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この書物は、昨年の暮れに読んだ。在特会については、私も色々なところで「遭遇」している。だいたい、予想した通りの内容だったので、読後の驚きはあまりなかったが、安田氏は、時に罵声や怒号を浴びせられ、時には無視され、時には自らも叫び返しながら、相当この組織に密着して取材を重ねている。もちろん、これで在特会の全てが分かるわけではないけれど、以前から、彼らに対して感じていたことを再確認出来た書物である。
在特会の会員は、恐らくそれを認めないだろうけれど、私は、安田氏は、彼らの数少ない理解者であると思う。安田氏をここまで突き動かしたのは何かというと、「あとがき」で御本人も認めておられるように、「共感」する部分があったからだろう。実は、私も、在特会の行動や言動自体は許せないと思っているのだが、あのメンバー個々に関しては、恐らくそれぞれ心の持ち方は異なるだろうし、職場や学校では、多分違う「自分」を見せているのだろうとも思う。自分が教えている学生みたいな若者も数多くいるし、市民的「常識」から考えれば、軽く許容範囲を超える発言・行動だが、彼らからすれば、そのような「常識」、もしくは、その「常識」の醸成に預かった諸勢力こそ、破壊されるべき「権威」に見えているのだろう。問題は、ああいう組織に入って活動する場合、ちょっとでもその活動のあり方に異議を唱えると、内部で周辺化されたり、異端視されてしまうということである。安田氏によれば、どうもそういうことが起こっているようだ。それと、行動自体が自己目的化すると、もうそれは「運動」と呼べるようなものですらなく、外部に対しても内部に対しても、過激化してくるということである。昔、左翼学生運動が辿ったような悲惨なことにならないよう祈る。他者に対しても、身内に対しても。安田氏もそう思っているはずだ。
安田氏が、エリック・フロムを引いて説明しているけれど、全体主義の背後にある民衆心理を説明する議論としては古典的なものである。シニシズムってやつだ。日本語では「冷笑主義」と訳されるが、例えば、もっともらしい議論に対する懐疑心ってやつが出てくるのである。もっともらしい議論ってのは、例えば「愛」「共感」「理解」「平等」「人権」「平和」とかそういうものである。戦後の日本は、建前上民主主義ってことになっていて、「平等」「人権」「平和」とか言うものが、教育現場では、それ相当に謳われてきたわけだし、メディアもだいたいそういう方向で情報を流す。保守的な心性を持つ人からすれば、それらは、言わば「不可侵」の領域であり、アンタッチャブルであったのだ。そういう標語の下に守られてきた面々ってのは誰かと問われれば、外国人であったり、被爆者であったりする。日本は戦争責任があるわけだから、中韓に対しても平身低頭しなきゃいかん立場ってことになるし、これも或る種の不文律として、戦後の民衆意識の中に刷りこまれてきた。もっとも、フロムは、シニシズムと権威主義の結合を、ナチズムとの関連で論じているのだが。
平たく言えば、在特会やそれを支える土壌であるネット世論は、そのような風潮自体を「権威」と見なして、反発しているということになる。その「権威」の担い手は、テレビ・新聞等のメディア、教育(学校)、公務員、各種人権団体、労組だ。在特会や彼らの背後にいる多数が、保護されていない、むき出しの個であるとすれば、これら「権威」の担い手は、保護されている「特権階級」であるとなる。そこへきて、匿名空間のネットの登場である。むき出しの個の「声なき声」の表出を可能にしたツールだ。まあ、この辺りは、ここ10年言われてきたことで、それほど目新しい議論ではないし、恐らくそういうことだと思うが、このネット言論が、実社会の生活現場の媒介を経ずに、そのまま現実空間に接続された時に、在特会という「場」が生まれる。在特会は、自らを「保守」とも「右翼」とも異なる「市民」と位置付けて行動する団体である。「右翼」や「保守」というようなものには、それなりの理念や哲学があるわけだが、在特会には、格別そういう「深淵な」ものはなく、彼らは、世の中になんとなく蔓延する「気分」を代弁する存在である。よって、安田氏は、それを「恐ろしい」と感じると同時に、彼らが、見せる忘我的カタルシスを「羨ましい」とも思うのである。確かに、天下の公道で、あれだけの罵詈雑言を思いっきり吐ければ、気持よさそうだなどと思う自分がどこかにいないわけではない。
