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特養の勤務シリーズ156 文集から(1) 奉公
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り集を作ってました。
寮母が聞き取りをしました。
そして、10集以上作りました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。
家族がこんなことは聞いたことがなかった、なんてこともありました。
ほとんどを私が編集長を務めました。 地方語で書かれてますので、共通語に直して書きます。 第1回目は生きていれば106歳になる女性のお話です。 今では考えられないようなお話ですが、当時の日本の実態でもあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は農家で生まれ、母親は私を生んですぐに亡くなりました。
兄1人と姉2人居ました。
父の後妻が6人の子どもを生んだので、10人兄弟になりました。
兄は男で、家督なので、学校に行きました。
私と姉達は「女は学校に行かなくていい。自分の名前さえ書ければそれでいいんだ」 と言われ、学校には行かせられませんでした。
近所の同じくらいの子どもが学校に行くのを見ると、やっぱり自分も行きたいと思いました。 姉の1人は紡績工場に行き、もう1人の姉は近所に女中奉公に行きました。
私も 8歳 の時に初めて奉公に出されました。 しかし、10日ほどで、「まだ小さ過ぎて、使い物にならない」 と家に戻されました。 9歳のとき、別のところに子守奉公に出されました。 2,3歳の女の子が1人居ました。 女の子がむずかって泣き続けると、主人は怒って、私を蔵に入れたりしました。 怖くなって、黙って家に帰りました。 家では当然歓迎されませんでした。 でも、そのまま家に居ました。 12歳になったとき、隣村に奉公に出されました。 そこには3歳の男の子と5歳と6歳の女の子が居ました。 「ねえちゃん、ねえちゃん」 と言って、よくなついてくれました。 仕事は子守とか掃除でした。 ありがたいことに近くの家に裁縫を習いに出してもらいました。 初めて着物の縫い方を教えていただき、またやさしい先生だったのでとても楽しかったです。 20歳で結婚するまで、そこで奉公をしていました。 お仲人さんが来て、男の人を紹介されました。 「いやだ」と言いましたら、「あまり年を取ると後妻しか紹介されなくなるよ」 と言われ、 「仕方がないんだなあ」と思い結婚することにしました。 奉公先の子どもたちが 「あねさん、わたしたちも行く」 と追いかけてきました。 子ども達には「すぐ帰ってくるから」とウソを言いました。 少人数の結婚式で、奉公先の主人夫婦も来てくれました。
夫は優しい人で、東京や樺太に出稼ぎに行ってました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略
子どもは女3人、男3人に恵まれました。
戦争から無事帰った息子は親孝行で、東京見物をさせてもらったり、熱海の温泉にも連れてってもらったりました。 でも、結婚し、子どもが出来てから病気で亡くなってしまいました。 ・・・・・・・略 若いうちは貧乏で苦労ばかりでした。 丈夫で働いていた頃が楽しかったなあ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
口減らし 食べ物を食べる口を減らすこと。 養っていけないので、他所へ出すことです。
当地でいう「奉公」とは、農家、商家、裕福な家などで住み込みで働くことを言います。 就職とは違い、給料ではなく、お小遣い程度をもらうだけです。 裕福な家に女中奉公した場合は、行儀・作法、料理などを教えてもらうので、嫁入り前の 行儀見習い的な面もあったといいます。 若い方には日本がこんな状態だったなんて信じられないことでしょう。
小学校にも行かず、8歳で見知らない他所にやられて、働くなんて。 本日も、お読みいただき、ありがとうございます。
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