|
特養の勤務シリーズ 162 文集から(6)
正気になって良かった。
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り集を作ってました。
寮母が聞き取りをし、10集以上作りました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き 取ってまとめたものです。
家族がこんなことは聞いたことがなかった、なんてこともありました。 私は大正11年9月に生まれました。 ここ(じいばあ園)に来たのは4月とのことですが、その頃のことは覚えていません。
だんだんはっきりしてきたのは7月頃だったと思います。
看護婦さんや寮母さんと話したり、笑ったり出来るようになってとても嬉しいです。 家族が面会に来ても話が出来るのでとても喜んでいました。 そのころから民謡のテープを聴いたり、テレビも見たりしてます。 この頃はお昼には車椅子に起きて、ご飯が食べられるようになったので、のど自慢も毎週、ご飯を食べながら見ている。とても楽しい。 ここに来たばかりのときは何にも食べられなくて、経管栄養で鼻からだけだったんです。
夏の頃から少しずつ口からも食べられるようになりました。
お盆に家族が持ってきたとうもろこしも少し食べることができました。 それからだんだんお粥やご飯も食べられるようになって、今ではなんでも食べられます。
ああ、鮭やカニも食べたいなあ。 なんと言っても一番は 正月に家に帰ってみんなで餅を食べたい。 一日でもいいから、家に帰れればいいなあ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・ この方の回復にはあおぞらも大きく関与しました。 入所時は自分でも生きているという自覚さえ無かったと思います。 寝たきりで経管栄養で、意識がないような状態でした。
このうな方がこうしてお元気になる方は稀なことです。 今日もお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
|
特別養護老人ホーム
[ リスト | 詳細 ]
|
特養の勤務シリーズ161 文集から(6) 農家に嫁いで
じいばあ園では 入居者の生活の聞き取り集を作ってました。 寮母が聞き取りをし、10集以上作りました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 家族がこんなことは聞いたことがなかった、なんてこともありました 私は結婚して初めて農業やったけど、辛いとは思わなかったよ。 面白くって、面白くって。 私は大正12年に、米屋の7人兄弟の4番目として生まれました。
女学校にも行かせてもらいました。 女学校を卒業してからは緯度観測所に行って働きました。 そこを辞めてからは銀行に勤めたの。 銀行は結婚したので、辞めてしまったよ。 お見合いのとき、農家だってことは分かっていた。 でも、嫌だとは思わなかったよ。 姉達は皆、商いをするところに嫁いでいった。 実家でも田んぼは少しあったけど、他の人に頼んで作ってもらっていたので、農業はやったことがなかった。 結婚してからは起きるのも、3時かな、4時頃かな、起きて草刈に行って、6時頃に一足先に帰ってご飯作りをした。 子どもたちが学校に行くようになってからは、ご飯を作ってから起こして食べさて、学校にだしてやった。
田んぼは1町(1ヘクタール)以上あったよ。
平たいとこだけだと良いんだけど、膝上まで泥に入ってしまうような深い田んぼもあって、蛭に吸い付かれたりしたこともあった。 うん、素足でも嫌になったことはなかったよ。 今のような長靴はいつから履くようになったのかなあ。 みんな初めてやることだったので、楽しくって、楽しくって。
お米が少しでも余計に取れると嬉しかったなあ。 ああ、また やりたいなあ。
こういうところは良いんだけど。
こういう条件の悪いところは減反が優先的に実施されるんでしょう。
日照条件も悪く、冷たい湧き水がいつも流れているので、稲の生育は
悪いでしょう。
田植え機は使えるのかなあ。狭いし、深いし、で ダメなんでしょう。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
この方は じいばあ園が開園して間もない昭和60(1985)年5月に入所しました。
そのとき 61歳の若さで、そして車椅子した。
あれから もう 25年 も じいばあ園で 生活しています。 現在86歳、間もなく87歳になります。
8月が誕生日で、今もお元気です。 ご主人、息子、娘、嫁、孫、兄弟、面会の多いかたです。
あおぞらも担当をしたことがあります。
今でもときどき面会に行きますが、笑顔で迎えてくれます。
今日もお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
|
|
特養の勤務シリーズ 文集から(4) 重い石を背負いて
じいばあ園では入居者の生活の聞き取り集を作ってました。
寮母が聞き取りをし、第14集まで作りました。 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、聞いてもらいたい、そんな話を聞き取ってまとめたものです。 家族がこんなことは聞いたことがなかった、なんてこともありました。 お話が出来なくなったかたの分は子どもさんから聞いたりしました。 この方は、じいばあ園に入所した頃は、車椅子を自分で操行していました。
