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安斎育郎『福島原発事故-どうする日本の原発政策』(かもがわ出版)を読みました。この書物に書いてあることで、私たちが知っておくべきと思うことを、私になりにまとめました。直接引用ではなく、文章を多少整理していますが、概ね書物に依拠しています。(従って、責任は引用者にあります)
●「ヨウ素131は半減期が8日と短いのですぐに減衰する」と言うが、もともと放出された量が膨大なので、「半減期が短いから問題ない」という言い方自体が問題である。
●セシウム137(半減期30年)のような寿命の長い放射性物質が降り積もり、ガンマ線のレベルが高くなれば、特定の地域を、長期にわたって立ち入り禁止や居住禁止区域に指定するなどの措置が必要となる。チェルノブイリで放出されたセシウム137の56%はまだ残っており、チェルノブイリの場合、半径30キロ圏内は永久居住禁止となっている。
●ベータ線を出す放射性物質を飲み水や食品とともに体内に取り込むと、体の中で放出されたベータ線が周囲の細胞を傷つける「内部被曝」が起こる。
●ウランやプルトニウムはアルファ線を放出する。空気中数センチで止まり、透過性は低いが、アルファ線を出す放射性物質が体内に入ると、局所的にダメージを受け、ガンマ線やベータ線よりも一段と危険性が高い。従って、現時点では、原発周辺地域でプルトニウムが検出されているので、作業員の被爆は絶対に避けなくてはならない。
●プルトニウムは自然界に存在しないものであり、原発周辺の土壌からプルトニウムが検出されたということは、何重ものバリアが崩壊し、本来外部から遮断されているべき原子炉の燃料部と外部環境が繋がってしまったことを意味する。
●暫定基準一杯の500ベクレル/kgのセシウム137を一日200グラムずつ一年間摂取した場合の被曝量はおよそ1mSvであり、自然界から受ける被爆総量に達せず、放射線の影響を気に病むレベルではない。しかし、事故の容態が不確かで、収束見通しが立たない現時点においては(あとがきの日付は4月18日)、農業や漁業に対する影響が懸念される。
●ストロンチウム90は、玄米を白米にすることにより、60%除かれるとされる。セシウム137についても、精米過程で65%が除去される。野菜の場合、葉物は水洗いでかなり除染可能。ホウレン草や春菊はゆでてあくぬきするとセシウムやヨウ素が50%〜80%落ちる。魚の場合、放射線核種は主として内臓に蓄積される。よって、内臓を除去することにより、かなりの除染効果が認められる。
●ストロンチウム90が体内に入ると、イットリウム90が出すベータ線を浴びるが、体外にある限り、ベータ線は空中で吸収され、外部被爆にはあまり結びつかない。しかし、多量に体内に入ると、骨に集まりやすく、骨腫瘍や白血病などの原因になる。
●放射線障害の特徴は、他の原因による発ガンと原因が区別できない、「非特異性」にある。100〜200mSv以上の原爆被爆者集団については、臨床的に因果関係が認められるが、それ以下の場合ははっきりしていない。しかし、低い被曝領域でも低いなりの確率で影響が起こりえるというのが、放射線防護学の立場であり、その影響の目安は、「100mSvを浴びると、ガンによる死亡率が0.5%ほど上昇する」である(1mSvなら、0.05%上昇)。従って、汚染しているかも知れない食品と、そうでない食品があるとすれば、後者を選ぶことは放射線防護の原則に合致している。
●東京電力、原子力安全委員会・保安院・政府は「隠さず、ウソをつかず、過小評価に陥らず」を原則に行うべきだが、レベル7を発表した時に、チェルノブイリの10分の1という説明をつけたのは、事故の実態すらわからず、収束の見通しすら立っていない状況下においては、市民目線に立った措置とは言えず、「過小評価」と言われても仕方がない。
●高汚染地域での居住や土地の再利用にはかなりの時間と対策が必要であることが予想される。
●出来る人(する気になっている人でもよいけれど)が、新聞投書、インターネット発信、集会、デモ行進に参加する等、様々なアイデアを実行することにより、事態が一応の収束を見るまで緊張感の醸成と維持につとめることが肝要である。
というわけで、この際「気分」でも、「気休め」でもなんでも良いと割り切り、私の場合は、主にインターネット発信を中心にやっておりますが、妻が子供関連の仕事をしていますので、職場や家庭では、現実に色々と手を打っております。
