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4月11日
【新大久保からレイシズムをぶっつぶせ】 在特会ら「行動する保守」による差別・人権蹂躙デモに、ついに日本社会がキレた! 差別反対の意志表示やデモコース変更請願署名など、この1か月に起こったさまざまなレイシズム反対アクションの呼びかけ人たちが集まって、今後の作戦を協議する。 ぼくたちは仲良く暮らしたいんだよ。 レイシストは邪魔するな! 【出演】 有田芳生(参議院議員)(予定) 木野トシキ(プラカ隊主宰) 金展克(請願署名呼びかけ人) 武市一成(拓殖大学外国語学部講師) 司会:松沢呉一 OPEN 18:30 / START 19:00 予約 ¥1000 / 当日 ¥1300(飲食別) ※ご予約はネイキッドロフト店頭電話&ウェブにて受付 電話→ 03-3205-1556(16:30〜24:00) ウェブ→ http://www.loft-prj.co.jp/naked/reservation/ ※ご入場は当日の先着順になります。 |
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差別的デモに対する署名のお願いです。以下をクリックし、内容をご一読いただき、ご賛同頂けるようでしたら、ご署名をお願いします。出来れば、コメントも付けていただけると幸いです。転載可です。
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この書物は、昨年の暮れに読んだ。在特会については、私も色々なところで「遭遇」している。だいたい、予想した通りの内容だったので、読後の驚きはあまりなかったが、安田氏は、時に罵声や怒号を浴びせられ、時には無視され、時には自らも叫び返しながら、相当この組織に密着して取材を重ねている。もちろん、これで在特会の全てが分かるわけではないけれど、以前から、彼らに対して感じていたことを再確認出来た書物である。
在特会の会員は、恐らくそれを認めないだろうけれど、私は、安田氏は、彼らの数少ない理解者であると思う。安田氏をここまで突き動かしたのは何かというと、「あとがき」で御本人も認めておられるように、「共感」する部分があったからだろう。実は、私も、在特会の行動や言動自体は許せないと思っているのだが、あのメンバー個々に関しては、恐らくそれぞれ心の持ち方は異なるだろうし、職場や学校では、多分違う「自分」を見せているのだろうとも思う。自分が教えている学生みたいな若者も数多くいるし、市民的「常識」から考えれば、軽く許容範囲を超える発言・行動だが、彼らからすれば、そのような「常識」、もしくは、その「常識」の醸成に預かった諸勢力こそ、破壊されるべき「権威」に見えているのだろう。問題は、ああいう組織に入って活動する場合、ちょっとでもその活動のあり方に異議を唱えると、内部で周辺化されたり、異端視されてしまうということである。安田氏によれば、どうもそういうことが起こっているようだ。それと、行動自体が自己目的化すると、もうそれは「運動」と呼べるようなものですらなく、外部に対しても内部に対しても、過激化してくるということである。昔、左翼学生運動が辿ったような悲惨なことにならないよう祈る。他者に対しても、身内に対しても。安田氏もそう思っているはずだ。
安田氏が、エリック・フロムを引いて説明しているけれど、全体主義の背後にある民衆心理を説明する議論としては古典的なものである。シニシズムってやつだ。日本語では「冷笑主義」と訳されるが、例えば、もっともらしい議論に対する懐疑心ってやつが出てくるのである。もっともらしい議論ってのは、例えば「愛」「共感」「理解」「平等」「人権」「平和」とかそういうものである。戦後の日本は、建前上民主主義ってことになっていて、「平等」「人権」「平和」とか言うものが、教育現場では、それ相当に謳われてきたわけだし、メディアもだいたいそういう方向で情報を流す。保守的な心性を持つ人からすれば、それらは、言わば「不可侵」の領域であり、アンタッチャブルであったのだ。そういう標語の下に守られてきた面々ってのは誰かと問われれば、外国人であったり、被爆者であったりする。日本は戦争責任があるわけだから、中韓に対しても平身低頭しなきゃいかん立場ってことになるし、これも或る種の不文律として、戦後の民衆意識の中に刷りこまれてきた。もっとも、フロムは、シニシズムと権威主義の結合を、ナチズムとの関連で論じているのだが。
