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ららはいま風邪ひきのまっさいちゅうです。
阿弥陀如来様。しばらくお休みをしてから、つい三日ほど前に朝だけのお念仏を再開しました。
民謡調にしたり、地謡い風にしたりして念仏を唱えていますと、ららは必ず楽しくなってまいりまして、笑顔となってしまいます。そのあと、懺悔の名のもとに告白をします。
おかあさまとも慕う阿弥陀如来に色様々なことを語りかけて、しばらく楽しい感じを味わいます。
阿弥陀如来様はららの理想のおかあさまです。
ららの実母とは全然違います。
といっても、ららはまだ絵のなかでしか阿弥陀如来様のお姿をみたことがないのですけど。
大仏様のような髪型をされていますね。
その髪型はパーマネントウェーブなのでしょうか?
きっと天然パーマでしょうね。
よりかわいらしくカール、もしくは巻き毛といってもよいのでしょうか。
いつもお顔を想像すると、おもいがけずおやさしそうななかにもけだかさとともにおつよい身目があらわれ、
念仏の時、話しかけますたび「あぁ、おかあさまはおへんじしてくださらないでしょうけど、ららはいつもこうして
あなた様のお名前を呼ばせていただいているのです。」とときにはかなしくもなります。
でも、朝の行をとりおこなうようになってから、恩寵に触れることの多いことに気づかされます。
飼っている小動物達が健康でららになついてくれているということや、愛犬のベリーがららにとても親しい存在となったことや、今すぐには思いつきませんが、人間関係が円滑となったりと、本当に平凡な暮らしのなかにも
よろこびのある毎日がつづいていました。
ところが、朝の行をしなくなってから、運に見放されたように惰性的な生活となってしまい、不満足な気持ちが
つのりました。
日々、あわただしく暮らしていると、精神的な満足感は純粋に念仏をとなえることでしかかなわないこともままならずあり、とらわれたこころとなってゆくのもしかたないことかもしれません。
また、念仏をとなえるありがたみが判然とした今、その行をおこなわないことは結果として代替に学校の勉強をおいてみたとしても満たされない、もっと核心的な生きることへの渇望や乾きといったものを満足させてくださるに充分であるのが、もっかのところお念仏をじっぺんとなえる、もしくは謡うかして、阿弥陀如来様と楽しくおはなしすることなのです。
ららはおしゃべりなほうなので、高邁なようで雑多な話をこれまでずいぶんしてまいりました。
そのことをきっと阿弥陀如来様は気づいてくださっていて、「よいこころがけですね。」などとおもわれてくださっていましたらとても嬉しいのです。
ららの実母はときどき意地が悪いのです。
ららに風邪もうつしました。
夕刻、葛根湯とバファリンを飲んであたたかなパジャマとぜいぜいいうのど元にタオルをまいて寝につきました。
ところがしばらくすると目が覚めてしまって、急に仏教書をよんでみたくなりました。
「たんにしょう」をよみました。
縁起について学びました。
すると、こうしてタイプを打っている間にも思われて仕方なかったのが、二日前みにうさぎの「うさ」を早朝洗ってあげて、ほんの少しドライヤーをかけただけであとはほっておいたという仕打ちでした。
朝陽をあびながら、うさは寒さにふるえていました。
以来、食欲が無い日が続き、今日本格的にららが風邪にかかると、夕食のラビットフードをわりとおいしそうに食べているのです。
小動物の一念といったらよいのでしょうか。
昨日はペットにうさをいれてあげてしばらく一緒に眠りました。
うさがとてもかわいかったです。
ぴっぴの死に関してもぴっぴなりのちいさな報復を感じました。
やはり家族の者が風邪にたおれたのです。
たおれたといっても、変声と咳、鼻風邪、微熱にとどまりました。
きっと、ららが風邪をひいたのはうさをふるえさせたからなのです。
あのように、飼うのを反対した父と戦ってまでうさをかいたいこころをまもりとおしたららです。
「うさ、おかあさんがまもってあげるからね。これからいっしょになかよくやってゆこうね。」
そうペットショップからの帰り道、自転車の前かごに段ボールに入ったうさにはなしかけたららです。
阿弥陀如来様が怒られたのか、うさのうらみぶしなのかわかりませんけどららがいけなかったのです。
はやくもっと養生して、風邪を治し、健康な心身で楽しく笑ってお念仏したい。
おかあさまとおはなしをしたい。
とにかく、早く夜が明けて、声がかすれて出ないのですけど、朝の行をしたいです。
楽しい感じに節をつけることと、懺悔という名のもとの告白がおもしろいです。
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阿弥陀如来様
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今朝がた、早くに目が覚め、「歎似抄」をひも解きました。
ひましに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも音楽的となり、ひとつの楽しみとまでなってまいりました。
毎回、懺悔と言う名のもとに、阿弥陀如来に告白するのですが、
そのたび、まじめなこころとなって、暮らしのなかで「聖」なるものに触れることのかなう敬虔さに心惹かれるものです。
ららは音楽が好きですので、節回しを工夫して毎回異なったかんじにしてあそびます。
不思議なもので、春はこころゆたかなる季節と知っていても、さくらのうつくしさをわすれるころもあります。
けれど、ほんとうの春をしったときにあふれる言葉から内面のはなやぎ、そのほかことのほかたとえ貧しくとも病めるとも、恩寵を賜る人は皆、しあわせをにぎりしめて離さない絶対の幸福感につつまれ、