安斎さんは、一貫して日本の原発の「安全神話」を批判されてきた方で、共産党系の学者です(いちいち、こう言わなきゃならないのも妙ですが)。ご存知の通り、日本共産党は、原子力の「平和利用」に際し、その「安全神話」と「秘密主義」を批判し、政府に対策を促してきましたが、原子力発電そのものは否定しないという複雑な論理を持っていて、一歩間違えれば二重基準になりかねない危うさがあります。現在でも、1)安全対策を施す、2)自然エネルギー・低エネルギー社会へ移行する、という二段階論で、その態度には一貫性があり、矛盾はそうないとも言えます。
安斎先生も、この書物の最後の部分で「生き来し方を振り返って」という章を設けて、自分の半生を振り返っておられ、その中で、過去の著作にも触れられています。しかし、1974年におだしになったなった、『日本の原子力発電』(中島篤之助との共著)に言及するにあたり、出版当初の副題「安全な開発をめざして」を省いておられることについては、やや残念に思います。『日本の原子力発電』は、GHQの指導下に発足した戦後の9電力体制を、アメリカの石油メジャーの中東政策との関連で批判し、原子力発電所の設置に関して社会的に合理的な判断がなされず、電力消費地に建設出来ないがゆえ、潜在的リスクの大きい地域に建設せざるをえず、なお且つ、地方が電力を都市部に供給する非効率・不経済な電力供給システムであり、反対派への露骨な圧力や脅迫など、地域共同体の紐帯を引き裂く要因ともなっていることを的確に指摘していますし、非常用炉心冷却装置が極めてぜい弱であることにも触れており、この度の福島の問題がまさしく「人災」であったことを再確認できる貴重な文献であります。
しかし、一方で、「原子力発電所を本当に国民の福祉のために、安全性を尊重する立場で建設するには9電力体制」を再検討し、「総合エネルギー公社」を設置すべきと述べ、原子力発電そのものを否定しておりません。9電力体制とアメリカ依存の関連性の指摘は、日本政府が原発を推進するにあたって、アメリカのモデルを無批判に採用したことに鑑みれば適当な批判と思えます。しかし、原発行政を一元化し、正直にやれば、“より安全になる”というのは、やや短絡的とも思えますし、現実に原発が54基も建ってしまった現状を直視すれば、“原発行政批判の在り方として”妥当であったのかどうかの批判的検討もなされるべきと思います。つまり言いたいことは、なぜ日本の原発行政が「正直」でなかったのか問われれば、安斎さんご指摘の通り、技術的に未成熟で危険なものであり、よって金と権力で丸め込まざるを得なかったということになるわけでして、原発をシステムとして認める限り、結局ある種の循環論法に陥らざるを得ないのではないかということです。
本書においても、原子力発電を直ちに全廃することは、電力供給だけの問題に留まらず、核廃棄物処理、廃炉費用、原子力労働者の雇用問題等、考慮すべき様々なファクターがあり困難だが、脱原発の為には、「アメリカ支配」からの脱却が前提であると強調しておられます。つまり、以前は、「『安全な』原発平和利用=アメリカ支配脱却」だったのが、本書においては、「原発依存脱却=アメリカ支配脱却」とスタンスが微妙に変化しているわけですが、原発の数がまだ少なかった60年代後半から70年代前半と、原発が乱立し、日本の原発に利害を持っている国が最早アメリカだけではない現在との間の状況変化も踏まえ、これについての説明はやはりなされるべきだと思います。
また、安斎さんは、3月30日に原子力関連要人が政府に提出した「福島原発事故についての緊急提言」を全文引用し、評価しておられますが、さてそれはどうでしょうか。この「緊急提言」は、難局を乗り切るため、「日本原子力研究開発機構」などの組織が動くべき云々と述べているのですが、その日本原子力研究開発機構が、2日後の4月1日付けで、理事長鈴木篤之の名前で、噴飯ものの「ごあいさつ」をHPに載せていることは、既に川村湊さんが暴露し、私も以下の記事に書いた通りです。
と、思ったら、「ごあいさつ」が準備中になってる!おいこら!加納さんと言い、与謝野さんと言い、こんな人達がウヨウヨいるようじゃ、反対するしかないでしょ^^;。更新履歴にも、この件についての言及が見当たらない。
広島平和研究所の田中利幸氏の 「日本の反核運動は原発を容認してきた」というタイトルの論文も併せてご覧ください:
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書評(人文、社会科学系)
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