又次郎日記

今日も古びた日記を解読中!!!戦前昭和アナザワールド…(研究室に引きこもり気味で、更新が滞ってます、駄目だこりゃ☆)

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曽祖父の日記を更新☆
また日付が戻ってきましたので、お気をつけて。

1936年3月27日の世界へどうぞ!!
昭和十一年三月二十七日
金曜 気温 19.0 -1.8 天候 晴后曇  宿直

休暇中皆ナ朝寝するので予一人忙し定刻ギリギリに出社。

朝から雑務で相当忙しかった。矢田地区の道路舗装に伴ふ

バス路線変更の申請□や日本車車両のガソリンカーに関する件や

何ヤ彼ト 頭が甚だ不健康なり。

 宿直勤務に服す。五時半から一寸宅で夕食をヤル

電話一つかかって来ぬ静かな晩だった。それでも丁度床に入った

12:20分頃バラバラと雨が来た。スグ止ム。

商工大臣、川崎卓吉氏(66)本日逝去セラル。広田内閣の

組閣参謀長だったが親任式当日の閣議に出た切りで臥床。

以来約二週間だ。人の命は測り難し。


/…こちら現代…

『川崎卓吉』って誰???

…この人を調べる人はほとんどいないのでは?と思ってしまうほど、 マイナーな 政治家ですが、
意外と戦前の日本で、いいポストについている人でした(笑)
●川崎卓吉(立憲民政党→貴族院所属:同和会) 
広島県賀茂郡広村 出身
名古屋市長 10代目  川崎卓吉 1922年4月1日 1924年6月11日 
濱口内閣(はまぐちないかく)法制局長官 1929年7月3日〜1931年4月14日 
岡田内閣(おかだないかく)文部大臣 1936年2月2日〜同3月9日 
広田内閣(ひろたないかく)商工大臣1936年3月10日〜同3月27日

広田内閣では、
最初は『内務大臣』に就任するはずでしたが、
陸軍からの組閣干渉の際に(吉田 茂などの入閣を拒否した)ついでに
『「川崎卓吉」のごとき党人を、内相にすえんとすること。』
と名指しされてしまい、
結局、『商工大臣』におさまった人。

1936年3月27日 66歳で死亡
(後任:小川郷太郎 昭和11.3.28-昭和12.2.2 民政党 )

実はこのひと1936年2月20日の選挙では、
『立憲民政党 205議席  総裁=町田忠治、幹事長=川崎卓吉』
ということで、名前が載ってました。
幹事長だったとは…しかも

『広田内閣の組閣参謀長だったが親任式当日の閣議に出た切りで臥床。』
なんてことは、初めて知りました。
この広田内閣、次々とポストが変わりました…
というよりも、陸軍の強引な組閣干渉のせいで、「空きポスト=兼任でどうにかした」
というパターンが多かったようです。

広田内閣についてはコチラ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/obiobi773/28930852.html?p=1&pm=l

ついでに、  しばらく広田弘毅が「首相 兼 外相」ということで、
兼任していた外相もこの後すぐ、決まりました。

戦後、三島由紀夫の「宴のあと」で有名になった、『有田八郎』です


有田八郎 (ありた はちろう) 外務大臣⇒昭和11.4.2-昭和12.2.2 
戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩
序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は
戦前と対照的に革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名。

三島由紀夫の「宴のあと」で日本最初のプライバシー裁判を起こした人として有名。

1936年:廣田内閣に外務大臣として入閣。日独防共協定を締結。 
1938年:第1次近衛改造内閣の外相、貴族院勅選議員。 
1939年:平沼内閣の外相。 
1940年:米内内閣の外相。 
1945年7月9日、『大東亜戦争終結に関する上奏文』を昭和天皇に提出した。(外務省顧問)

1959年:都知事選に再び革新統一候補として挑戦するが落選。 
1961年:三島由紀夫の「宴のあと」をプライバシー侵害として訴える(有田の死後和解)。 

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