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特養の勤務シリーズ172 文集より(15)
死に目に会えず。でも・・・
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
明治44年に農家に生まれたの。
両親と姉との4人家族だった。 分校を卒業後、裁縫を習ったんだよ。 呉服店から生地を借りて、着物を縫って、それを呉服店に買い上げてもらったの。 2年ほどそのようなことをしたね。 16歳で、農家に嫁いだの。 だんなさんはとてもやさしくて、おとなしい人だったの。 だんなさんは農業の傍ら、結婚式やお葬式など大きな行事のときに料理を作る仕事をしていたんだよ。 お舅さんは体が弱くて、あまり働けなかったので、私が働きながら、お舅さんと3人の子どもの面倒を見てたんだよ。
子どもにいい服を着せたくて、毛を刈るウサギを飼ったんだ。その毛を刈って売って、服を買ったり、学費を払ったりしたんだ。 子どもが羽衣という劇に出て、それを見に行ったのがすごく楽しかった。 子ども3人揃って成績優秀で、学校から硯箱を貰った。 これも嬉しかった。 だんなさんが脳溢血で倒れて、入院したんだけど、家に帰りたいというので、家に連れてきたんだ。
私が1人で看病してたんだ。 そのとき、だんなさんが急性肺炎を起こしてしまったんだ。 私も鼻血が止らなくて病院に行って、注射をしてもらったんだ。
鼻血は止ったんだけど、私が病院に行ってるうちにだんなさんは亡くなってしまったんだ。
死に目に会うことが出来なくて、私はとても心残りだった。
それが、すごく悔しくて 悲しくて しかたがなかった。 苦労はしたねえ。
でも、私はいいだんなさんにも、いい子どもにも恵まれてとっても幸せだったよ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
今日もおいでいただき、ありがとうございます。
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特別養護老人ホーム
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特養の勤務シリーズ 文集から(14)
産婆をやった
大正7年2月に4人兄弟の長女として生まれた。
小学校を卒業するときに地元の女学校を受験して合格したけど、親から「女は学問も何も要らない」と言われ、とても行きたかったけど、断念した。 父親は頑固だったので、母親も苦労したなあ。 その後、北海道に行き、尋常小学校高等科に通った。 16歳のとき、父親が亡くなり、郷里に戻り、百姓をしたり、工場勤めをしたりした。 女学校に入るのを反対されてから、自分で手に職を付けてひとり立ちしたいと思っていた。
だから、産婆をやっているおばさんに憧れ、たった一人で仙台まで行った。
どうしても産婆になりたいという気持が通じたのか、縁あって菊池医師の義理のお兄さんの病院で働くことになり、働きながら助産婦と看護婦の資格を取った。 どんな苦しいことがあっても自分の選んだ道だから、いやだと思ったことはなかった。 戦争が終わり、結婚しても仕事は続けた。 電話もない頃だから、歩いて呼びに来られた。 生まれるとめでたいからとお酒をご馳走になったんだ。 それが楽しみでねえ。 しばらくすると、みんな病院で産むようになり、産婆の仕事はなくなったので、妊産婦検診や乳児検診をやった。
今思えば、働いてるときが一番幸せだったなあ。 今日もお読みいただき、ありがとうございます。
またおいでください。お待ちしています。 |
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特養の勤務シリーズ170
文集から(13) 疎開暮らし
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を 聞き取ってまとめたものです。
私は明治43年に新潟の旧家で生まれたのよ。
学校には女中に連れられて町立の小学校に6年通ったの。 それから職業学校に行くため、夜間補修を受けに先生の所に通ったの。 先生はさ、晩酌してて、そのそばで勉強したのよ。 それから東京の叔母の家で暮らしたの。
叔母さんの紹介で23歳で結婚したのよ。 その人は紳士服を作っていたわ。 戦争が激しくなったので、昭和19年に疎開をしたの。
「生めよ、増やせよ」の時代になって、東京に居たときに1男4女を産み、 疎開してから1男1女を産んだの。
4畳半のところに9人も住んでいたのよ。 農家に手伝いに行ったのよ。
なんたって、子どもが7人もいたでしょ。 田んぼの手伝いは肥やしを背負って、もちろん牛とか馬のフンなのよ。 重かったし、臭いし、それを手づかみで田んぼに散らしていったのよ。 そりゃあ、大変だったわよ。 稲刈りは稲束が結べなくて、手がとっても痛かったのを覚えてるわ。
それから田んぼに虫がいるでしょ。
そ、あれ、「はったぎ」。 ええ、「いなご」のことよ。 あれを取って歩いたの。 田んぼの稲の切り株があって、歩くのが大変。 でも、食べるものがなかったから、「イナゴ」を食べたのよ。 今は なんでもあるけど、あのころは なんにもなかったのよ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
当時の農業の様子が分かります。 このような仕事は都会から来た人には耐え難い仕事だったでしょう。
あおぞらも当時イナゴを食べたことがあります。 30数年後、長男が好きで、母に調理してもらって食べました。 珍味として売っていることがあります。 今日もご覧いただき、ありがとうございます。 また、おいでください。お待ちしています。 |
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特養の勤務シリーズ169 文集から(12)
あの頃は・・・
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り文集を作ってました。 寮母が聞き取りをし、第14集まで作りました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
私は大正3年生まれで、5人兄弟の2番目でした。 昔のことを思うと、家が貧しくて、苦労ばかりでした。
おばさんの家に世話になっていました。
昭和20年の終戦直前は、昼夜関係なく飛行機が飛んできて、その度に空襲警報が鳴り、防空壕に逃げ込んだもんだ。
昼間、畑で働いていて、防空壕まで間に合わないときは、近くの桑の木に登って隠れたもんだ。 私の身内では兄と弟が戦争に行ったが、兵隊に行く人を見送るときは女の人は皆白い割烹着を そして、みんなで 「丈夫で帰って来いよ〜」 と言って送りだしたのだった。
無事帰って来た人が居たときは その家に集まってお祝いをしたもんだ。
炭焼きで生計を立てていたおばさん家は田んぼがないので、配給される南京米やさつま芋、マメなどを大事に食べていたんだ。
おばさんの家に世話になっている間は炭焼きの仕事を手伝っていた。
実家にいたころも手伝っていた仕事だったから、さほど苦労には思わなかった。 朝、8時ころから山に入って鋸や鉈を使って木を切って、炭焼き小屋まで運んだんだ。
ボロを着て、食うにも困ったあの頃の楽しみといえば、月に1回くらいあった近くの学校で行なわれる映画を観に行くことだった。
映画は好きで、よく行ったよ。 終戦を迎えたときは 「あ〜、良かった」 と思ったよ。
戦争はたくさんだな・・・。
今日もお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
またおいでください。 日曜日は特養の勤務シリーズです。
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特養の勤務シリーズ168
ブドウ狩り
じいばあ園ではこんな行事もありました。過去形です。今はもうしていないそうです。
りんごの木は1本、契約してありました。 ブドウはある寮母の実家がブドウ栽培もしてました。
そこを利用させていただきました。
りんご狩り
これが美味しいそう。
ぶどう狩り
これ、取って。 はい、これですね。
左側の人は付き添いの寮母です。
介護保険になってから細かい仕事が増えました。
人手に余力がなくなったようです。
給料は安いし、その上仕事がきつい、ということで、この仕事が敬遠されて、なり手が少ないようです。
じいばあ園も段々楽しい行事がなくなってきました。
この特養の 勤務 シリーズは 昭和 60年からの ものです 。 用語は 当時のものを 使用しています 。 私は既に 退職しています 。 今日もご覧いただき、 ありがとうございます 。 |