春のよろこびをあらたにしるようなきがいたします。
高尚な文学や、学問、また本の装丁から尽きぬことのない修行の果ての高雅、なべてよきもあれ、
平等のつつましい謙虚な姿勢、また、ありがたい姿勢などからべつの次元では、
彩りゆたかなこころとなっていることを「きれい」とおもふも、べつだんおかしくもなく、
あかるい心をもって「さぁ、念仏を申しましょう」と、さわやかなかぜのふく夏ともなれば、はざくらのうつくしさに目を見張り、すがすがしい夏の規律に「若者らしさ」をみいだす、哀しみを含んだよろこびもあることをも信心のわきたつ
阿弥陀如来の本願であられる「すべてのひとびとのしあわせを願い誓う」ことの、みずから動いて浄土に向かう事かなわぬ身の者にことに実感と「生きる」ことを贈ってくださるよう思われます。
ものごとにうらおもてあること、時代によること、でもしかしかわらず受け継ぎこよなくいつくしむにことのほか
阿弥陀如来様の御姿のあること、「念仏」たることにあたいすと、
うつくしいもののなかに生みだすことの恩寵が、凡夫を自由なこころ、「煩悩具足」たる身の上につよくたかめてくれると思いをあらたに秋のはじまりに耳をすまし、この土地でいきてゆこうと誓い詣でた日より、鳥といわれるものは、いつかは巣立つものとこころに母のかなった阿弥陀如来による空腹のみたしたるわざ、
誠より嬉しいと感ずること、おおくなりましたことご報告いたします。
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ららは今、鎌倉時代に起こったあたらしい仏教のながれを組む浄土真宗について学んでいます。
阿弥陀如来という如来の恩寵と御加護にこころまもられて、平穏な暮らしを続けることのかなう事が何よりの願いです。まだつたない理解ですが、如来様がおかあさんとなってくださり、誰にとってもどんな悪をおかしたひとであっても、阿弥陀如来はおおきなひろい慈悲をもってわたしたちを救おうとなさってくださる。
そのことを思うと、まことにありがたく、いつなんどきでも念仏を唱え、うたをうたい、笑顔でいられる気がいたします。
わたしたちが、たとえあやまちをおかしても、阿弥陀如来の陽光をさえぎるものとはならないのだから、
安心して、なすことをなしなさい。
そして、つかれたときには念仏をうたい、他力のちからをもって絶対の安心立命をしりなさい。
と、言ってくださっているように思われます。
法然がこの立命を絶対他力の御加護とひろめられ、おおくの女人や衆生、また言うまでもなく男性諸氏にしたわれました。
親鸞はおさないころ出家し、比叡山に入山されました。
しかし、いわば僧のなかではちゅうくらいの位階にはじまったことと、民のなかにはいり役に立つひととなりたい本願のたつころ、法然の教えを授かりまた深く解することが可能なことに浄土宗の門徒となったとききます。
なぜ浄土真宗の開祖となったかについては、「歎異抄」にあります。
ここにキリスト教について学ばれたお姿をみるかたが大勢です。
ですから、必然、父、母の両性を得んがため、内心もふくめ苦しまれたこともはかり知れない気がいたします。
鎌倉時代といえば、新しく武士による幕府の誕生した時代です。
武家は武士独自の文化を形成しようと、飛鳥とも似た様々な研さんをかさね、ご恩と奉公、武家諸法度、金剛力士像、そのほか多数の足跡をのこし、やがて鎌倉時代は元寇により根本となったご恩奉公の故障がもととなり
学際の時代ともいわれる室町時代へと移行してゆきました。
こう思うと、親鸞の説こうとされる男、女といのちのわかるるまえの「ぐしゃ」となることのおおきさがわかるようなきがしてきます。
まだ仏教「浄土真宗」に帰依して日の浅いららですが、仏のおられることのあたたかさにありがたみを感ずることの多い日々を送っています。
こんど書きます時は、もうすこし、こころざしの立った(絶対他力の愛顧に寄ります)としてお会いできたら幸いです。
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ららがこのところブログを新しく更新しなかったのにはわけがあります。
ららは仏教に帰依したのです。
宗派は浄土真宗です。
法然の御弟子様であられる親鸞が開祖の鎌倉新仏教です。
阿弥陀如来様のおられることのありがたみに、何度なみだをながしたかしれません。
わたくしたちのために、しあわせをやくそくしてくださる。
衆生のしあわせをねがい、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより、
笑いが、しあわせがやってくる。
みんなが笑ってくらせるようになる。
そんな如来様のおられることを知った喜びを、お伝えしたかったのです。
朝晩、念仏を十回謡うことをかかしていません。
夜のときは懺悔、告白もしておかあさまとしたっています。
この年になって、ようやくあたたかなやさしい阿弥陀如来様の恩寵に触れ、理想のおかあさん、ずっとららがもとめていたやさしいおかあさんのおおきなまなざしのなかで、
こころすこやかに、こどものこころともなって、赤児の絶対の安心を得ました。
絶対他力といわれるそうです。
だから、この世に本当の悪人がいるとららはおもうこともなく、
やすらぎのなかで、今をいきることができるのです。
おかあさまともしたう、阿弥陀如来様。
念仏をとなえますと、笑顔が満ちあふれ、とても楽しい気分となります。
その御存在に、感謝のこころのつきないららです。
帰依したことの御報告をしました。
みなさまに、こころのしあわせが降る雨のごとく、やさしくしみわたりますようにお祈り申し上げます。
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