新ららちゃんの窓

幻の山芋歌を探し続けて20年 てんとうむしのかわいらしさを見つけました

ららの古代羊

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おはようございます。
12月にはいりましたね。今年もじきクリスマスです。
実はららは浄土真宗に帰依しました。でも、今朝、ふたたびプロテスタントにもどってまいりました。
といって、阿弥陀如来様への畏敬の念がなくなったわけではありません。お母様とも慕った理想の母、理想の女性です。実母がたとえ完全な女性でなくても、阿弥陀如来様に母の理想をみることによって、こんなにもこころすくわれるものかと、深く感謝いたしました。
もとより地元にららが子どもの時分よりあった教会です。中学校時代より宗教的ななにかにひかれ、高いもの、尊いもの、けだかいものにこころがかたむきました。勉学と同じむきであったはずでしたが、競争という苦しみから目をそむけた私に待っていたのは、その後逆境という苦しさでした。
それもこれも、勉学を怠けたツケだったでしょうか。
将来、働きたかったららです。それならば、学ぶことは得であるともいえるかとおもいます。
しかし、生きてゆくために計算高くなれない器質だったららにとって、計算して立ちふるまう事は不幸せとなることとつながっていました。
まだ若かったからでしょうか?
でも、依然としてこの傾向はららのなかにあり続けていますし、置かれている境遇からも、働かなければ明日のパンにさえ困ります。順序だててららが歩いてこれなかったために、随分と少ない時間ですむことが長くかかったとともに、そのぶん必然信念らしきものも曲ることのなかったがために自分自身を通すための耐え忍ぶ日々が刻々とすぎてゆく激しいあせりであるとか、その信念というものが、どうしてもやさしさがよわよわしいものとは思えないということだけのことだったと気づいた時、学校にさよならをした不登校時代のららや、学びたかった姿勢の裏にきっといのちほどの値打ちであるとか、人間性の活路を見ていたのだと思うようともなり、ららがもとめているのは、ひょとして昔から一貫して宗教だったのではないかという単純な結果となって信仰するこころに帰りました。
教会のドアをたたき、一冊の聖書を賜りました。
ギデオンの対英聖書です。
それから、日曜礼拝にも両親に内緒で通いました。早天祈祷会にも出席し、楽しい思い出がたくさんできました。
ららの実父が浄土真宗であるときき、阿弥陀如来様を慕いました。でも、今朝がた、父からクリスチャンネームをもたれていることをしらされました。
ららとしても、父のいうことに従ってみたいという思いがありました。
ららの育ての父が盲目に信じていい人では決してないことが哀しいというより、くやしかった、若い時代自分より人間性のおおきさを感じる言葉を古臭いようですがもとめてしまっていたららには、養父の存在がららの働きたい願望と結びついてしまったといって過言ではありませんでした。
学問が神聖であるという若いころのららのこころざしも、夢破れ、といってららの目に神聖とは映らなかった先達がおられたというだけのことではあります。ただ、ららはエマニュエルということばが好きだった子でした。
そのことは、前面にこれまでのららの歴史のなかで骨格となって影響を与えています。
はかったこころで、その神聖と信じていた学問に取り組んだのですから、苦しみに満ちたこころに喜びがやどるはずなど毛頭なかったのです。
ただ、勉強を重ねていた日々が、人間として大人となっていっているのだという当たり前のように用意されていた関門を放棄したからこそ、得られた喜びが尽きなかった日々、思い出すと楽しかったのだなと今は思えます。
放送大学で学びをつづけながら、ふたたび聖書をよむことの嬉しさにこころが清いものとなってゆく嬉しさでいっぱいです。
また、働きながらもただしいおこないをもってひとにせっすることがかなう。
このことが感謝に尽きない賜物でなくてなんでしょう。
心身とも清く、喜びに感謝のこころで接します。
空気を汚さねば生きることのかなわない身の上のわたしですが、すこしでもよい行いをして善良なたましいをきたえます。
生きることに希望のあふれるとともに、ちいさないとけないもの、はかなきものにいたわりのこころを忘れません。
罪深いことをゆるしてくださる主に感謝いたします。
マリア様の慈愛の相が、わかいわたしをどんなに苦しめたかどうかわかってください。
マリア様のようにおやさしいお顔をしたおんなとなりたいと思います。
ふたたび、お祈りのできることを許され、またそれと同時に、動物の好きなららにとって馬頭観音様や阿修羅、不動明王、愛染明王、そのほかおおくの神々に愛着がつきません。
不信心なららですが、今日一日、聖書をよみます。
以前のららは、知らなかったことを、今のららは知っています。そのためにありがたみのやわらがないことをこいねがっています。
また、先日、せきせいんこの白と青のきれいなひな鳥を飼うこととなり、今離乳食をあたえているところです。
小動物がいとしい。
この思いはひとり今を生きているららですから、もぉ自由にららのこころで生きてゆくことがかなうのです。
とてもかわいいいんこです。
雪は浄土真宗のこですが、しろと名づけた小鳥はプロテスタントのこです。
二羽はきっとなかよしになると信じています。
二羽ともとてもかわいい小鳥です。
うさもかわいいです。
カメの飼育もはじめました。
トイプードルのベリーは三歳に今月なり、いよいよおとならしくなってきました。
とてもよいこです。
この動物達が安心してそだってゆけますように。
このことが大きな願いです。
今日は報告を致しました。
またよろしくお願いいたします。
 