私は、山間部で、大正9年に、7人兄弟の4番目として生を受けました。 そして、昭和17年に結婚しました。 戦時中は出征した夫の留守を舅、姑、義妹等をともに守りました。 戦後、戦地から帰った夫とともに田畑の耕作、開墾と自然を相手の戦いに精を出しました。 二男、三男、長女と4人の子宝に恵まれ、貧しいながらも充実した日々を過ごしました。 3人の息子たちもそれぞれ就職し、やっと一息という折りに、夫と長男が入院してしまいました。 退院後、長男は職に復帰しましたが、夫は無理の出来ない体となりました。 そのため、私が一人で田畑を耕し、一家の生計を立てていました。 そして、苦労の末、家と納屋を新築しました。 しかし、その喜びも束の間で、田んぼの畔を直しに行った夫はその無理がたたり、昭和50年に帰らぬ人となりました。 周りの人にも支えられ、なんとか人並みの作物を作れるようになり、近隣の人とお茶を飲んだり、旅行も出来るようになりました。
さらにゲートボールの仲間にも入れてもらい、楽しみが1つ増えました。 昭和63年のこと、米の出荷を終えて、こ日も楽しみにしていたゲートボール会場へと いそいそと出かけました。
しかし、急に気分が悪くなり、救急車で病院に運ばれるという事態になってしまいました。 「くも膜下出血」 ということで翌日手術を受けました。
手術後は持ち前の頑張りで、懸命にリハビリに励む毎日でした。 その折りも折り、なんと長男が同じ病院に入院して来るという不幸に見舞われました。
平成2年、病院で長男に先立たれました。 リハビリの成果が上がったとは言え、右半身不随 という状態でした。
私は失意の中、同じ年に1年半の闘病生活の末、退院しました。
そして、退院後は じいばあ園 のお世話になりました。
「人生は重い石を背負いて長い坂を登るが如し」とか。 母の人生もそのような感じです。 以上は3男のかたの文章に、本人の話を付け加えたものです。
今日もお付き合いいただき、ありがとうございます。
|
|
特養の勤務シリーズ159 親子介護福祉士 参上
平成6年2月12日、東京は大雪でした。 と言っても、10センチそこそこでしたが。 なんと、息子と一緒にその雪の皇居を見下ろすことが出来ました。
もう、望んでも、こんなことは出来ないでしょう。
雪景色の皇居、きれいでした。絵のようでした。
皇居のお堀端の東京海上保険のビルの5階が会場だったのです。
雪で、各地の交通網も大混乱状態でした。
飛行機が飛ばずに欠席の参加者、遅刻の参加者。
講演をお願いしていた講師も到着が遅くなりました。
あ、その日は 「日本介護福祉士会」 の 設立総会でした。 (介護福祉士 は 国家資格です。)
息子は総会へは、県の代議員としての参加でした。
私は県の介護福祉士会の会長をしていました。
我が県は、会員数によって、代議員が5人とされました。
県の会員に代議員の出席をを打診しましたが、なかなか引き受け手がなくて、人数が揃いませんでした。 それで、会員である息子に出席を頼んで、代議員として出席してもらうことにしました。 私は 「日本介護福祉士会」 の設立委員もしていました。
当時は 男同士の親子の介護福祉士 は珍しかったものと思います。 今では珍しくないかもしれませんが。
設立総会は無事 成立・設立されました。
「日本介護福祉士会」 は平成12年に社団法人になりました。
同年9月にその祝賀会があり、私にも声が掛かったので、出席しました。
そして、懐かしく、そして会の設立、発足直後の苦しみをともにした面々と再会することが出来ました。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
|
|
特養の勤務シリーズ158 文集から(3)
健康は食生活から
文集は 楽しい話、悲しい話、一度は語ってみたい、 聞いてもらいたい、 そんな話を入居者から聞き取ってまとめたものです。
私は大正7年に生まれました。
昭和7年小学校高等科を卒業し、すぐに運送会社の仕事に就きました。 そして、運転助手をしました。夜は運転免許取得の勉強をして、2回目で合格しました。 それから、建設会社に就職しました。 戦争には3回召集になりましたが、内地勤務で3回目の時には運転が出来るので、青森県の弘前で、部隊長の運転手をしました。
戦後、近くで馬を買い、また馬車も買い荷馬車業を始めました。
まだ、トラックがほとんどない時代でしたので、食料、生活物資の運搬は荷馬車が主流でした。 荷馬車業は地方の運搬業の主力でした。 父は朝鮮牛と2輪の牛車で小運搬を行い、薪、木炭などの運搬に励み、親子で忙しく働きました。 町内の小学校へはストーブ用の薪などを納めました。 年を追うごとに忙しくなり、夜、寝る間も惜しいほどでした。 しかし、働けば働くほど体が資本であることが身にしみて、元気で働くためには健康が1番で、食生活が大切と考えました。
そして、食料のなかでも動物性たんぱく質を摂取することが1番と考え、養豚業を始めました。 子豚の多産の種豚の購入や子豚の貸付など、また近隣町村へ成豚の購入にも出かけました。 しかし、資本と苦労の割には利益が上がりませんでした。
それで、豚肉専門店を始めました。 その後、店は長男に、次男には豚舎建ててやり、養豚をさせました。
(この方は話が出来ないので、長男の方が書いてくれたものです。)
あおぞら 注 : 戦後数年間、小運送は馬車が活躍しました。 トラックは少なかったです。
: 子どものころ赤毛の牛を「朝鮮牛」と呼んでいました。 今日も、お付き合いいただき、ありがとうございます。
明日から3日間お休みします。
|




