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特養の勤務シリーズ177
文集から(19)何よりの楽しみ
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。
楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
私は女ばっかり5人姉妹の長女だったのさ。 母親が体が弱かったから、妹達の子守をしたんだ。おぶってあやしたり、母親がおっぱい出なくて、おっぱい飲ませに病院に連れて行ったりね。
学校は尋常小学校の6年生まで通ったよ。
勉強は面白くなかったけど、国語とか作文を書くのは得意だったんだ。 学校に通ってても家の手伝いもいっぱいしたんだよ。
畑があったから、小麦やら小豆、大豆、う〜ん、いっぱい作ってた。 それらを買う人が車で来るので、売ったんだ。 それを売ったお金で姉妹が嫁に行くとき、箪笥とか下駄箱、鏡台などを買ったりしたんだ。 私は22歳で結婚して、家を継いだんだ。 でも、本当は就きたい仕事があったのさ。
和裁の先生か保健婦になりたかったんだ。
和裁は好きで、隣村の先生に習ってたんだ。 ほかの人の寝巻きとかあわせ、はんてんも作ったりしたよ。 保健婦のほうは隣町に行って勉強したんだ。 親達は勉強には行かせてくれたけど、いざ家を出てそれらになりたいって言ったら許してくれなかった。 長女で家に残らねばならなかったので、許されなかったのさ。 それで、泣く泣く家に居たんだよ。 それからは家の仕事をうんとしたんだ。
親達と主人とね。 もう、4時といえば起きて稼いだよ。 畑がいっぱいだから、畑に負けないようにね。 踊りも好きだったから習いに行ったりしたよ。
畑仕事が終って、夕飯食べてから、踊りの好きな友達が集まって先生のところに行ったんだ。 1回覚えれば、後は忘れなかったから、先生に褒められたもんだ。 秋田おばこ、佐渡おけさ、越中おはら、旅笠道中、色々踊ったなあ。 今、ここ(じいばあ園)にいても、誕生会とか慰問の人たちが来て、踊りを見せられるのが何よりの楽しみだね。
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この方のご主人はじいばあ園によく面会においでになりました。 そして、この方の手を握ってお話をしてました。
やさしいご主人でした。
あおぞらが退職してまもなく、あおぞらの父と同じ病院に癌で入院しました。
病院でご主人にお会いしたとき「あと3ヶ月だって」と言ってました。
その通りだったようです。
おそらくご主人にしっかり見守られてあの世に旅立ったものと思います。
今日もおいでいただき、ありがとうございます。
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特別養護老人ホーム
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特養の勤務シリーズ176
文集から(18) 悪夢のような
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
昭和20年8月9日、午前7時45分ころ、突然空襲警報のサイレンが鳴った。
朝ご飯を食べ終わってラジオを聴いていたが、爆音が聞こえてきたのだ。 雲の切れ間よりチラリチラリと見える。
敵の飛行機か、日本の飛行機か。分からないが15機だった。 友だち同士でガヤガヤ騒ぎながら見ていると、駅から5キロほどのところで、先頭の飛行機が翼を振った。
それを合図に急降下を始めた。急降下しながら機銃掃射や爆弾を投下して攻撃してきた。 まもなく、兄嫁が肩から背中に掛けて爆弾の破片を受けて即死したとの知らせがあった。 兄嫁は早朝に草刈に行った父の代わりに松根油の採集場に作業員として行ったのだった。 父が出かけた後に班長から各戸1人出るようにと連絡があり、父の代わりに出たのだった。 その日は従兄弟も機銃の直撃を受けて即死した。 他にも民間人、兵隊が数人亡くなったという。 隣の地区では2軒全焼したという。 翌日10日も夕方も機銃掃射があった。 その夕方に兄嫁、従兄弟の葬儀がひっそりと執り行われた。 寂しさがこみ上げてくるのを今でも覚えている。 そんなときに古老が言っていた。
「敵もこっちまで来るようになっては、もう戦争も終わりだなあ」と。 そして、予想は当たり5日後の15日に終戦となった。 このとき私は14歳だった。 あの戦争で兄達は戦争に行き、一人は硫黄島で戦死。
もう一人はニューギニアから生きて帰ってきたがその後、急性白血病で亡くなった。 その後、優しかった母は子宮がんで亡くなり、またさらにその後原因不明の火災で家が全焼してしまうなど不幸なことが多かった。