わたしの姦淫により、あなたの完成された良心が弱いものとなりませんように。
成長させてくださった神があなたでありますように。
御霊に属するあなたに対し、肉に属する人のように無理を通せません。
火とともにあなたのこころがあり、わたしの働きの真価をためしてください。
 
憐れみぶかい主、イエス様。
これから眠りをむさぶろうとする欲を清いといってください。
多く眠り、夢を見る罪深さをつつしむよういましめてください。
自制のこころをわすれませんが、雪解け水のこんこんとわきいづる泉のこどく、あまいにおいに口を潤す
生きもののとまらない本能のつきない気力をもって、
今夜も熟眠させてください。
なべて、生きようとするからだのはたらきです。
夢もまた、けがれないからだの見さすなにかであるとともに、御霊の生きるこころのいきいきとして活力にみなぎりますよう、お祈りいたします。
 
アーメン

コリント人への手紙

コリント人への手紙第六章18.19
 
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行をおこなう者は、自分の体に対して罪を犯すのです。
あなたがたのからだは、あなた方のうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
 
同第七章7
 
わたしの願うところは全ての人が私のようであることです。
しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。
 
23
あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
 
 
 
 
わたしは随分と長い期間、聖書からも教会からも遠ざかっていました。
わたしたちがこころの奥から本心もとめていること、それが神の教えである。といまもって確信していながら
「信仰」の確たる自信をもてずにいました。
こころで理解して差し上げる。くやしさ、苦しみ、かなしみ、そして喜び。みなすべて賜物であり、
こころの実となったさいわいなるものである。
これまでの経験の全てが、わたしにくださったこころのあたたかさにくらぶれば、感受性のひからびた枯れ木だったむかしのことなどは、もぉどうでもよいことなのです。
御名のため、キリストの十字架はむなしいものとはならないのです。
清いからだのために、キリストのみことばがあった。
花の如き栄光のため、自分足る自身のからだをこれまで錬成してきたのであるから・・・・・・・
ハイデカーはタイラクと言った。
散逸していった集中のかけらが、パズルのように一枚の絵となってゆく。
しかし、決して偶像ではないのです。わたしのために神があるのではなく、神がい、わたしがまねぶのです。
信仰のこころ、この一枚絵のようなもののようなきがいたします。
不足した所を補い完遂する。
あちこちの神のもとでやはり同一のことが行われているのであれば、それは人々が共通の言葉を持っているが故だと思うのです。
神、あるいはゴット。キリストはゴットのもとに清いものとなり、使途は集散し、言葉の力を持って信仰をひろめ、
信じる者は、言葉をあたえらるることにより、これまでの艱難を抱擁する。
自分自身を愛しいとおもえるよろこびが、まっているのです。
万民は、しかしいつわりの言葉をもってして、自分のこころに傷を負わせ、まちがったこころを持って苦しみの日々が続くのです。
 
信仰が、あるいは信仰心が、こころを平和なものとしてくださいます。
コリントをよんでいると、くちびるに水を塗っているがごとく、こころのままのありのままの生きることの苦しみから
解放された御心のまま生きることが、永劫、ユートピアのなかにあるにとどまらず、現世のなかに生きる知恵と
神父のことばを謙虚な姿勢でききいる賢明な生きてゆく上での、青春のいただきに野花を添えるやさしくも気高いたましいの宿ることばの力に感動せずにいられません。
 
 
 
月は星とはいわないそうです。
なぜでしょう。
星とは、いわばひとびとのこころです。
ちいさいけれども、うつくしい、はかないかがやきを放って、わたしたちの生きる道をてらしてくれるのです。
多くの人間は、さまざまな宗教をもっています。
肌の色、瞳の色、髪の色が様々なように、こころも様々です。
そうしたこころの結晶が宗教と呼ばれるかたちをもって、ストレイシ―プたちに精神の構えを与え、ちからづよく生き行くための力添えをしてくれます。
何分、よくは知らないのですが、たとえば、「聖書」や、「中論」「ウパニシャッド」などをひもとくと、
はっきりとしてくるたしかな精神の全体、あるいは一部があります。
それが、知っている人は知っているし、気づかないままお墓に眠るであろう大多数のひとたちの本来持っていた
宗教的生命と呼ばれる大事なところなのです。
このはけぐちをなくすと、ひどひとは菩提寺をもたないさまよいびとのように、ながくつらい艱難の道をあゆまねばならず、そこからは、はからずも、寛容のこころはそだちようもないきがします。
しかし、これまで、信仰の途にあゆみながら、自分もふくめ他者をもなぐさめるどころか、争いの道へとかけてゆかねばならないほどの力を、信仰する精神がもっているので、時に、教えにそむくこともあるのです。
 
