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なんということだ。組閣できなかった。
清浦子爵は組閣の大命を受けながら、
組閣をすることが出来なかった。
新聞は図書館のマイクロフィルムです。
大正3年4月1日付け 岩手日報
大命清浦子に降る
清浦子爵今朝十時御召により参内し後継内閣組織の大命を拝せり
●新内閣組織に着手
清浦子は新内閣組織の充分なる成算を有するものゝ如く直ちに大命を 拝受し新内閣組織に着手したり
ここまでは良かったが ・ ・ ・
大正3年4月8日付け
新内閣不成立
原因は海相の就任拒絶
・・・・・
▲清浦大命拝辞
清浦子今大命を辞し不明を謝す直ちに元老御召しとなる
▲大命拝辞顛末
清浦子は内閣組織の大命を辞するに至りし顛末を記さんに、海相
候補者たる加藤海軍中将は上京後調査を名として斎藤海相財部次
官等と密議を重ね諾否を明答せず五日に至り漸く清浦子と懇談し本
年度製艦費九百五十万円を責任支出とするか臨時議会を招集する
かの一を採るべしと迫り、六日決答すべしと約したり
▲入閣条件提出
(前略)
臨時議会招集は理由なく、且つ下院各派は皆清浦内閣反対を標榜し居れば、この際臨時議会を開かば劈頭に内閣弾劾案を提出さるべく、
(攻略)
海軍大臣は海軍から、陸軍大臣は陸軍から出されることになっていたようで、ここは海軍から入閣の条件を出されて、それを飲むことが出来なかったことにより組閣できなかった。
大臣になり損ねてがっかりした人もあったでしょう。
今の首相より権限が小さかった。
大命拝辞のための天皇の謁見はさぞ辛いことであったろう。
清浦子爵はその後、大正13年1月から同年6まで首相を務めた。
以下はウィキペディアより
清浦は枢密院議長から出て組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。
このようなことがあったという紹介です。
今日もおいでいただき、ありがとうございます。
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難しい言葉がいっぱいですが「超然主義」のウィキ読んできましたよ〜^^
藩閥・官僚から成る内閣は腐敗政治を生み出す根源になったと、勝手に推測しました。
何でも良いから大臣を賜りたい...と願う今の政治家も存在すると思いますが、大臣を辞退して組閣失敗ですか。
今で言う「身体検査不十分」ですね!
2014/11/21(金) 午後 0:09
う〜ん・・・こんなことがあったのですか知らなかった
当時は軍隊がかなりの権限を持っていたんですね。拝命した内閣でも他の政党は反対だったとは驚きですが、確かに当時の首相権限は大きくはなかったのですか。ここに来ると色々勉強になってありがたいです。ナイス!
2014/11/21(金) 午後 2:12
飛べ飛べさん
ありがとうございます。
海軍が大臣を出さなかったのは海軍の要望を通そうとする横車かとも思います。
組閣したかったら、要求を飲め。
また、下院(衆議院)が力があったということも分かります。
今日もキラキラ
2014/11/21(金) 午後 5:39
酔渓さん
戦前の内閣は室町幕府のようで、他の大名より少し強い程度。
家康はこれではいかんと、幕府と他の大名の差を大きくした。
それで260年維持できた。
「拝命した内閣でも他の政党は反対だった」
民主的な部分もあったんですね。
Y!ナイス! ありがとうございます。
2014/11/21(金) 午後 5:55