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英語、台湾系の漢字、フランスかポルトガル語もしくは中東系か東南アジア言語 それでいいんだよ メディアが伝えるグローバル化で世界一優秀な韓国人には英語で十分なはずだろ??違いますか??
JR東日本は、訪日外国人旅行者向けに、2016年8月20日から駅ナンバリングの導入を始めた。新たな駅名標には駅の番号に加え、日本語、英語、中国語、韓国語の4か国語による駅名が表記されている。同時期に、東京メトロでも4か国語表記が出来る新型の表示器の導入が開始され、19年度にはメトロ全線での設置を予定している。
外国人観光客が読みやすいように、という目的に始められたこれらの取り組みだが、このうち韓国語について、その表記が一定せず、複数の表記が混在している状況が続いている。
・− −・・ −− ・・ ・−・ ・− ・−・・ ・・・・ ・ ・−・・ ・−−・ −− ・予算の無駄遣いは止めて、バリアフリーの強化とホーム転落防止柵優先にすればいいのよ。
消す手間賃も無駄だから上に別の言語記載したシールでも貼ればよいではないか。
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バテレン追放令概説豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化されていることを知らされた。これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め、この翌日の6月19日(7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
『天正十五年六月十八日付覚』原文
(大意)
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。
以上 天正15年(1587年)6月18日 ◆鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249〜 P282より
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。 『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。 鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。 しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。 キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」) 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。 「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。 秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。 池本幸三/布留川正博/下山晃共著 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』 人文書院、1995年、 第2章コラム、pp.158-160 より転載 |
ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易概要アジア人の奴隷ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本人を日本で奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した[1][2]。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。
日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。王であったセバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきていたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ているのではないかと懸念し、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[13][14]。
日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている[15]。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた[16][17]。
豊臣秀吉は自国の民である日本人が九州において大規模に奴隷にされていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人とタイ人とカンボジア人に命じ、日本人を買い付けて奴隷にすることを中止し、インドにまで流れ着いた日本人を連れ戻すよう言い渡した[18][19][20]。秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された[21][22]。
文禄・慶長の役で捕虜として日本に囚われていた数万人のうち一部の朝鮮人もまた奴隷としてポルトガル人に買い付けられてポルトガルに連れて行かれた[23][24]。 歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買に立腹し激怒したが、同時に秀吉自身も日本における朝鮮人捕虜の大規模な交易に関わっていたことを指摘している[25][26]。
ポルトガルの首都リスボンには少なくとも1540年には中国人の奴隷がいた複数の記録がある[27]。現代の歴史家によると、中国人が初めてヨーロッパを訪れたのは、ポルトガル人侵入者におそらく中国南部の沿岸で奴隷にされた中国人の学者がポルトガルに連れて行かれた1540年(あるいはその数年後)という。その中国人はポルトガルの歴史家ジョアン・デ・バロスに購入され、共に中国語の文書をポルトガル語に翻訳する作業に従事したという[28]。
