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90年代以降、大学に「国際**科」と、やたら「国際」の名を冠した学科や学部が設置され始めた。それは、冷戦構造の崩壊により、ボーダーレス(これ自体、最早死語だが)な状況がが現出し、人、物資、金銭、情報などの国境間の浸透性が飛躍的に高まった現実を反映する現象であり、文部省(現文部科学省)も、これを積極的に推進し、この動きは現在も加速度的に進行中である。
「国際関係学」、もしくは「国際関係論」と呼ばれる分野があるが、これは国家間の関係を、政治経済的な枠組みから説明しようと試みるものであって、アメリカあたりの大学では、international studiesという呼び名でかなり昔から存在していた分野である。さて、本書のタイトルは「国際文化論」である。「国際関係論」が、国際社会の相互関係を、政治経済的に解釈する試みであるとすれば、「国際文化論」は、「思想」「文化」等に着目して研究しようとする学問であり、「国際関係論」同様、歴史学、民俗学、政治学、社会学、文化人類学等の諸学問領域を総動員した学際的性質の強いものである。従って、「専攻」として確固たる市民権を得たものであるとは今だ言いがたい状況にあるが、それだけに、可能性もまた大きいと言うことが言えるだろう。
本書は、東京大学や上智大学で「国際文化論」の講義を行ってきた著者の講義録を書物の形に纏めた、「国際文化論」(intercultural studies)入門書とでも言うべきものであり、「国際文化」を捉えるための様々な知的枠組みを紹介してくれる。一般に「文化」とは何かと問うだけでも、議論百出であるが、とりあえず、まず「文化」を、人間社会に特有の行動・生活様式全般と規定するところから本書は始める。「国際文化」というからには、国家間の文化的接触を扱うことになるわけだが、その場合の前提となるのは、現在の国際社会が領域主権なる境界線を有する民族国家群の集合体であるという事実である。領域主権は、一義的には「領土」や「国境」などによって規定されるわけだが、果たして「文化に境界線はあるのか」というのが次の問いとなる。
「文化の領域・境界線」は、領土や国境などの地理的境界線と異なり、かなり曖昧なものであり、それは一般に「不可視」であるが、「国際文化論」は、「文化に境界線は存在する」という立場を一応は取る。「境界はない」とするのであれば、そもそも「国際文化論」自体の必要性が消滅するからであり、全人類を包摂する「普遍文化」のようなものは、理論的にはともかく、現時点においては存在しないという前提に立つ。そしてその上で、重要な知的枠組みとして「文化蝕変」という概念を提出する。
「文化蝕変」は、英語でacculturationと呼ばれるもので、欧米の文化人類学的な概念である。その中に、「敵対的文化蝕変(antagonistic acculturation)」というものがある。本書は、日本が明治期に欧米の列強と接触し近代化する過程で行った欧米文化受容がその一形態である、と説明する。即ち、経済的にも、軍事的にも、自国より圧倒的に強大な国家に対峙した場合、その文化を完全に拒否してしまうと、力によって併呑されてしまう可能性が出てくるので、お雇い外国人や留学生などを通じて、自ら進んで相手の文化要素を「一部」導入しつつ、自らの文化に部分的改変を加えるという行為がそれである。明治期の日本の場合であれば、欧米出自の「人権」「個人主義」などの思想概念はは拒絶しつつも、軍事・教育などの制度的要素は積極的に取り入れ、外圧に対処したということになる。
文化を与える側のほうも、受容する側に対して、自らの文化概念をその土地に併せて改変する場合がある。例えば、戦後アメリカが日本を民主化する過程で、天皇制を表に出したのは、そのまま欧米の民主思想を日本に移植しようとすると、文化的な拒絶反応が起こり、統治がスムーズに行かなくなると考えたからであり、アメリカが日本を間接統治した背景には、ミードやベネディクトら、ボアズ派の文化人類学者の知見が取り入れられたという事情がある。さて、「拒絶反応」であるが、これはもともと医学用語である。言うまでもなく、臓器移植を行った場合、受け入れた側の組織が、新しい臓器を拒絶する生体反応のことである。免疫学的に見れば、アレルギーも一種の「拒絶反応」である。国際文化論的には、この拒絶反応は、「国粋主義」、或いは「国家主義」となって現れると考えられる。江戸末期の攘夷運動は一種の「国粋主義」である。しかし、攘夷運動は文化要素の受容そのものに対する拒絶反応であったのに対し、一度受容した文化要素に対して、ある一定期間の後、しばらくしてから拒絶反応を示しはじめる場合もあり、天皇機関説に対する昭和期の国体明徴運動などを、この枠組みで解釈することも或いは可能かもしれない。「国家」という概念そのものが、近代の所産ゆえに、この場合はより「国家主義」的である。また、現在の日本社会の一定層が「人権」や「民主主義」などの概念に対して否定的見解を示したり、グローバルなマーケットの浸透に対するローカリズムの如きも、一度受容した−或いは、受容したかに見えるーそれら概念、もしくは現象に対する一種の拒絶反応と言えるかもしれない。
