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文化本質主義とは、物凄く簡単に言えば、特定の国、ないし、地域の文化は不変であるという考え方です。この度の震災で、日本人が外国から賞賛されたと言うようなことがありました。これは、外国人が日本人に対して持っているステレオタイプの一種で、実は物凄い偏見と裏表の関係にあります。なので、「忍耐強い」と言う賞賛が、状況によってはいとも簡単に「奴隷根性」と言う批判に化けたりします。津波の被害者などには、概ね前者が適用されるわけですが、福島の原発の問題がエスカレートしてくると、今度は後者が強くなったりするわけです。これはもう、日本の英字新聞の読者投稿欄を見ているだけで分かります。で、これのやっかいなのは、日本人でさえ、そのような海外の日本人に対する言説をわりと無自覚に内面化してしまっていることです。例えば、先の5月1日発行の『朝日新聞』の9ページで、東大特任教授の神里達博さんが、「我々の心の古層に根ざす透明な無常観と、未来への優しい楽観の源は、この物理的な条件と無縁ではない」と、日本人の「透明な無常感」と天災の多い風土とを結び付けて論じています。「透明な無常感」というのは、これまた文学的な物言いですが、「我々の古層に根ざす」ということですから、根底にあって不変であるということを言いたいのだと思います。つまり、変わらない日本人の特質であると論じている限りで、これが日本の精神文化の本質をなす重要な一部分であるという議論ですから、これを文化本質主義的思考の一例と考えてよろしいかと思います。こういう考え方は、和辻哲郎とか柳田國男とか、まあ、昔から日本にもあったと言えばあったのですが、現在でも、これが、右にも左にもありまして、前者の場合、道徳的精神主義の文脈で強調され、後者の場合は、グローバリズムに対抗するコミュニティの原理としてこれが主張される傾向があります。よく日本の左派が、南米の反政府闘争の原理は、メゾアメリカの民族主義にさかのぼる、とかなんとか言う時も、ある種の文化本質論を展開しているわけです。で、この場合、グローバリズム批判や反政府闘争原理の背後にあって想定されているのは、大抵アメリカです。
ところが、どっこい、アメリカ人もわりとこういう議論が好きなんですね。50年代から70年代にかけて、アメリカ人は地域研究(area study)というのを大変よくやりました。地域研究というのは、実は冷戦というアメリカの戦略的必要性から生じてきた学問分野で、地域研究をやると宣言すると、当時は、結構研究助成金がおりたりしたわけです。その地域研究の地理的枠組みのひとつとして想定されたのが、北東アジアという概念です。なぜ、概念なのかというと、この枠組みは、軍事的必要性から区分けされた理念上の地理区分だからです。それで、地域研究というくらいですから、その地域の政治文化や風土の特殊性を、今となっては、もうほとんど無理やり強調したような研究がどんどんなされて、そこで、日本人はこれこれこういう理由で、欧米とは違うのだということがやたら論じられて、その中に、日本人の仏教的諦観とか無常感とかを強調する議論が結構出てきたわけです。だから、当時は、日本の文学を研究するにしても、夏目漱石とかよりも、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成などを取り上げたほうが、アメリカでは受けが良かった。エドワード・サイデンステッカーなんて人は、そういう時代的空気の中で、日本文学を研究した人で、ドナルド・キーンなんかも、まあそうです。なので、もともと日本にもあった言説を、彼らが国際的な文脈で再生産し、日本人がまたそれに接し、それらの言説を用いて自己言及するという、マッチポンプみたいなことになりました。これは、日米経済摩擦の時代を通じて、ある時は「日本異質論」となってみたり、またある時は「日本特殊論」となって現れたりしたわけです。前者が、日米構造協議なんてのに反映されたのですが、日米構造協議というのは何かと言えば、日本の市場が海外に開いていないのは、日本特有の文化的要因がその背後にあるので、これを変えてしまわないとダメだという、ある意味、物凄い自分勝手な理屈なわけです。そこで、「けしからんアメリカ」なんて憤りも聞かれたわけですが、ところが、アメリカで宮本武蔵の『五輪の書』が売れまくるような現象があったり、エズラ・ヴォーゲルとかが、「アメリカは日本から学ばなくてはならない」とか言ったりすると、手のひら返したように喜んだのもまた日本人であったわけです。つまり、この「日本異質論」と「日本特殊論」は、いずれも文化本質主義ですが、同じコインの裏表であったということです。
さて、冷戦が終わって、バブルがはじけ、今やグローバリズムの時代となり、今日、日本の市場は閉じているどころか、国境間の浸透性は格段に高まっており、人、物資、情報が世界中を移動するスピードは、今や物凄いものがあります。90年代に「ボーダーレス」という言葉で語られていた事が現実となっている世の中です。ご存知のように、大阪府知事の橋下徹は、このグローバリズムと規制緩和の推進者で、暇を見つけては、「公務」ということで、上海に行ったり、ソウルに行ったりするわけです。確か、あの尖閣を巡るごたごたの中でも、彼は上海を結局訪れたのではなかったかと思います。要するに、彼は道州制の支持者であり、且つ、グローバリズムという名の「国際主義」の信奉者です。「国際主義」なんだから、多国間の相互理解や人的交流を強調するのかと思うと、さにあらず。元弁護士とは思えない、なかなかの道徳主義者で、国家斉唱の時に起立しない学校教員をクビに出来るような条例やら法律やらをつくる、なんてことを平気で言うわけです。行動が矛盾しているように思えるかもしれませんが、そうではない。グローバリズムの要諦は、「標準化」にあるからです。つまり、個人が、自らの主体的意志を持って、境界を超えていくということではなく、グローバルマネーとか情報とかが、極めて均質化した形で、自由に国境間を移動するような状況がグローバリズムなわけです。動くのは、あくまでモノ、情報、マネーなのであって、人はあくまで情報やマネーを流したり、それにくっついて移動したりする存在にすぎませんで、行為者としての主体意識はそれほど重要視されていません。さて、このように、市場が流動的になり、国家間のルールが標準化し、国境間の浸透性が高まり、個人の主体意識も薄まり、加えて、日本に生産拠点を置く外国企業とか、帰化はしないのに日本に長期居住する外国人とか、二国間、もしくは多国間を頻繁に移動する外国人などの「異質要素」が国境を超えて日本にやってくるというようなことになりますと、これを、そのままにしておくと「国民国家」の枠組みが極めて曖昧になるという危険性が出てくるわけです。橋下徹やグローバリズムの推進者が、国境の浸透性や自由化を謳いながら、ナショナリズムを強化しようとする大きな理由のひとつは、経済行動を行う主体としての「国民国家」概念の再構築を図ろうとしているからであります。つまり、標準化したグローバルな市場経済の枠組みにおいては、個人の主体性は、それほど歓迎される要素ではなくなるということです。
このような状況下であるからこそ、文化本質主義を乗り越えていく試みが必要とされるのでありまして、これが、比較文化や交差文化等の研究者に課せられた重要な課題であるというわけですが、そのあれこれを論じるのはやめて、これにておひらき。
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