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[29]。1562年10月23日に記録された遺書には、エヴォラに住んでいたドナ・マリア・デ・ビリェナ(Dona Maria de Vilhena)という金持ちの上流階級の婦人のアントニオという名前の中国人奴隷についての記載がある[30][31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41][42][43]。アントニオはエヴォラにおいて男性の奴隷に付けられた3つのありふれた名前の1つだった[44]。
D. マリアは彼女が保有していた奴隷の中で特に彼を用い、彼女のために仕事を言いつけていた。それはアントニオが中国人だったからである[45]。D. マリアが保有していた15人の奴隷のうち、中国人奴隷が1人、インド人が3人、改宗イスラム教徒が3人であったことは彼女の社会的な地位が高かったことを表している。なぜなら中国人奴隷、改宗イスラム教徒奴隷、インド人奴隷は奴隷のうちで評価の高いものであり、黒人奴隷と比べて高価であったからである[46]。彼女が死んだ時、D. マリアは12人の奴隷を彼女の意思と遺言により自由の身分にしており彼らに合計1万〜2万ポルトガルレアルのお金を遺している[47]。マリア・デ・ビリェナの父親は上流階級の男性で探検家のサンチョ・デ・トバル(Sancho de Tovar)でありソファラの提督であった。彼女は二回結婚し、一回目の結婚相手は探検家のクリストバン・デ・メンドンサ(Cristóvão de Mendonça)であり、二回目はディーウの提督のシマン・ダ・シルベイラ(Simão da Silveira)であった[48][49][50]。
中国人の子供たちはマカオで誘拐され、まだ幼いうちにリスボンで売り払われた[51][52]。フィリッポ・サッセッティ(Filippo Sassetti)はリスボンの大規模な奴隷集落において、大部分の奴隷が黒人だったものの、いく人かの日本人、中国人の奴隷を見かけたと報告している[53][54][55][56][57]。
ポルトガル人は中国人や日本人などのアジア人奴隷をサハラ以南アフリカ出身の奴隷よりもずっと「高く評価していた」[58][59]。ポルトガル人は知性や勤勉さといったものを中国人や日本人奴隷の特質であると見なしていた。このことが奴隷としての高い評価に繋がった[60][61][62][63]。
1595年にポルトガルにおいて中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定された[64]。
マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易16世紀以降、ポルトガルは中国の海岸部に交易のための港と居住地を確保しようとした。しかしながら基地を確保しようとする初期のこのような活動は、例えば寧波や泉州において行われたが、中国人に壊滅させられてしまった。引き続いて今度はポルトガル人入植者が暴力的な侵入を行い、略奪をし、しばしば奴隷狩りを行った[65][66][67][68][69]。 ポルトガル人のこのような振る舞いに対する不満が中国側の省の長官に届き、ポルトガル人の居住施設の破壊とその居住者の一掃が命じられた。1545年に、6万人の中国兵がポルトガル人が住み着いていた場所を急襲し、1,200人の居住者のうち800人が殺害され、25艘の船と42艇のジャンクが破壊された[70][71][72][73]。
マカオでは、ポルトガルの初期植民地時代にあたる17世紀中葉までに、約5千人の奴隷が居住していた。さらに2千人のポルトガル人と、増え続ける中国人がおり、中国人は1664年には2万人に達した[74] [75]。 奴隷の数はその後数十年の間に千人から二千人へと減少した[76]。ほとんどの奴隷はアフリカ出身であった。しかしアジア一帯からの出身の奴隷も含まれていた。すなわち、中国人、日本人、マレー人、インドネシア人そしてインド人である。そのほとんどが女性で、多くはポルトガル人の現地妻となっていた[74] [77]。
1622年6月24日、オランダ共和国がマカオの戦い(Battle of Macau)においてマカオを攻撃した。目的はこの地域をオランダ領にすることであった。オランダ軍はコルネリス・ライエルスゾーン(Kornelis Reyerszoon)隊長に率いられた800名の強力な侵略軍であった。数的に劣勢であったポルトガル側はオランダ軍の攻撃を撃退し、攻撃が繰り返されることはなかった。ポルトガル側の大多数はアフリカ人奴隷であった。
そしてわずか2〜30人のポルトガル人の兵士と司祭が支援したが、この戦いの犠牲者の大多数はアフリカ人奴隷であった[78] [79] [80] [81]。敗北の後、オランダの総督のヤン・クーンはマカオの奴隷たちについて「我々の民を打ち負かし追い出したのは彼らだ」と述べている [82] [83] [84] [85]。 1800年代の清朝の時期に、イギリス領事は、ポルトガル人が未だに5〜8歳の子どもを人身売買していると記している[86] [87] [88]。
1814年に嘉慶帝が大清律例・礼律・祭祀の「禁止師巫邪術」の項に1つの条文を付け加えた。これは1821年に改訂が行われ、1826年に道光帝によって公布された。その条文により、ヨーロッパ人、すなわちポルトガル人キリスト教徒で、キリスト教への改宗を反省しない者については新疆にあるイスラームの都市に送り、奴隷の身分にするとされた[89]。
奴隷の取扱いポルトガルへの輸送の途上では、奴隷たちは縛られ、手錠・南京錠および首輪によってお互いにつなぎ合わされた[90]。ポルトガル人の所有者らは、奴隷たちが死なない限り、奴隷を鞭で打ったり、鎖で縛り付けたり、高温に熱した蝋や脂肪を奴隷の皮膚に注ぎかけたり、好き放題のやり方で奴隷に罰を加えた[91]。 ポルトガル人は奴隷が自分の財産であることを示すために人間用の焼き印も用いていた[92]。
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