即ち、平時において、民族国家の構成員は自らが帰属する文化的枠組みを殊更意識して生活したりしてはいないが、外部からの侵入や接触があった場合、或いは、情勢の変化により接触を余儀なくされたような場合、精神的な境界線を引いて自らの領域を規定しなおそうとする動きが「国粋主義」「国家主義」である。無論、それ自体は自然な反応で、排外主義や排他主義に結びつかない限り−残念ながら、往々にして結びつく場合が多いが(過剰なアレルギー反応は個体を死に至らしめる)−格別不健康なものではありえない。ただ、既存の文化組織が破損もしくは適応障害を起こして、機能不全に陥ったとき、それに変わる何らかの新しい文化的枠組みを移植して機能させる必要性があり、それを完全に拒否してしまうと、他の組織に影響が及び、全体が危機に瀕する可能性がある。従って、そのような場合、何らかの形で、新しい文化要素を「内発的」に作り出すか、外的刺激から受容するなりして、既存の文化体系に適合させなくてはならない。つまり、外部から受容する場合でも、それが何の変化も被らずに、そのまま新しい文化要素として定着することは理論上も実際上も考えられず、受容する側の文化的フィルターを通して何らかの変容が加えられる場合がほとんどなわけである。もし、新しい文化要素が、何の変化も被らずに古い要素に置き換わるのであれば、それは最初からそこにあったものと変わらず、そもそも外から受容する必要性のないものであった、ということになるからである。
「国家主義」「国粋主義」は、機能不全に陥った−或いは、陥ったかの如くに見える−文化要素に変わる新しい要素が容易に見つけられない場合に発生する、一種の「退行現象」−そう言って語弊があれば「先祖返り」でも良いが−の如きものと本書は説明する。つまり、新しいものが見つけられないのなら、以前に戻ればよいとする考え方であり、それ自体にはある種の合理性が存在すると考えられる。しかし、以前の要素を復活させようとした場合、それを支える周囲の社会組織自体が変容を被っている可能性があり、そうした文化の機能連関の中で、以前の文化要素が円滑に機能するとは限らない。ある文化要素が、全体の組織連関から独立して機能するものとは考えにくいからである。北米大陸で、初めて先住アメリカ人と接触した白人は、先住アメリカ人社会を「男尊女卑」の野蛮な文化と認識して、文明化しようとしたが、その結果部族自体が解体してしまったという例などが、それである。ある社会の、ある文化要素には、それが進歩主義の立場からは、いかに「遅れた」ものに見えようとも、当該社会における全体の連関の中では、一定の「必然性」を有しているからである。従って、国際文化論は、共同体間の文化要素それ自体に優劣の差は存在しないという前提に立つ。
ここで重要なのは、「国際文化論」は、文化を静的なものと捉えずに、常に何らかの刺激を受けて恒常的に変容してゆくものであると捉えることである。即ち、ある共同体に固有の文化要素が、何の変化も被らずに原初から存在し続けるということは理論上ありえないとする。さらに、アジアをはじめとする非西洋を、西洋からの文化要素の受容者として捉える一方通行的な文化受容認識の枠組みは、最近のグローバル社会の出現により、それ自体再考を迫られていると考えられる。最早経済的な領域において国境は消滅したと言われるような今日において、ポストコロニアルな枠組みだけでは、国際社会の状況を十分に読み解けない事態が現出しているからだが、本書は著者の30年に渡る講義録を纏めたものであり、また出版年も2000年とやや古い為、9・11以降先鋭化しつつある環境問題、核拡散問題、国際金融問題などに対しては、十分な枠組みを提供出来ていない恨みがある。また、本書の紹介する様々な理論的枠組みは、それがあくまで枠組みである以上、これらを持って全ての文化的事象を説明できるということにはならず、そう考えるならそれは誤謬である。その意味で、「国際文化論」は、歴史学、民俗学、文化人類学などの諸分野の研究実績に立脚して、文化事象を相互連関の中で幅広く捉える試みと理解されなくてはならないだろう。
いずれにせよ、「国際文化論」に興味がある方なら、巻末に主要文献の解題も付されていることから、本書は、基本テキストとしての役割を十分果たしてくれると考えられ、その意味では「必読」であろう。文章は概ね読みやすいが、何分「教科書」的性格が強いので、記述がやや単調ではある。しかし、国際社会を読み解くための「知的枠組み」を得るきっかけとして、本書は十分な価値を有すると思う。
著者:平野健一郎(1937年生まれ)
現職:早稲田大学政治経済学部教授(出版当時)
出版社:東京大学出版会
出版年月:2000年1月
定価:2500円
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平野啓一郎が「国際文化論」を? と一瞬おもったあたしが馬鹿でした。
いや、でも、ありそうな感じもするけど……。
2010/10/6(水) 午前 10:00
平野啓一郎か。ほとんど読んでない^^;。
平野健一郎さんは、知っています。所属学会の重鎮なので。日比谷高校、東大、ハーヴァード大のエリートさんです。私のような与太者と違って、言うことが論理的すぎます(-_-;)。
2010/10/6(水) 午後 1:34