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15年の節目にあたった昨年は日曜日だったので、早朝の東遊園地で家族で献灯・黙祷することができました。ボクらは普段大阪で暮らしていますが、本籍は神戸市長田区に残してある、そんな家族です。地震を知らない小学生の娘と献灯しているところがNHKの昼のニュースで放映され驚きました。語り継いで行く姿として映ったのでしょう。
今年は平日なので一人で午後5:46の黙祷に行くことにしました。 あの日も今年と同じく週明けでした。被災当事者ならば、このことを覚えている人が多いと思います。 ゆったりとした休日の時間の流れから、慌しい平日が始まろうとしている、そんな時でした。そのとき、自分は何をしていたか、何をしようとしていた日だったのか、被災者は忘れられないのです。 暗かった。街中の電気が消えて、暗かった。夜明け前だったのですね。 寒かったはずだけど、すぐには感じられませんでした。全部夢だと思いました。現実なのに受け入れられなかったのです。 そんなボケたヤツは自分で生きられない、死んでいてもおかしくなかったと思います。なのに何をどうまちがったのか、ボクは生かされました。 翌日以降、被災地へ向かう人は皆、何かしら荷物を背負って歩いていました。冬が終わり、春になってもそうでした。 大阪駅では、東へ向かう人と西の被災地へ向かう人とでは、まるで先進国と昔の途上国ほど服装に差がありました。逆東西格差です。 今年、ボクは灰色の服を着、荷物を背負って東遊園地へ歩くことにしました。 会場に入る前、市役所の1階でトイレを借りました。市役所の建物の中にわざわざ「市民トイレ」という看板が出してあります。じゃあこの市役所、トイレ以外は「市民市役所」じゃないのか?きっと「役人市役所」なのだ。 ともあれ、あのころトイレで苦労したことを思い、感謝して使わせてもらいました。 会場に入り、献灯→記帳→献花→募金→黙祷 をさせてもらいました。行為の一つひとつに胸が震える思いでした。 竹灯篭に入れる杯状のろうそくと、それに火をつける長いろうそくとを、テントでもらい、「1995 1.17」の「5」のところに献灯しました。 別のテントで記帳をすると、茎が1cmだけついた白菊の花を1輪くれました。それを2000年にできた慰霊と復興のモニュメントの池に献花するのです。それからモニュメントの地下に入り、祈りをささげました。 (写真:慰霊と復興のモニュメント地下から見上げる献花の水面)
記帳と献花は神戸市の行事なのですが、竹灯篭はNPOなどの実行委員会によるセレモニーで、経費に見合う収入が必要です。別のテントで募金をするとリーフレットとひまわりの種をくれました。
45分になると会場に時報が流れます。「黙祷」の号令、今朝は無かったようですが、夕方にはありました。この声の主、去年から新しい声になっています。前の実行委員長 梶明氏は2009年に亡くなったのです。黙祷の時間がずいぶん短かったんじゃないかな。今の委員長は、まだ慣れておられないのかな。 出口へ向かう途中、当時を再現した炊き出しが準備されていました。(写真) 別のテントでコーヒーをもらうと、スターバックスでした。暖かく、甘く、おいしかった。沁み渡りました。 水が無いので洗い物ができなかったあのころ、ちゃんとした店でも露店のような使い捨ての器に入ったラーメンや丼しか出せず、それでも湯気の出ているものがいただけることはお金を払ってもありがたいと感じた、そんなことが思い出されました。 |
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16年前の1月17日、寒い寒い日でしたが、しばし寒さを感じないくらい怖さとすごさに身が震えていました。
暖房をとる手段もなく、次の日から震えていたのを覚えています。仕方がないので、何日か前の新聞を束ねて足に巻いて少しでも冷えを防ごうとしましたね。
出勤の途中で、夜明け前に雲雀丘の高台のほうから長田区を見たときの様子は、今でも目の裏に焼きつています。死ぬまで忘れることはないでしょう。
仕事場についてからも、昼間なのに、火事の煙が空を覆い、うす暗く夜のような感じを受けたのも忘れられません。それくらい激しい火事だったんですよね。
こうして、当時のことを書くといくらでも書けそうです。きりがありませんから、このくらいにします。
被災者の戦いはまだまだ続いています。
2011/1/18(火) 午後 10:43
シマさん、いつもありがとうございます。
ヘリコプターから見たあの煙を「湯煙のようだ」と言って反感を買ったニュースキャスターがいました。
あの地震では、ヘリコプターで助けられたケガ人はわずか1名、ヘリで消された火事はゼロでした。
やっぱりキリがありませんね。
シマさんはとても辛い思いをされたようで、ご自身の心の健康もお大事になさって下さい。
その上で、世代や地域が違う人たちに何か伝えられることがあれば、これからもよろしくお願いします。
2011/1/18(火) 午後 11:11
こんばんは。
今日も歌を聴かせてもらいに伺いました。
とっても、心に沁みる歌声で感動しています。
当時は阪急六甲に住んでいました。
幸いに私達の家屋は大丈夫でしたが
何が起こったのか分からない状態でした。
ただ、ただ事じゃない!とは思いました。
夜が明け、窓から見るといたる所から火が見えました。
翌日、友達の家が気になり見に行くと・・・
家屋がペシャンコになってました。
その中で友達と息子ちゃんは助かり、ご主人は
即死だったそうです。
いくら助けを呼んでも、来てくれないと泣き崩れてました。
生きてる人を助けるほうが最優先だったそうです。
彼女は今も懸命に2人の息子を育て頑張ってます。
本当に水には困りましたね。。
今も夜、お風呂の湯は抜かずはったままにしてます(^^;
2011/1/18(火) 午後 11:39
今年は行けなかったのですが、家にて黙祷していました。
東灘のアパートの下敷きになった若き青年の一瞬で命尽きた無念さと、迎えに行かれたご両親のどんなだっただろうお気持ちをずっと尾を引いています。
多くの命を奪った天災の酷さに怒りを覚えながら
恐怖と立ち向かう人間はこれからの対処法を本気で考えなきゃならないですね?
バタバタと倒れてきたタンスの中から這い出し助かった感謝を、
何かの形でお返ししていきたいとも気持ちです。
2011/1/19(水) 午前 0:45
ひちこさん、お忙しいなかをご覧いただきましてありがとうございます。
単に○人死亡と言われるとわかりにくいですが、
そこには数々の惨たらしい出来事がありました。
それでも残された者は生きて行かなければならず、多くの苦難が続きます。
ひちこさんは数えきれないほどの困難に直面されたそうで、ご苦労が偲ばれます。
ボクは大阪で暮らしていますが舞子で育ちました。どうぞよろしくお願いします。
2011/1/19(水) 午前 8:21
よう子ママ、こんにちは。
遺族は天災を起こした天に怒るわけにもいかず、
感情のぶつけどころがなくて、たいそう苦しいものだそうです。
思いを抱え込まないで出してしまう、そんな場が重要なのだそうです。
わかりあい、たすけあう。そんな輪が広がるように、ボクもできることをしなきゃ、と思います。
2011/1/19(水) 午前 8:34
こんにちは
訪問&コメントありがとうございます。
私のココロをじわじわと壊したきっかけは、地震じゃなくて、その後の生活だったんだと、16年目にして自覚したところです。
今は、神戸市民になり自分のできることをお手伝いさせていただいています。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
2011/1/19(水) 午後 6:29
のんみさん、ありがとうございます。
今はお体の調子はよろしいのですか?
ボクもできる範囲で息長くやっていかないと、と思っています。
よろしくお願いします。
2011/1/19(水) 午後 11:06