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そんなに忙しいわけじゃないんですが、このところ妙に疲れていて、昨日など、所属学会の例会に出て、帰ってきたのが午後7時頃。午後9時に寝くたばって、起きたら正午過ぎ。何時間寝てたんだ。しかし、妙な夢をつづけざまに見て、あんまり寝た気がしない(-_-;)。
ところで、久々にカタイ話。マルチカルチュラリズムというのがあります。これ、日本語にすると多文化主義ということなんですが、こ難しい話は抜きにして、何かというと、各々の土地には、各々の文化や風土があり、お互いそれを尊重・理解し合うところに相互理解は促進されるという考え方です。「各々の土地」というのは、国であったり、特定の地域であったり、人種概念であったり、はたまた民族のことであったり、このあたりの概念は不正確なのですが、普通「民族」「国家」とか言う風に捉えておくとよいかと思います。語学教育者が使う「異文化間コミュニケーション」なんてのは、大抵これです。
「国家」「民族」の違いは何かというのを語りだすとまたごちゃごちゃ複雑なのですが、国家というのは、平たく言えば、領土主権によって規定され、その内部において、同一言語、同一文化を有する共同体ということになります。民族とは、国家を構成する主体なんですが、国家の中にも色々な民族があるわけです。以前なら、「日本人」という民族主体に、民族の概念の全てが包含されるという考え方だったわけですが、国連が「民族自決の原理」なんてのを、「普遍的」人権概念として提出して以来、同一国家内における少数民族を考慮に入れる必要が出てきたわけです。つまり、単体としての国民国家が、国内の少数民族の自決・自立権を侵害する主体となりうるし、また、そういう事例は過去に事欠かなかったわけです。
で、この多文化主義というのは、日本の左派に大変受けがよろしい。日本の左派や左派政党が、米軍基地の存在を批判する時も、この論理に基づいているし、日本共産党や社会民主党が、尖閣諸島は日本の領土だと言う時も、この論理に乗っかった議論をしているわけです。それは、彼らの言説をを見てみるとよくわかります。例えば、「世界中の国で、首都に外国の軍隊がいるのは、日本だけ!」とか、「日本はアメリカのいいようにされてきた!」とか。これは、一見普遍主義のように見えて、実は非常にナショナリスティックで、孤立主義的です。つまり、「日本の事は日本で決めるさかいに、アメリカにぎゃあぎゃあ言われとうないわ」というナショナリズムですね。で、沖縄も、アイヌも、在日コリアンも、国民国家という枠組みの中で考えるわけです。だから、もし沖縄やアイヌ民族が、日本から独立したいなんて言いだしたら、多分抑圧主体に回る可能性が高いわけです。というか、必ずそうなるでしょう、領土主権を主張する理屈から言っても。
さらに、この多文化主義の一筋縄でいかないところは、日本の戦争責任を巡る議論なんかを例にとると、右と左では違うことを言っているように見えて、実は、その構造は同じだというところにあります。だって、どちらも、「国家」という共同体を、国際社会の中でどう位置づけるかという、ナショナルな議論をしているわけですから。右は、戦争責任を認めるのが、国を貶める行為だと主張し、左は、それを認めないで、責任逃ればかりしていることこそが、国を貶める行為だと主張する。つまり、多文化主義というのは、文化や国家という枠組みを、不変且つ固定的に捉えるわけです。ここに、右も左も変わりはないのです。そこには、普遍主義の実践ではなく、実は、強烈な普遍主義からの離脱志向が隠れていたりするわけです。
物事を政治的に捉える人は、国家という権力主体を中心に物事を考えていて、あたかもそれが普遍・不変であるかのように考えるわけですが、近代国民国家というものの歴史は、たかだか200年くらいのもので、実に短いわけです。それを永久不変に続くみたいに考えるようになったのはどうしてかと問い始めたところで、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論なんてのが出てきた。国民国家という枠組みが、あらゆるところで綻びを見せ始め、境界線が曖昧になりつつあるのは、経済や情報の面ではもう明らかですけれど。
インターカルチュラリズムは、多文化主義と違い、文化という概念をより流動的且つ可変的に捉えます。国民国家の枠組みを超えた地点で、文化がどのように受容・吸収され変容しているか、その事を問題にするのがインターカルチュラリズムです。私の見たところ、マルチカルチュラリズムは、ほぼ例外なくナショナリズムに帰結します。例えば、日本人は姓名の順番だから、英語などの外国語で自己紹介する時も、姓名でやるべきだ、なんてのは、右派よりも、左派が好きな議論です。ここには、英米帝国主義への反発と、その副産物たる英語という言語に対するコンプレックスが間違いなくあります。名前は主権に関係し、自らの主権を堂々と主張しえないで、他国と対等な関係を構築出来るかという話です。自分の姓名を蔑にする、本多勝一流に言う「貧困なる精神」が、朝鮮半島で創氏改名を強要する一因となったのだ、とまでする議論もあります。ところが、この議論は、「自らの国旗や国歌を愛せないで、他国を尊重出来るか」という、右派の議論と表裏一体です。さらに、姓名の順番というのは、一地域の文化的体系の一部を構成するものにしかすぎず、それをことさら取り上げて、国家の一大事みたいに言うのは、やっぱりナショナリズムなんですね。つまり、普遍志向のようでいて、その背後に、強烈な普遍からの離脱意識が隠れている。
ハンガリー語ってのは、ウラル系統の言語で、日本語と同じく、姓名の順番なんです。ハンガリーが御専門の歴史学者南塚信吾先生にその話をしたら、ハンガリーでも、80年代くらいまでは、姓名で行くべきだというナショナリスティックな議論が一部にありましたが、それほど盛り上がることもなく、今やそれを問題にする人はほとんどいないと言ってよいとのことでした。私は、英語で自己紹介するときは、名-姓の順番で問題ないと思います。英語や多くの西洋言語において、名前が名‐姓の順番で表記されるには、それ相当の文化的根拠がありますから、他の文化環境に身を置いて自分を表現すること自体は、他(異)文化に対する積極的な態度であるし、他者の視点から物事を考えるってことも必要でしょう。そりゃ、日本語で日本人同士で自己紹介するときも、名−姓の順番だと、ちと変だとは思いますけど。むしろ、問題があるとすれば、その文化的根拠を教えないってことでしょうかね。フランキー堺、ディック三根、アントニオ猪木なんてのは、一種の芸名だから、もともととやかく言うようなもんじゃない。
政治や外交は、権力行使主体の国家-即ち政府-が国民を代表してこれを行うわけですが、文化まで同様の枠組みで考えていると、必ずナショナリズムに帰結します。文化という概念を、可変的、流動的に捉え、この受容、変容過程を問題にする学問が、インターカルチュラリズムであるわけです。最後に、左派-特に新左翼-の得意な議論に、「文化の基層」論というのがあって、吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」などがこれに相当すると思いますし、南米の反政府闘争は、メソアメリカの土着文化にその根があるなどというのもそれです。それをつきつめていく過程で、各地域の文化の基底部分に、ある種の共通項が見えてくるというようなことはあると思いますが、ちと勉強不足でそこまで手が伸びてません。というか、そんなもん、証明できるのかいな、という疑念はありますが(-_-;)。
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