私は悪夢のような日々を乗り越え、父、母、兄弟に見守られて元気で暮らせる幸福に感謝しながら、早くなくなった人の分まで長生きしていけたらと思っています。
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この人自身も先天性と思われる身障者でした。でも理知的で穏やかで、あおぞらは彼が好きでした。 最期は舌癌で、入院先の医大病院で亡くなりました。 入院中は60キロほど離れた病院でしたが、2度見舞いに訪れたことがあります。(1度はA子さんも一緒でした) ご覧いただき、ありがとうございます。
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特養の勤務シリーズ 175
文集から(17)花の名古屋
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
私は17.8歳のころ、名古屋の毛織会社で染め方をして働いていたんだ。
仕事は朝8時から夕方5時までだった。
仕事の内容は50メートルくらいの長い反物をローラーに掛けて、染まるのを監視してたんだ。 ただ見てるだけではなく、染料を入れたり、機械の調子を見たりするんだ。 1台の機械で4反から5反を染めるので、見ないでいるとローラーに掛けてる反物がよったり、挟まったりするから、少しも目を離せなかったよ。 受け持ちの機械は4台だったけど、誰かが休んだりすると、その人の分も見なければならなかった。これは大変だった。
男物を染めるよりも、婦人物の明るい緑や赤色を染めるのは難しかったな。
戦争中だから、軍服用の布を染めて縫製工場に何日の何時何分までに届けなければならないからって言われて、2晩も寝ないで働いたこともあった。
忙しくて、いつも残業してたなあ。 あんまり眠くって、寝込んでしまって反物をローラーに挟み込んで傷を付けてしまったこともあったよ。 主任に叱られて、始末書を書かされた。やっぱりボーナスに響くようだっけ。 残業が多かったので、給料も多かったな。
給料を貰うといつも酒を飲みに行った。飲み屋に行けば、友達がいっぱい居て、楽しかった。 度々行くので、金がなくなっても「つけ」で飲んで来るんだ。 ちゃんと後で飲み屋の人が寮に取りに来るんだ。 私は寮に住んでいたんだ。近くに女子寮もあって、「お〜い、遊びに来いや〜」と呼ぶと遊びに来るんだ。
私もよく女子寮に遊びに行ったもんだ。女の人とお茶を飲みながら話しをするのが楽しかった。 この会社に長く勤めていたら、役が付いて、部屋長や寮長をしろって辞令を貰ったんだ。
私がろくでなしなので、なにか役を付ければ少しはまともになるだろうと思ったんだろうな。 でも、自分から門限破ったりしたんだ。
寮から出れば、今日は○○で泊まるからとか、遅くなるからって、門番に電話するんだ。
そうすると、門番に「泊まらないで早く帰って来い」って言われるんだ。 休みは第1と第3日曜日で、休みの日はみんな我先にきれいな女の子の居る飲み屋に行って飲んだんだ。
活動写真もよく見たよ。
名古屋に居た頃は俺も花だったなあ。楽しいことばかりだった。
この世は女の子と金だ。
これがなければ楽しみがないな。
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この人は寝たきりから、車椅子自力操行になった人です。 この事はこのシリーズの24、25(平成21年4月15,16日)に掲載してます。
この人は、ホント酒が好きでした。 じいばあ園では医師に止められなければ、酒を飲むことが出来ました。
このことはこのシリーズの26に掲載してます。
1日置きにミニカップ(1合の半分)を飲んでいた時期がありました。 ご覧いただき、ありがとうございます。
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特養の勤務シリーズ174
文集から(16) 時計職人
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
私はね、4つのときに母親が亡くなって、父親の男手で育てられたの。
でも、9つのときにおじの家に養女にもらわれたの。 おじの家は洋品店をやっていたの。その頃のことだから、赤ん坊のよだれ掛けや帽子なんか家で作って売ってたの。 その家でずっと育てられ、年頃になったら婿養子を迎えたの。 その人が時計の職人でね、時計店をやることになったの。 そして、引っ越したんだけど、これがひどい家でね。 屋根が杉の皮だったから、雨が漏って傘をさしてご飯を食べたこともあったよ。
今の家を買うようになるまで2人で一生懸命働いたの。
父ちゃんが時計の機械の仕事をして、私は店でお客さんの相手をしたり、時計の外側をピカピカに磨いたりしてね。 2人で一生懸命でしたよ。 父ちゃん?
