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狩猟期間は終ったようですが、銃器に関することです。
今は見ることがない新聞広告。
鉄砲・ピストル・空気銃の販売広告です。
明治44年7月2日
2連猟銃 38円 東京日本橋、川口屋林銃砲火薬店
「現品を発送す」の文言が見える。
明治45年1月7日
6連発 95銭 大阪東区 砲専堂
高等玩具としてその筋の手数を要せず何人も使用自由自在の特典あり
「送料十二銭」とある。
大正元年12月14日
米国製千連発速射空気銃 5円50銭
発弾ピストル銃 90銭 大阪東区 キング銃砲部
送料を書いてある。
大正2年3月16日
ブローニング自働五連散弾銃 100円
ウインチスター製自働五連散弾銃 80円
東京市日本橋通 日本銃砲店
「代金引換郵便販売」の文言が見える。
この頃の100円は今ならいくらになるのでしょう。
大正11年10月6日
横浜市本町 金丸銃砲店 「定価票郵呈」
いずれの広告も通信販売のようです。
驚きます。
本物の銃砲も通信販売で
買える時代があったんですね。
この頃は中央からのさまざまな販売広告が非常に多いです。
今日もおいでいただき、ありがとうございます。
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新聞
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杉野は何処 杉野は居ずや
当地のテレビで12月30日に「坂の上の雲」の再放送をしてました。
日露戦争の旅順港の閉塞作戦の部分がありました。
船を沈めて、引き上げようをしたが、杉野という兵士の姿が見えません。
兵を大事にする廣瀬中佐は必死に杉野を捜しました。
しかしとうとう見つけることが出来ませんでした。
私はふとこの記事の新聞のマイクロフィルムのコピーがあるのを思い出しました。
スクラップ帳を出してみました。
ありました。
明治37年4月2日付け地方紙
廣瀬中佐、杉野兵曹長の名前がある。 そして、杉野兵曹長未亡人の談話も。
同地方紙の平成9年3月27日付け。
3月17日は第2回閉塞作戦で杉野兵曹長が戦死した日。
連合艦隊司令官 東郷平八郎
逓信省発行
記念絵葉書
日露戦役1次 明治37
(1904)年9月5日発行
逓信省では明治39年5月 発行の第5次まで 日露戦役関係の記念絵葉書を48種発行した。
明治39年4月29日発行、日露戦争勝利観兵式記念切手
お正月早々生臭いお話ですみません。
今日の平穏な生活に感謝しています。
今年も平和な年でありますように! |

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第1回国勢調査の様子
今年は第19回国勢調査です。あおぞらも調査員を勤めています。
地方紙で第1回国勢調査の様子を紹介します。
かなり事前に記事が出ています。何しろ初めてのことですから。
9月27日の記事
10月1日に煙火(はなび)を打ち上げる。
「はたび」とかなが振ってあるのは、お愛嬌。
企業の後援とのこと
9月30日、
調査員に望む。
この記事の末尾に、「東京電話」とあるので、この記事は東京に派遣されている記者が連絡したものと思われる。
同じ9月30日、 申告書は今日中に記入せよ
国を挙げての国調は
愈よ明日の午前零時
注意すべきことども
市は係員総出で市中を視察
10月1日
開闢以来初めての
国勢調査
昨夜半終る
面食らった
旅館と各病院
知事は際どいところで昨日仕事から帰って官舎で家族と名前を連ねた。
警察部長は警察部長会議で東京に行って、旅館で調査を受けたはずである。
昨夜半12時の現在で記入された申告書は・・・。受け持ちの調査員は午前8時か ら各戸を回って申告書の収集をする。
収集した申告書は4日までの間調査員の手で検査の上、5日照査表とともに市町村役場に提出される・・
第1回目は 1日の零時にいた場所で調査したのであろうか。
10月2日、
入念の手配効あり て 完全に行はれた
国勢調査
風俗営業も10時ま でとして、零時には 自宅にいるようにさせた。
・・・前夜の営業は十時を限度とし貸座敷は「当夜休業」の張り出しをした・・
大変な騒ぎだったようです。
ご来駕、ありがとうございます。
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家庭の鉱脈掘返せ
26日、ポスト62で 「 代用コンクリートポスト 」 を 載せました。
ポストも 鉄として 回収されました。 昭和13年から コンクリート製に 切り替えられたようです。
それに関連して、金属回収の新聞記事を 紹介します。 これは地方紙です。 マイクロフィルムを コピーしたものの スクラップ です。