平たく言えば、在特会やそれを支える土壌であるネット世論は、そのような風潮自体を「権威」と見なして、反発しているということになる。その「権威」の担い手は、テレビ・新聞等のメディア、教育(学校)、公務員、各種人権団体、労組だ。在特会や彼らの背後にいる多数が、保護されていない、むき出しの個であるとすれば、これら「権威」の担い手は、保護されている「特権階級」であるとなる。そこへきて、匿名空間のネットの登場である。むき出しの個の「声なき声」の表出を可能にしたツールだ。まあ、この辺りは、ここ10年言われてきたことで、それほど目新しい議論ではないし、恐らくそういうことだと思うが、このネット言論が、実社会の生活現場の媒介を経ずに、そのまま現実空間に接続された時に、在特会という「場」が生まれる。在特会は、自らを「保守」とも「右翼」とも異なる「市民」と位置付けて行動する団体である。「右翼」や「保守」というようなものには、それなりの理念や哲学があるわけだが、在特会には、格別そういう「深淵な」ものはなく、彼らは、世の中になんとなく蔓延する「気分」を代弁する存在である。よって、安田氏は、それを「恐ろしい」と感じると同時に、彼らが、見せる忘我的カタルシスを「羨ましい」とも思うのである。確かに、天下の公道で、あれだけの罵詈雑言を思いっきり吐ければ、気持よさそうだなどと思う自分がどこかにいないわけではない。
安田氏は、在特会の行動自体には、もちろん賛意を表しているわけではなく、「許せない」と思っているわけだが、理解も示しているので、人種主義に対する批判精神が足りないとか、所謂リベラルな方々からも随分批判されたようである。実は、私は、そういう批判が出てくるところが、戦後民主主義の最大の弱点であると思っている。以前、加藤典洋の『敗戦後論』と、高橋哲哉のそれに対する反論が出た時に、よく言われたことは、「話がかみ合ってない」である。前者の議論は、平たく言えば、戦後民主主義偽物論であり、左派運動体には随分不評だった。でも、これは私の過去記事を探していただければ見つかると思うのだが、私は、どちらかと言えば、前者の議論に共感しているくちである。安田氏の本書におけるレポートは、加藤の議論を、より現象的な側面から明らかにしたものだと思う。
これは、私と長い付き合いのある方はご存知だと思うが、私は、あの宅間守という男に結構理解を示している人間である。もちろん、彼のやったことは、絶対に許しがたい。しかし、宅間守や在特会の存在には、「近代」というものを巡る重要な問いかけが含まれていると私は思う。自分たちを、宅間守と同じ地平で語られることに彼らは反発するだろうか。「俺たちを、あんな殺人鬼と一緒にするな!俺たちは、大義のために戦っているのだ」と。恐らく、そうなるだろうと思う。なぜなら、宅間守は、ネット空間では、見事に在日扱いされているからだ。もちろん、宅間と在特会の面々では、闇の深さが雲泥の差であるが、なんとなく共通項が見える。自らを、「被害者」と規定し、何かに対して怯え、復讐したがっているという点についてはよく似ている。もっとも、安田氏の言う、疑似家族という観察を考慮すれば、在特会は、暴力団なんかと同じで、彼らが、闇の底に落ちないための受け皿になっているのかもしれない。
それから、マーケットが、共同体に及ぼす作用に関しての何らかの言及があると良かったと思うけれど、それは恐らく本書の目的を超えているだろう。なぜ、彼らの攻撃の矛先が、主に「在日コリアン」「韓国」「韓国人」に向かうのかという点に関しても考察が必要だろう。「危険度」や「異質度」からいえば、中国のほうがより「高そう」だし、留学生の数だって、中国人のほうが多いはずだ。横浜や神戸には、華僑や華人の資本が形成されていて、親族が中国にいたりするではないか。にもかかわらず、中国より韓国に言及するときに、彼らのボルテージは上がるようである。この点についての、歴史社会的考察が、ちょっとでもあると議論に幅が出るように思う。