それは、あたらしい生き方、あるいは人生とでもいったらいいまなざしのつきない希求です。
これまでの暮らしてきた日々を振り返り、別れを告げる。
徒労に終わっただけだったとしても、その足跡は悟りとして結晶化が可能です。
哲学の道では思想といいます。
これからを、てさぐりで、あじわって、感受しながにいきてゆく。
指針となるものは、これまでの足跡だけです。
信念ともいうのかもしれません。
鍛えあげられたたましいの持つ、精練としたけだかいものです。
もぉ、踏みにじられたとしても、きっと痛くはないでしょう。
しかし、そのよりどころとなるものは、「宗教」ではなく、星のこころです。
 
月は星であるでしょうが、星とは呼ばない。
それは、月が地球の衛星だからです。
地球の周りを周っているだけの、しかしながら、夜道を照らしてくれるありがたいものだからです。
星は、もっとまたたくはかなき存在であるにかかわらず、うつくしく、こころ打つのは、星のもつ郷愁にあるのだとかんじます。
ふたたび、ひととして生き始めた証拠です。
郷愁をだきしめて、果敢に自分だけの人生に取り組まんとするのが、若者です。
また、若き精神を失わずにいる年召したひとたちです。
 
もし、あらそいをうむことだけが、信仰の結果のこったのだとしたら、それは、信仰を武器にしたてていたからでしょう。
本義は、還るところ、生きる力添えをしてくれるところ、そして、菩提心にあるのですから、禅がによっきりと顔をだしてきて、言葉にあらわせない未知のことばをさがしてゆきなさいと、励ましてくれるのも、ひとりきりの道を選択したのであれば、自分自身でしかない。
 
認知科学をまなぶかたもおおいとききます。
日本では、学問が精神化しているようです。
モモ、クリ三年、柿八年。
無口でいることの重みに、気づくこともあるようなきがします。

ららの古代羊

プロテスタントの「哀」について、今日は思索を深めました。
生きてゆくためには私たちクリスチャンにとって清潔なお金がいります。
しかし、仕事を続けることは決してたやすいこととは思えません。
苦しみや、悲しみが後を絶たないように思います。
そのこころの渇望から聖書の世界にはいってゆかれるかたもおられることとおもいます。
ららは、今、三浦綾子先生の「氷点」を読んでいます。
末事に、陽子は燃える流氷を見ます。
一体、この光景は何をさしているのか。
言葉どうり、流氷が燃えるように赤く染まっていたことに、おどろいたのか。それとも、別の意味が隠されているのか考えました。
生きて、仕事をこなし、暮らしていると、かなしみ、くるしみがときとして身をおそい、そんなときひも解いたバイブルの一文との出会いは、克服して、成長し、職業人として真摯に努めてゆく指針となるとともに、心身の切なさを伴った生きている明かしとして、記憶に残ってゆくものとおもいます。
なぜなら、痛みをのりこえるからです。
聖書には、その力があるような気がします。
ららなりのプロテスタントのスピリットの理解です。
人生を聖書のことばとともにあゆんでゆく。
燃える流氷とは、きっとそんな切ないまでのかなしみ、あいそのもの、それ故「哀」の言葉をあてたのです。
生きていると、哀でいっぱいになります。
哀しみであふれます。
冷たい澄み渡った、けれど冷徹な、しかし燃え盛る生きることへの情熱がある。
その奇跡ともとれる、人生の宝を大切にあたためて、こころに触れる世のもののおおさに、またかけがえのなさに、プロテスタントとして職業倫理をもつひとは、感動し鼓舞され、そして「なんじの敵を愛せよ」というかくしんに
こころうたれるのです。
けだかいこころであるようにおもえます。
遺伝の持つちからでしょうか。
生命のちからです。
こころをなくしていても、あついなにかにふれて感動することもできるのです。
きっと、生きている喜びがあるとしたら、そんな経験であろうかと思われます。
以上、今日の終わりに考えた、プロテスタントのスピリットについての思いです。
カトリックとくらぶると、悩むことがわたしだいすき!!!!!!!!!!といった気がしてこないでもないですが、現代をいきゆく
キリスト教のふたつの派は、どこか若かったころは、憂いを思わすプロテスタントに惹かれました。
修道院という世間とは隔絶した世界で、信仰生活をおくってゆくことにこころ惹かれた若い娘時代もありました。
清い死を夢見ていたのです。
いまは、ただ、生きて身の回りのことをきちんとして、生き物にやさしくしてあげたい。
自然について深いまなざしを持ちたい。
「氷点」
まだ再読し始めたばかりです。展開がたのしみなところ。
「わたしはあのとき一度いのちすてたんです。そのいのち、高原さんにあげます。」
テレビ朝日さんの開局30周年記念の時の「氷点」のラストちかく、陽子が事故で片足をうしなった高原に投げかけた言葉です。
感動して、しかたありません。
青春だとおもいました。
青春をかけて、ひとりの男の人を哀し抜こうとちかうのです。自分の運命を引き受けようと誓うのです。
 
これから、ペットにはいって「氷点」を読みます。
すばらしい読書とのふれあいに、感謝しつつ。

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