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◆記録者:pastor
◆リストカットの傷がまだ回復しないうちに、Ryoは自宅にもどってきた。
母親はもちろんサヤカはRyoに抱きついて、その帰宅を喜んだ。いつもは
厳しい表情をくずさない父親さえも、病院のエントランスまでわざわざ出てきて、
Ryoを迎えた。数時間かかってここまでRyoを乗せてきたオバは、家族の
再会を軽くかわし、院長室へとひとり足早に去っていった。
高三になるRyoには、医大への受験戦争が待っていた。成績を問題にしたのではない。
それまで、正常で健康な精神を回復できるかが、重大な問題だったからだ。
優秀な医師二人の手を借りても、1年、いや、数ヶ月後に行われるセンター試験に
普通に臨めるのかさえ、不安だったからだ。
精神が、ひどく揺れていた。人格も、分裂する。ただ授業を聞いているだけで、すべての
知識を吸収して、校内で行われる試験には、常に満点をとっていたRyoだったけれど、
突然、プライドを失い、(自分はダメな人間だ・・・)と青ざめてふるえ出すことも多かったから、
それに、私が心配していた通り、家庭内暴力が、嵐のように押し寄せてきた。
その激しい暴力は、母親に集中していて、まだ7歳だったサヤカは、それを目撃するたびに
山のリリノエの家に駆け込んできていたという。
『オジさん、何か良い方法はないの? Ryoパパもオバさんも、一生懸命なんだけど
高い山に、1歩ずつ登ってるみたいで、ちっとも頂上につかないよ』
エルフの電話の声は、恐怖とも、不安ともとれる、悲痛な響きだった。
医学的には…父親とオバの専門的治療がベストなのだろう。ただそれは、エルフの言葉の
ように、エベレストの頂上に向かって、ふもとから1歩ずつ足もとを固めながら登るようで
いつ登り切れるのかもわからない、気の遠くなるような処置だった。
エルフは…その直感から、いきなり山頂にワープするような方法がないのかと、尋ねたかった
のだろう。
エルフやリリノエの心痛を、なんとかしてあげたいし、特に、Ryoの母親、とりわけ
小さいサヤカを安心させたくて、休日の午後、私は山の家に車を走らせた。
◆「すぐれた実業家がいた。世界を自家用ジェットで飛び回っていて、忙しく、いくつもの
会社を経営して大成功をおさめていた…。でも、その大成功をどんなにまわりがほめたたえても
彼は、笑顔ひとつ見せなかった。心の奥で、自分は人生の負け犬だと思っていた」
エルフとサヤカは私のそれぞれのヒザに手を乗せながら、Ryoはベランダからの初夏の風が
心地よい、白いカーテンのそばで、リリノエはもうひとつのソファーにRyoの母親と座り、
私の話に聞き耳をたてていた。
(どんなに成功しても、自分は負け犬…)と思いこんでいた実業家の話は、実話で、心理学の
文献に載っている。難しい表現なのに、サヤカが一番その言葉に反応していた。
『どうして? 大成功してたのに、どうしてそう思いこんでたの?』
エルフが尋ねてくる。話の根本をえぐる、直球の質問だった。
「病院で産まれたとき、早産で、未熟児だったんだ。ナースがからだをふいてあげようとしたとき、
お医者さんがこう言ったそうだ。
(何をやってもダメだよ、ダメな子だ。助からないよ)
産まれて数分後、お医者さんがナースにだけ聞こえるように、小さく言ったひと言だった
けれど、その子の耳には届いてた。その言葉が、まだ赤ちゃんだったその人の心の奥に、
ザクザクと突き刺さったんだ…」。
「どうして? 赤ちゃんのお医者さんなんでしょう? 赤ちゃんが大好きだから、赤ちゃんの
お医者さん、してるんでしょう? どうしてそんなこと、言うの?」
サヤカの握りしめた手のツメが、ひざに痛かった。Ryoは、何を思いだしているのか、
強く口の中で舌をかんでいたのだろう、くちびるを血がす〜っと尾を引いた。
「こう思うんだ。お医者さんの言葉が、産まれてきて一番最初に聞いた言葉なら、その人は
早いうちに自分の気持ちに押しつぶされて、成功なんてしなかったと…」
『なに? なにか、すごいことがあったの? その赤ちゃんに!』
エルフが下からにらむように私を見つめ、立ち上がって、私の肩をゆさぶり始めた。
「そう! あったんだ。・・・ダメな子と言われる前に、聞いていた言葉があった。
おなかの中にいたときに、産まれてすぐに泣きながら神様に感謝したママの、
喜びの言葉をね! でも、産まれたばかりで、良く覚えられないから、お医者さんの
(ダメな子)というきつい言葉を覚えた。ショックを受けた言葉のほうを、人間は
覚えるものだからね。それを(心のフタ)にしたんだ。そのフタさえ開ければ、
ママの喜ぶ声と、自分に向かって語られたママのうれしいひと言がよみがえる。
そして、人生の大変なときに、自分は負け犬なんかじゃなかったと思えるようにね」
◆この話が、それぞれの心にどのように響いたかはわからない。ただ、サヤカは笑顔になり、
エルフは何かを決意したように、うなずいていた。リリノエと母親は目頭を押さえ、Ryoは
少し高く目を上げて、まだ雪をかぶって光っている山々を見ていた。そして、Ryoの暴力は
この日をさかいに、終わったのだった。
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