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高校生の育児日記(5)
大きな目を見開いたまま、エリカはぽろぽろと涙を落としていた。
しばらくまばたきをしていない。口だって軽く開いたまま。
大粒の涙は、たちまちじゅうたんにシミを作った。
『おっぱいさわったの?』
「そう・・・。さわらせてあげたの」
『そしたらわかったの?』
「きっとね。だって、涙がいっぱいこぼれたもの」
エリカは手を伸ばして、わたしの胸をさわってきた。
そして、目を閉じてから、わんわんと声を上げて泣き出した。
わたしは・・・娘はこんなふうに育ってほしいと願っていた。
お話を聴いただけで、登場人物に涙を流せる・・・。
でも複雑だった。うれしい反面、嫉妬していた。
娘の驚くべき感性に、豊かな感情表現に。
夕食の準備が終わったときだった。廊下続きのクリニックから、
「お〜い。あと10分で行くぞ〜」という、夫の声が聞こえた。
テーブルは整え終わった。食器もそろえた。
スープパンはレンジにある。いつでも温かくできる。
そんなふんいきを見てとって、エリカがソファーのわたしの足元に座った。
「ねえ、どうして?」と、一日中質問ばかりしていたのに、3歳を過ぎると
娘は、よく「お話」をせがむようになった。
どんなに短くてもうれしいらしい。ちょっとからかわれて、からかわれることを
喜ぶようにもなっていた。
「その日は、朝から(夜)でした!」
話し始めると、はじめはきょとんとしてたのに、すぐに気がついて、大笑いしてた。
わたしも調子にのって、
「音もなく雨が、ざあざあと降り・・・」
などとバカ話を続けたが、エリカはじゅうたんの上を、
右や左に転げ回って笑っていた。
うん。上手に聴いてくれる人がひとりいたら、楽しく会話は盛り上がるのだ。
ぽろぽろ大粒の涙を流しながら、おっぱいをさわっているエリカ。
黙ってにぎらせているわたし・・・。
いきなりシャッター音が響いた。
「どうしたんだよ・・・。変な絵だけど、どことなくきれいで、つい撮ってしもた」
「ママ・・・わたし、かお、あらってくる」
エリカは父親に照れているふうでもなく、ひとつ、ため息をついてから、
ニッと笑いかけてバスルームに消えた。
直後、うわ〜んというエリカの大声が、ダイニングにまで響いてきた。
親子って、見えない糸で引き合ってるみたい。
わたしたちは、はじかれたように走っていた。
エリカは・・・、踏み台にのって、両手をシンクのふちに置き、
鏡を見ながら大泣きしてた。・・・転んで頭を打った様子は・・・ない。
わたしたちを振り返りながら、エリカは言った。
「かお、あらうまえに、もう1っかい、ないてみようって、おもったの」
これは・・・笑う場面なのか。エリカのパフォーマンスは、
ユーモアのセンスの現れだったのか?
「なあ、何があったんだよ、すご〜く気になる」
夫はバスルームを出てすぐ、きいてきた。両手を何度もわたしに突き出しながら。
「戦争で、目が見えなくなって、耳もダメ、口も聞けなくなった兵隊さんのお話。
・・・戦友が必死に日本まで連れてきて、ふるさとに着いたんだけど、
何もわからない。傷ついた子犬のように、震えているだけ。
手を握っても、びくついて振り払うの」
「三重苦の上に、精神的に壊れたのか。聴いたことがあるぞ、確か、実話だ」
「みんなは同情して泣いたけど、どうすることもできないのよ。
ふるさとに帰ってきたことや、お母さんが出迎えてることを、何とか知らせて
安心させてあげようとしたの。でも、誰一人できなかった」
「それはそうだ。聴こえない、見えない・・・言葉や身振り、手振りが通じないなら、
もう、お手上げだよ。
視覚・聴覚を失った人に、伝えるすべなんて、何もない」
「エリカもお話を聴きながら、すごく困った顔をするの。
あの子の感性って、悔しいぐらい鋭いのよ。
・・・でもね、兵士のお母さんは、黙って息子の前に進み出た。
そして、いきなり着物の胸元を開いた。そして、みんなの見つめる中で、
息子に胸を握らせたのよ・・・」
「うっ!」
夫は息をのんだ。誰だって、予想なんかできない。
視覚・聴覚をなくした人への、最高のパフォーマンス。
息子を思い、不安でいっぱいの心の暗闇に、なんとかひとすじの灯を
ともしたいと願う母親にしか思いつかない、究極の愛情。
エリカはそれを悟ったのだろう。
母親の、恥を捨てての行動に、激しく感動したのだ。
バスルームから出て来たエリカは、晴れ晴れとした顔をしていた。
そして、言ったものだ。
「パパは、ママのおっぱい、もうさわった? よるにさわってみたらいいよ。
いっただきま〜す」
わたしは「この子」に会いたくて、育児日記を書き始めたのだ。
遊んでいるだけじゃ、母親になれない。
結婚するだけじゃ、わたしが大好きなこどもには、絶対に会えない。
そう思った。
高校生なのに「育児日記」だなんて、みんなは笑ったり、バカにしたりしたけど、
かまわない。
わたしは、わたしが大好きな子と、ず〜っと楽しく過ごしたいんだもの。
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