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反対にせよ賛成にせよ、死刑に対する市民の反応には「論理」と「感情」の次元がある。映画監督であり、作家でもある著者は、明らかに「論理」の次元では、死刑に対して否定的な見解を持って取材に望んでいる。その上で、弁護士、元死刑囚、刑務官、拘置所関係者、政治家、教誨師、元警察官僚などに直接インタビューを試み、彼らの話の中から「死刑」にまつわる感情の問題を掬い取ろうとしている。死刑を論理の上で否定することはたやすい。「国家による殺人」「冤罪の可能性」「統計的には立証されない犯罪抑止効果」「死刑廃止に動く世界的潮流」等々。即ち、論理の上では、死刑存置の根拠は希薄である。では、何ゆえ、この国の世論の大多数をは死刑制度の存置を支持するのか。残るは「感情」である。理不尽にも肉親を殺害された被害者遺族の「加害者が生きているのは許せない」「死を持って償うべきだ」という「感情」の問題。しかし、著者は、取材の途上で、確定死刑囚が、自殺をしないように独房で徹底的に監視されている、という事実に素朴な疑問を抱く。「死を持って償うべきだ」というのなら、何ゆえ「自殺」が許されていないのか。加害者が自殺したというなら、それこそ自ら死を持って罪を償うことになるのに、それが許されないというのはどうしてなのか(無論、だからと言って、自殺が奨励されるべきだ、という理屈にはならないことは著者も十分理解している)。 死刑廃止議連の会長亀井静香は、死刑の背後にあるのは「報復感情」であると断言する。つまり、加害者は決して自らの命を断ってはならない、国家によって殺されなくてはならない。それが死刑という制度の本質であると亀井は論ずる。そしてそういう「報復感情の延長にあるのが戦争だ」と亀井は断ずる。さらに「警察官僚出身だからこそ、冤罪がいかに多いかを私は知っています」と、自らの経験に基づいて語る。亀井は貧しい家庭に育ったと言う。そして次のように語る。「もしも、貧しくて愛情の薄い家庭に生まれていたら、人殺しやって死刑になってたかもしれない。たまたま周りの人に恵まれて生きてきた。・・・今はね、弱者が強者に対して反抗しない世の中になっている。(鬱憤が)下へいっちゃう。だから死刑囚なんか殺しちゃえってなっちゃう。弱いものを仕置きして満足している。ひどい時代になったと俺は思うよ」。これら亀井の発言には、死刑制度反対の論理の背後にある、彼なりの倫理観や感情が反映されていて大変興味深い。 とにかく、日本において死刑は秘密のベールに包まれている。国会議員ですら刑場が視察できたのは、ごく最近のことである。ジャーナリストはおろか、一般の市民が死刑に関する情報を前もって知らされることはほぼ皆無である。日本の場合、死刑は午前中執行されるが、死刑囚が執行を言い渡されるのは、その日の朝である。死刑囚の家族にも、執行の事実は事後知らされるだけで、無論最後の別れを言うことも出来ない。マスコミや被害者遺族さえも、執行に立ち会えない。徹底した秘密主義である。マスコミは、専ら被害者の無念と、加害者の無反省を強調し、加害者が口にする反省の弁は全て「弁護士に言わされたもので本心ではない」という紋切り型の報道となり、市民も、これに予定調和的に順応する。 大阪教育大付属池田小学校で児童を殺傷した宅間守は、法廷で遺族から罵倒された。無論、犯した罪の重さから言えば、そうなっても当然だが、その間彼はずっと我慢している場合が多かったのだそうで、マスコミが言うように頻繁に毒づいていたわけではないと、宅間守を弁護した戸谷茂樹は語る。遺族の話を聞きながら目を潤ませていたという。戸谷がそのことを朝日の記者に話したら、それが記事になった。それを知った宅間は、「何でそんなことをばらしたのか」と、戸谷に噛み付いたという。「弱い人間と思われたくなかったのではないか」と、戸谷は言う。しかし、その一方で、判決が言い渡された時、宅間は「最後に言わせてえな」と遺族を罵倒したのも確かである。被害者遺族の無念と世間の宅間に対する圧倒的報復感情。それらの圧力と宅間という人間とじかに向き合った戸谷は、死刑制度について「あってもいいのかなあ」と複雑な感情を露にする。しかし、その一方で、「彼は、人の悲しみを共有できる想像力を持っていたと思いますか」という森の質問に、戸谷は「ある」と一言だけ確信を持って答えるのである。 戦後日本において、冤罪死刑囚は4名いるが、森は、そのうちの一人、「免田事件」の免田栄にも会う。確定死刑囚として独房で過ごした32年間に、免田は刑場に向かう死刑囚を160回程見送っているという。その中には、どう考えても冤罪としか思えない者が少なからずいたという。刑場の露と消えた一人の死刑囚は「免田さ〜ん」と叫びながら刑場へと連れて行かれた。死刑囚の中には、免田と同じような複雑な家庭環境に育った者が多かったそうだが、執行の朝、彼らのほとんどが、「お世話になった」と、食器口から手を入れて握手をして、涙を流して去って行った。免田本人の再審が決定した時は、皆が涙を流しながら胴上げをしてくれたというエピソードも語る。 犯罪被害者の遺族でもある元刑務官とのインタヴューもある。彼は、刑務官が、何年も死刑囚と接しているうちに、死刑囚に感情移入することがあり、最後は涙で彼らを送る場合が多いことを語る。しかし、被害者遺族でもある彼は、教誨師に祈りを捧げてもらい、粛々と刑に服する死刑囚の処遇を考えれば、そんな機会さえ与えられずに無残にも肉親を殺害された被害者遺族にとって、加害者の「死」は、前に進む為の区切りであり、現場に渦巻く複雑な感情の問題を理解せずに、安易に死刑廃止を口に出して欲しくない、とも語る。もちろん、現場を理解するためには、現在の秘密主義が改められ、「現場」の実情がもっと公に公開されなくてはならないのだろうけれど。さらに死刑に関して重要なのは、これは当然のことだが、人を殺せば加害者が必ず死刑になるわけではない。「反逆罪」や「内乱罪」のような、国家治安維持に関する「犯罪」も現行法上は死刑の対象になりうる。そして、「反逆」「内乱」の定義は、時間・空間を超越して不変であるはずもなく、これらは容易に変化しうる。 いずれにせよ、様々な「当事者」と語る中で、森は、極力自らの意見を差し挟まず、ほとんどの場合、彼らに語らせることに徹する。そして最後に、こう結ぶ。 「僕は彼らを死なせたくない。論理ではないし情緒でもない。・・・僕は願う。彼らの命を救いたい」 著者:森達也(1957年生まれ)
現職:映画監督、作家 出版社:朝日出版社 定価:1600円 |
書評(人文、社会科学系)
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