安田氏は、在特会の行動自体には、もちろん賛意を表しているわけではなく、「許せない」と思っているわけだが、理解も示しているので、人種主義に対する批判精神が足りないとか、所謂リベラルな方々からも随分批判されたようである。実は、私は、そういう批判が出てくるところが、戦後民主主義の最大の弱点であると思っている。以前、加藤典洋の『敗戦後論』と、高橋哲哉のそれに対する反論が出た時に、よく言われたことは、「話がかみ合ってない」である。前者の議論は、平たく言えば、戦後民主主義偽物論であり、左派運動体には随分不評だった。でも、これは私の過去記事を探していただければ見つかると思うのだが、私は、どちらかと言えば、前者の議論に共感しているくちである。安田氏の本書におけるレポートは、加藤の議論を、より現象的な側面から明らかにしたものだと思う。
これは、私と長い付き合いのある方はご存知だと思うが、私は、あの宅間守という男に結構理解を示している人間である。もちろん、彼のやったことは、絶対に許しがたい。しかし、宅間守や在特会の存在には、「近代」というものを巡る重要な問いかけが含まれていると私は思う。自分たちを、宅間守と同じ地平で語られることに彼らは反発するだろうか。「俺たちを、あんな殺人鬼と一緒にするな!俺たちは、大義のために戦っているのだ」と。恐らく、そうなるだろうと思う。なぜなら、宅間守は、ネット空間では、見事に在日扱いされているからだ。もちろん、宅間と在特会の面々では、闇の深さが雲泥の差であるが、なんとなく共通項が見える。自らを、「被害者」と規定し、何かに対して怯え、復讐したがっているという点についてはよく似ている。もっとも、安田氏の言う、疑似家族という観察を考慮すれば、在特会は、暴力団なんかと同じで、彼らが、闇の底に落ちないための受け皿になっているのかもしれない。
それから、マーケットが、共同体に及ぼす作用に関しての何らかの言及があると良かったと思うけれど、それは恐らく本書の目的を超えているだろう。なぜ、彼らの攻撃の矛先が、主に「在日コリアン」「韓国」「韓国人」に向かうのかという点に関しても考察が必要だろう。「危険度」や「異質度」からいえば、中国のほうがより「高そう」だし、留学生の数だって、中国人のほうが多いはずだ。横浜や神戸には、華僑や華人の資本が形成されていて、親族が中国にいたりするではないか。にもかかわらず、中国より韓国に言及するときに、彼らのボルテージは上がるようである。この点についての、歴史社会的考察が、ちょっとでもあると議論に幅が出るように思う。
「レイシズムはいけない」というのは、一種の現象面での批判である。もちろん「いけない」のであるが、それだけでは足りないと私は思う。レイシズムに抗する側−私も含めて−が、心に留めておく必要があるのは、「人が抱える問題は、それが他者からみれば如何に小さなものに見えようとも、その人の中では『絶対』である」ということ。それから、これは、吉本隆明も、帝国陸軍兵士だった死んだ爺ちゃんも言っていたのだが、世の中が混沌としてきたときに、社会のあり方を決めるのは、議論が「正しいか」どうかではなく、「声がでかいかどうか」である。なんせ、爺ちゃんは、召集令状が来た時、「なんかもやもやしたつっかえがとれて、パッと晴れたような気分がして嬉しかった」そうだから。そもそも、在特会の急成長を可能にしたのは、その扇動的主張の分かりやすさと、敷居の低さである。左派運動体なんてのは、なにやら小難しい議論をするし、学習会なんかでも、多分、生活にはあんまり憂いのない大学の先生とかが現れて、立派な議論を展開する。そもそも、そういうものに彼らは反発しているのだ。要するに、主張の「正しさ」で、世の中を説得しようとしているのではなく、「このままでは日本は乗っ取られる」という危機意識と被害者感情が、彼らを動かす原動力である。この不健康な負のエネルギーは、かなりの求心力があるのである。
