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★それがどうしてかはわからない。いつのまにかボクの心の神は、
リリノエたちが信じる「キリスト教の神」とは違うものになっていた。
ただ、ボクも聖書を学んでいたし、リリノエたちは毎週かかさず
教会の礼拝に出かけていた。
聖書を最も大切な神の言葉として、牧師の語るそれにしっかり耳を傾けていた。
違い…といえば、ボクはときどきオジ(別な教会の牧師)に学び、
「聖書の言葉」そのものよりも、「聖書」を(書かせた存在)…
その方に出会いたい、その力を見たいと思っていた。
その小さな時間の差が、いつのまにか、「聖書」という世界にとどまる
リリノエと、それを越えた世界にふれているボクという違いを作った。
人の知恵や知識や工夫でも(かみ)は生まれる。作りだせる。
人を土台に工夫するから、ギリシャ神話や他のそれのように、そこに
生まれた(かみ)は「人間臭い」、人間と違わない者であったりする。
だから、「神は存在するか」という疑問は、いつの時代にもあった。
ボクは、人の語るそんな(かみ)に興味は無かった。なぜって、
Ryoもボクも、そんな(かみ)の無力を知っていたから…そんな者に
力はなく、特にRyoのように、本当の親に捨てられ、激しい虐待を
何年も受けて心を病んだ人には、なんの救いにもならなかったのだから。
・・・
聖書の中の神も大きいが、聖書を『書かせた神』はもっと偉大だ。
彼は、人間の知識や知恵や工夫のわくを軽く越えているし、
礼拝する人間などいなくても存在される。しかし、人の作った(かみ)は
人間がいないと困る(かみ)。寄付を必要とするし、献金を求める。
奉仕する人間がいないと大きな教団になれない。組織になったらなったで
莫大な寄付金を地方教会に通達し、本部にお金が集まるようにしている。
だから、礼拝する人が貧しくても、本部はきんぴかの御殿のように輝く。
アメリカやヨーロッパやお隣の国の宗教の本部も、とてつもなく大きくて
荘厳で、美しい…。みんな、なんとかしてそこに(神)がいると思わせたくて
とにかく「大きく広い建物」を造る。大きければそれだけで「すご〜い!」と
感激する人が、世界にはたくさんいるのだから。「大きいだけ」なのに
そこに感動する…。どこか、違う。
・・・
ボクもRyoも、とにかく心の病から救われたかった。人の拝む(かみ)には
その力がなかった。だから自然と、本当の神を求めていったのだろう。
そして、とうとう出会った。その神は、聖書の言葉を借りるとこうなる。
『あなたのいつくしみは、わたしの命にもまさるゆえに、
わたしのくちびるは、あなたをほめたたえる』…(ダビデ王の言葉)
ダビデも、自分の命が消えても存在する、偉大な神を見ていた。
そして、Ryoもボクもオジも、その神に出会った心の病から救われた。
なくてもあってどうでもよく、信じても信じなくてもどうでもいい(かみ)は
必要なかった。心が、精神が、からだが、ボクという小さな存在のすべてが
神の中で生き、呼吸している…と感じる。静かな力が絶えずボクの中で
生きている。
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