現在の「 都市鉱山 」 とは 違うけれども、地下資源に恵まれない日本
としては 輸入がままならないので、地上資源に 頼らねばならなかったん
ですね。
昭和 16年 9月 1日 付け
家庭の 鉱脈 堀返せ けふから 鉄銅製品 回収実施
大動員が 施行されるが、・・・・。
・・・・、指定施設は 十人以上を 使用する工場を 始め店舗、銀行か ら 私立学校、病院、劇場など十九種に 及んでる。 之等は 強制徴収
であるから みだりに譲渡や 移転が 出来ず、指定期日迄に お上の御
用に 立てなければならぬものである。
・・・家庭に就いては 今回は 勧奨の程度で、強制回収の措置は とら れない、・・・。
昭和 16年 11月 1日 付け
あすから 金属回収運動 県民の愛国精神 資源回収協議会で 要望
県正庁で開会。
・・・・今般国家総動員法の規定を発動して民間に於ける
回収を実施することになった・・・。
昭和16年12月6日付け
さあ、家庭の ご奉公だ
鉄、銅の特別 回収決る
銅の回収に関しては、ラジオや新聞雑誌等で既に趣旨が徹底し・・・・・
・・・鉄や銅の地金の目方で売り放すということは仲々惜しい次第 だが、自分の体を捧げて弾雨のなかを進む兵隊さんのことを考えれ
ばなんでもない筈で、欣然回収に参加するとしないとは自分自身の
愛国心のバロメーターと言ふべき次第である・・・。
現に使っている鍋や釜を出せと言ふのではないが、それも鉄の釜 を出して、土釜で間に合わせ、鉄瓶を出してヤカンで間に合わせるこ
とができれば、家庭人としてこれにまさる御奉公はない・・・。
こんなご時世ではあったが。映画館の広告も載っている。
そして、2日後の12月8日に日米開戦で、
真珠湾攻撃が始まった。
ご覧いただきありがとうございます。
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昨日 書きましたように、世界の人口 20億のうち 6億人が 感染し、5000万人が 死亡しました。 日本では 39万人が 死亡しました。 ( 端的に、断定的な 書き方を しました。) 昨日に 続き、更に 新聞記事を 追ってみます。 大正 9(1920)年 1月 28日付け 手伝った者皆感染 近所の人が 恐れて 近づかぬ為 葬式も 出せぬ 始末 流感哀話 手伝った者 皆感染 近所の人が 恐れて 近かぬ為 葬式も 出せぬ様な 始末 昨報の如く 本県は 他に比して 流行感冒は 猖獗(しょうけつ)を 極めて居ると云う 程ではないが、医師が 不足なのと 手当てが 行届かぬ為とで 死亡者は 割合に多い。 従って 流感を 懼(おそ)るること 昔の 傷寒や 赤痢と 同然で、患者のある家には 出入を避ける状態である。 ・・・・・・ 流感の為に 死去した者が あるので、肉親の人達が 四、五名寄り集って 入棺をした が、其後二、三日 経てから 入棺 に加わった人達が 全部 流感に罹り 而も 容易ならざ る重態で 病床に呻吟している。 本県は 幸い 猖獗という程ではないから 斯る例は 即ち 例に過ぎぬけれども 若し 猖 獗となった暁には こんな 哀話は 頻々と 語り伝えられる事であらう。 大正 9年 2月 15日付け 穴掘り人夫なく 警察の力で埋葬 流感の生める悲劇 墓堀り人夫なく 警察の力で 埋葬 流感の 生める悲劇 会葬者なき 寂し 葬列が いくつも 続く 当局の 勧説は 妙な 方面へ ・・・・・・・ 悲惨な ローマンスが、屡(しばしば)繰返されている。 遂此間の事 同町赤浜 佐々木 末子松なる者 流感から 肺炎を 併発して 死亡した。 今日は 誰が死んだ、 昨日も 幾人 死んだと云ふ 気味の悪い 風聞に 脅かされて 居る付近の人たちは 恰(あたか)も 厄病 神が 身辺近く襲って 来たかのように 怯(お)じ懼(おそ)れて 誰一人 末子松の家を 見舞はふとせぬ許(ばか)りか 肉親の者さへ 彼の屍体に 寄り付かない。 斯(こ)うし て 永い間 抛(ほう)り出されていた。 屍体は 程経て 派出所の 知る処となり・・・・ 警察官、衛生組合の尽力で 辛くも 人夫二名を 狩り出し、滞りなく 埋葬だけは済ませ たと云ふ。・・・・
「当局の勧説は妙な方面へ」・・・町当局では やたらに出歩くなと 説得したのが、話が
効き過ぎて このような 状態になったと。猖獗・・猛り狂うこと。 病気など 悪いものの 勢いが 盛んなこと。 傷寒・・「変転極まりない熱性急性伝染病」? どんな病気か分りません。 この時期は第1次対戦中で、日本も参戦していたので、若者が少なかったのでしょうか。 このスペイン風邪のために 第1次大戦の 終結が 早まったとも 言われます。 皆さん、新型インフルエンザには お気を付けて ください。 ご覧いただき、ありがとうございます。
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