それから、本書を読み進めながら、余りにも可笑しくて、吹きだした箇所がいくつかあった。安田氏は、なかなか上手な書き手である。
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書評(人文、社会科学系)
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初めまして。jojobright と申します。仕様上Yahooのアカウントで投稿させていただきましたが、当方の韓国関係のブログはこちらです: http://ameblo.jp/mirixgogo/
私も在特会に否定的な立場ながら、なぜか目が離せずいろいろ考えさせられてしまいます。
宅間守との比較は新鮮な視点ですね。宅間は名門学校に入れず、それを引きずったまま大人になってあのような事件に至ったと説明されることがあります。「本来の場所に自分はいない」という歪んだ情念から攻撃的になったという点で宅間と在特には共通点があるのかもしれません。
ですが宅間と在特が決定的に違うのは、在特は奇妙なほど破壊衝動を抑えているという点です。言葉の暴力はひどいけれど実力は行使しな在特と、婦女暴行や傷害を繰り返した宅間とはきわめて対照的です。激昂しているように見えながら手だけは出さないというのは理性が働いているからでしょうが、それも公安が張り付いているからというより、連中なりの美意識がありそうです。それこそ戦後的なモラルを体現しているとさえ言えるかもしれません。
2013/4/20(土) 午前 1:53 [ ale**ojo66 ]
ale**ojo66さん、
こんにちは。返事が遅くなりすみません。在特会は、「祭り」的雰囲気があります。彼ら自身、「祭り」と呼んでいるわけですが。その意味では、オウム真理教や宅間守ほどのうっ屈した不気味さはありません。在特会も「手」は出しますが、一人ではやりません。大抵、その場の盛り上がりで、忘我状態になっているときに、 女性の足を蹴ったり、唾かけたり、キーホルダーを引きちぎったりという程度で、それ以上に踏み込む様子は、「今のところ」見えません。なので、彼らの場合、抑え込むというより、包摂するという考え方のほうが有効であるような気がしています。
2013/4/21(日) 午後 0:44
ご返答ありがとうございます。以前読んだ本多勝一と金大中の対談で興味深かったのが、日韓の怒りの表現方法の違いでした。悪口は日本語より韓国語の方がずっと発達している、その代わり韓国人は滅多に暴力を振るわない、日本人は言葉の前にまず拳骨が飛んでくる、日本人はそれを潔いこととさえ思っているからダメだという話でした。「日韓が逆ではないか」と思う人もいるでしょうが、戦中派の二人にはそれが実感だったのでしょう。暴力の行使と悪口の発達が反比例の関係にあるのだとすれば「ヘイト・スピーチ」にも暴力回避の機能があるのかもしれません。「足を蹴ったり、唾かけたり、キーホルダーを引きちぎったり」という情報は私もTwitter上で見かけたことはありますが、俄かには信じがたいと思います。大嫌いなので庇っているように思われたら心外ですが(笑)、連中はもう少し「純粋」ではないでしょうか。在特の思想も行動も間違っているとは思うけれど、連中は損得でやってるわけじゃなく「美意識」で動いていることは伝わってきます。
2013/4/23(火) 午前 0:19 [ ale**ojo66 ]
ale**ojo66 さん、
傍で見ていても、「美意識」はあまり感じないのですが(笑)。「女性の足を蹴った」「キーホルダー引きちぎった」は事実で、複数の目撃者がいます。ただ、被害者が訴えなかっただけです。大けがしたわけじゃなし、いちいち相手にするの面倒くさいですからね。ヘイトスピーチが「暴力回避」の機能ってのは、ポルノが性犯罪回避の機能を果たすという議論に近いものがありますね。私は、実は、在特会の面々を少し知っているんです。極めて、普通の青年だったりしますよ。
2013/4/23(火) 午前 2:19