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 ブログ10年記念焼き直し(15)
   小学生が鳥をおろす。
平成20年10月18日(土)のブログの
焼き直しです。
これは昭和20年代小学生の時のことです

父は猟をやるので、冬はキジ、ヤマドリ、カモなどをとってきた。
小学生も高学年になると鳥のおろしかたを覚えて、おろすようになった。
毛を毟っておろした者が心臓、肝臓、砂のうなどを食べる権利があった。男兄弟はみんなおろすことが出来るので、食べたいので、自分がと希望した。
おろす手順はうまく説明できない。でもどうしてなのか、鳥の体は解体しやすいようにできていた。不思議なことだ。
初めから食べられやすいように体が出来ているなんて。
こんなことは近所でも我が家だけの特殊なことだった。
ノウサギのときはこれは父が処理をした。難しいから。
この方は解体しやすいようにはできていなかったのであろう。
 
 今日もおいでいただき、
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ブログ10年記念焼き直し(14) 
平成20年10月19日(日)のブログの焼き直しです。
 子供の小遣い稼ぎ(3)
これは昭和20年代で小学生の時のことです。

 祖母は古着の仕事をしていた。古着を買ってきて染め直したり、また取っ手を付けて手提げ袋を作ったりしていた。手提げ袋を作るのは母がやっていた。竹で作った取っ手がたくさんあった。あのころこの辺ではそのような手提げ袋が流行っていた。
私たち兄弟は祖母に頼まれて古着をほどく仕事をした。1日1着はほどいたのかな。2枚かな。
かみそりで縫ってある糸を丁寧に切ってほどいた。ま、たまには失敗して布の方に刃がいくこともあった。
祖母の仕事は家業とは別だった。だから手伝いはただではなかった。1着ほどくと5円だった。
また毛布のようなものを染め直したものに4周に短い毛糸を括り付ける仕事もあった。
これは川端康成の「雪国」に出てくる駒子も使用していたあの角巻(かくまき)だ。
大人に頼めば手間賃はもっと高かったのであろう。私たちは祖母の下請け職人のようなものだった。ま、どっちも商売、商売。
母も昔の嫁のこと、自由になるお金はない。祖母の仕事でいくばくかの小遣いを稼いで、たまの婦人会の旅行にも行けたらしい。
私もこんなことをやればこそ、ビー玉やめんこも買うことが出来、たまには紙芝居も見られたんだなあ。
 
祖母は祖父の後妻で商売っ気のある人だった。田舎のおばあさんにしては変わった人で、私たち兄弟は百人一首を教えてもらったり、他所のお祭りに連れってもらったりした。
関東大震災のときは東京で働いていて、それを体験したという。
(母に連れて行ってもらったことはない。自由が無いということ)
 
今日もおいでいただき、
     ありがとうございます。 
 
 
ブログ10年記念焼き直し(13) 
平成20年10月19日(日)のブログの焼き直しです。子供の小遣い稼ぎ(2)
これは昭和20年代のことです。

春になると庭にたくさんの水仙が咲いた。品種もいくつかあり、父が育てたものだった。父は水仙が好きだった。
父の許可があり、水仙を売ることが出来た。10把、20把と束を作った。花が咲いているものと蕾のものと組み合わせて花1輪に葉が4枚とした。生えているのが原則そうなっている。
花の大きさ、葉の大きさは子どもなりにバランスを考えたような気がする。
藁で束ねるが藁はしのを取って軽くたたいておく。使う時に水で濡らして柔らかくする。
クリを買ってもらった八百屋さんに買ってもらった。また、母が華道の先生に話をしてくれて、お稽古日には先生に持っていった。
1把、八百屋さんが4円、先生は5円だった。
今思えば、あんなちゃちな花束が売れるなんで信じられない。でも当時は春早い時期は花が少ない時期なので、売れたのであろう。
 もちろん農家の人もスイセンは育てている。
 その当時の水仙の球根を移植したものが、今でもあおぞらの庭で育っている。
 
 今日もおいでいただき、
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 ブログ10年記念焼き直し(12) 
 子供の小遣い稼ぎ(1)
平成20年10月19日(日)のブログの焼き直しです。
これは昭和20年代のことです。
小学生の収入源の一つに栗があった。

我が家(実家)で所有する栗林が小学校の裏のほうにあった。大きいクリの木が10本ほど生えていた。
拾いに行くときは早朝で薄暗いうちに起きた。朝靄が立ち込め寒かった。兄弟で行くこともあった。
夜に風が吹いた翌朝は急いで行った。自分ちのものなら、なにも急がなくてもよさそうなもの。でも林の近くの人に拾われてしまえばお終いだ。
つやつやした栗色の栗がたくさん落ちている。ニコニコ、うきうきして拾うんだ。
拾っているときに風が吹くと危ない。イガが落ちてくるかもしれない。
一応、拾う時、虫食いは拾わないようにした。多いときは5キロくらい拾った。
拾い終わったら、急いで帰って朝ご飯を食べて、登校した。
クリがだんだん溜まってくる。食べきれないので、小遣い稼ぎに八百屋さんに売った。
結構良い値段で売れた。これは兄弟の小遣いになった。
売るときに虫食いは除外した。これも捨てないで母が食べられる部分を取って栗ご飯の材料にした。私は好きだった。
今、兄は栗ご飯が嫌いという。なぜかと聞いてみた。
兄は栗ご飯は何回も何回も、嫌というほど食べた。それも栗がいっぱい入った栗ご飯。もうたくさん。
私は嫌いではない。昨日も食べた。

平成30年はよそから頂いた栗で1度食べただけです。
もう、栗林はありません。
 
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ブログ10年記念焼き直し(11) 屠殺を見てしまった。食べ物への感謝
平成20年10月17日(火)のブログの焼き直しです。
これは昭和31(1956)年のことと思う。
凄惨な場面の描写があります。
 中学生の時、屠殺場で、ブタを大ハンマーで屠殺するのを見たことがある。
中学校の学校田で稲刈りをしたあと、数人で学校へ戻る途中の屠殺場に寄ってみたのだった。
 屠殺人が大ハンマーを振り上げて、ブタを隅に追い詰める。豚は死を察してキーキー鳴いていた。そして豚の動きが止まった一瞬に屠殺人はハンマーを豚の眉間に振り下ろした。
 ブタはキーっと一声もがいて息絶えた。屠殺人は直ぐに喉を切って血を出した。
 これを「残酷」というのはきれいごとであろう。
 その日は弁当を食べることができなかった。
 随分前にある著名人が「自分で殺すことが出来るものを食べるのが、体に合っている」というようなことを言っていた。
 それだと私は小魚、小鳥くらいしか食べられない。しかしそれが正解かもしれない。
 ただ、現実には豚肉も牛肉も食べる。
 少なくとも、食べられる動物(豚、牛、鶏等)と、それを私たちに食べられるようにしてくれた人には感謝しなければならないであろう。
 前出の屠殺人だって決して楽しいはずがない。(その人は街の肉屋さんだった)
 そういう仕事をしてくれる人が居ればこそスーパーで肉だけを見て、おいしそうだと買って食べられる。
 単なる食べ物ではなく、命を差し出した物への感謝があってしかるべきであろう。あだや、おろそかにはできない。
 このことを書いていて生きるということは、他の動植物の犠牲の上に成り立っていることを私自身が再認識させられた。
 
 今日もおいでいただき、
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あおぞら
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