|
豊臣秀吉の天下統一の戦いは北条攻めで一応終了しました。
しかし、奥州南部氏の世継ぎをを巡り、内紛がありました。
一方が九戸政実で、これを鎮めるため、九戸征伐として秀吉は徳川家康、伊達政宗、石田三成、蒲生氏郷、他の錚錚たる戦国武将の名を連ねた軍、6万人が九戸城に押し寄せました。
難攻不落の城に苦戦を強いられた秀吉軍は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺長興寺の和尚を使者に立てました。
持たせた手紙の中では政実の武勇を讃え、女・子供の助命を条件に降伏を説得させました。
謀略とは知らぬ和尚と、一人でも多くの一族郎党を救おうと和睦に応じた昌政実でしたが、開城した城内には火が放たれ、場内の者は撫で斬りにされたと伝えられています。
平成7(1995)年、二の丸大手門近くで九戸城落城直後に掘られたと思われる粗末な墓穴から、首のない人骨十数体が発見されました。これらには無数の殺傷痕や刺突痕があり、平成20(2008)年に東北大学医学部で再調査の結果、地元に伝わる伝承や後世の軍談記にある撫で切りの犠牲者と考えられている。
撫で斬り=①なでるようにして切ること。②多くの人を片っ端から残らず斬
り捨てること。 (広辞苑)
所在地は岩手県二戸市。
二戸にあって、どうして九戸かと思いましたら、九戸政実の出身地が
隣の九戸村という。
昭和10(1935)年に国の史跡に指定された。
(二戸市には瀬戸内寂聴さんが住職を務めた天台寺があります。)
ボランティアガイドさんが説明をしてくれました。
九戸城 鳥瞰図
刈り込まれたドウダンツツジは堀の端に安全確保のためのもの。
終戦直後は食料増産のため、畑になっていたという。
整備に要した費用は、ふるさと創生資金の一部が使用されたとのこと。
堀のはずれ
土塁
今日もおいでいただき、ありがとうございます。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2014年10月30日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



