識の中にある。全学連だけではなく、社会党などの潜在意識の中にあるにちがいないのである。社会党の代議士が、自党の反対の議案を阻止するためには、実力行使、をやるのは当然だとしているのがそれである。実力、とは内容をカムフラージュした、暴力、であって、結局、暴力なのである。

こうして暴力に対抗するに暴力をもってしなければならなくなっているのが、日本の政界の現状である。その淵源を探れば、占領という暴力で、現行の憲法が制定されたのだから、それは当然行き過ぎがあるから、政府ならびにその与党の詭弁や強弁によって多数議決の暴力で無理押しをして憲法の条文を曲解してもよいという、政府側の考えがある。これに対して革新派は、政府ならびにその与党が、多数決の暴力でやってくるなら、少数党や少人数の団体は、具体的暴力で戦うほかはない、「平穏に請願」などということは、ただの、作文、であって実効がないことであって、一種の空文にひとしい。

それよりも憲法第二十一条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という条項に基づいて、集会をし集団をつくり街頭行進をするという表現方法を用いて、日本がベトナム戦争に介入するというように印象を国際的にも国内的にも与えるような首相の行動を阻止したい、しかしその阻止行動を、警官隊がバリケードを築いて妨害する場合には、バリケードそのものが物質的暴力であるから、学生はその暴力を排除するために投石をし、バリケードに使っている自動車を焼いたり占領したりしなければならなくなる。学生がそのように暴力をふるうならば、警官隊はその暴力を排除するために、警棒をふるい、放水車で水圧をもって学生に対抗する。騒ぎはますます大きくなったのである。


                 谷口雅春著「私の日本憲法論」より



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