いい男でしたよ。とってもいい男。そこらの俳優に負けないくらいいい男だったよ。
時計なんてまだ珍しい頃で、誰でもが持ってるものではなかったの。
町で懐中時計を下げてる人を見ると、「あの人、ハイカラだねえ」と言われるくらいだから、そんなに次々と売れるものではなかったね。 店だけでは生活が思わしくないので、私は賃仕事をして稼いだの。 呉服店や芸者さんの仕立て物の仕事。いつまでにという急ぎの時は夜なべでもなんでもやったもんだよ。 ちょうど、長男が生まれたばかりのころは仕事をしているときに泣かれてもなかなか乳も出なかったから、米で作った糊にようなものを少し甘くして、泣いたらそれをなめさせてね。 そんなことをしながら仕事を続けたもんだよ。 その長男が今はもう70になるところだよ。
長いようでいて、あっという間だったんだね。 私ももう90だもの。長いうちには1口では言えないほど色々なことがあったよ。 でも、丈夫で働いてるころが1番だ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
これは平成4年に聞き取ったものです。 最後の「あんたも頑張ってね。」は聞き取りの寮母に言ったものです。 70になるという息子さんも後を継いで時計屋さんでした。 じいばあ園勤続
15年の記念品
開園15年でもあります。
今日もおいでいただき、ありがとうございます。
またのおいでをお待ちしています。 |
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特養の勤務シリーズ173 文化祭様ざま
地域、学校、職場などで文化祭が行なわれたと思います。
じいばあ園でもやってました。(過去形) 開園の初年は大きな行事は敬老会とクリスマス・忘年会だけでした。
2年目から運動会や夏祭りが行なわれました・
文化祭は3年目から行なわれました。 第2回文化祭
見学の様子
食 券
第1回目の時は職員は食券の前売りをしました。 調理員側としては初めてのことなので、何をどれくらい準備すれば良いのか皆目見当が付かないので、前売り券でおおよその見当を付けようということでした。
第3回文化祭 年間の行事、クラブの紹介。
これらの内容は今までにかなり紹介しました。
地域友情作品コーナー
じいばあ園のご近所の人の作品です。
12回文化祭
あおぞらの発案で、趣向を変えて ファッションショー をしました。
これは昨年の11月15日にこのブログで紹介したものを、再度の掲載です。 着てみたいものの希望を聞いて、着てもらいました。
この花嫁、嬉しそうににっこりです。
男性は理事長です。 あ、それで花嫁の年齢は大きな声では言えないんですが、95歳なんですよ。 あおぞらが着てみたいものの希望を聞きに行きましたら、ウエディングドレスを着てみたいとのことでした。
文化祭が終ってからも、あの時は嬉しかった、楽しかったと何度も言われました。 角隠しの花嫁、ウエディングドレス。袴の女学生、女高生、男子学生、作業衣、野球のユニホーム、割烹着姿、他。
これは全員で撮ったものです。最後列はは介添え役の職員です。
衣装調達係りもよくこれだけの希望のものを揃えたと感心しました。
みんなに喜んでもらえてよかったです。
今日もおいでいただき、ありがとうございます。 またおいでください。お待ちしています。 |