「レイシズムはいけない」というのは、一種の現象面での批判である。もちろん「いけない」のであるが、それだけでは足りないと私は思う。レイシズムに抗する側−私も含めて−が、心に留めておく必要があるのは、「人が抱える問題は、それが他者からみれば如何に小さなものに見えようとも、その人の中では『絶対』である」ということ。それから、これは、吉本隆明も、帝国陸軍兵士だった死んだ爺ちゃんも言っていたのだが、世の中が混沌としてきたときに、社会のあり方を決めるのは、議論が「正しいか」どうかではなく、「声がでかいかどうか」である。なんせ、爺ちゃんは、召集令状が来た時、「なんかもやもやしたつっかえがとれて、パッと晴れたような気分がして嬉しかった」そうだから。そもそも、在特会の急成長を可能にしたのは、その扇動的主張の分かりやすさと、敷居の低さである。左派運動体なんてのは、なにやら小難しい議論をするし、学習会なんかでも、多分、生活にはあんまり憂いのない大学の先生とかが現れて、立派な議論を展開する。そもそも、そういうものに彼らは反発しているのだ。要するに、主張の「正しさ」で、世の中を説得しようとしているのではなく、「このままでは日本は乗っ取られる」という危機意識と被害者感情が、彼らを動かす原動力である。この不健康な負のエネルギーは、かなりの求心力があるのである。
それから、本書を読み進めながら、余りにも可笑しくて、吹きだした箇所がいくつかあった。安田氏は、なかなか上手な書き手である。
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国と国の関係を考える時、私は、だいたい身近なところから判断するようにしている。結構それで当たっている場合が多い。一番良いのは、ネットとかテレビを離れて、街に出ることだ。別に横浜や新大久保に行く必要はなく、アキバとか、早稲田とかで十分である。
私の場合は、非常勤で週に一回しか出講しない大学だが、外国人の留学生がたくさん集まるところにいるので、彼らと付き合っていると、だいたいのところはわかる。そういう性格の大学だからだ。一応言っておくと、留学生が増えたのは、ここ10年の傾向で、これに一番貢献したのは、小泉・安倍自民党政権である。一番多いのは中国で、その次が韓国。それから東南アジア諸国。それと、ヨーロッパだが、中でもフランス。日中韓共同教科書の件が始動しはじめたのも小泉・安倍政権からだったと思う。
で、今尖閣でごちゃごちゃやってるから、来年度からコマ数が減るかもと戦々恐々としていたら、教務によれば、全然影響なく、例年通りの出願状況なんだそうな。一度、留学生だけのクラスも教えたことがある。だいたい英語でディスカッションなので、こっちは聴いているだけなんだけど。
まず、韓国の学生なんだけど、彼らは、だいたい保守政治家が嫌い。つまり李明博とかに対しては批判的であるってこと。これは若い人ほどそういう傾向がある。その理由はというと、「李明博になってから徴兵期限が延びた」とかそういう自分の生活に関わることだったりする。それと、若い世代の場合、日本に対して批判的な気持ちを持つのは、だいたい竹島関連で、日帝の植民地支配ってのはそれほどでもない。というのは、彼らにとっては、朝鮮戦争ですら、とお〜い昔の話で、ましてやそれ以前のことってのは実感がわかないのである。これは、日本の若い世代にとって、60年前の敗戦や占領期がピンとこないのと同じ。ましてや、沖縄が、1972年までアメリカ領だったなんてのは、ほとんど他人事である。
彼らの教科書は、日本の圧政よりは、むしろ独立運動のほうに力点が置かれた記述がなされている。三・一三独立運動のことなんかは、知識としては当然知っているけれど、大事なことは、韓国ってのは、日本を上回る暗記教育の社会である。だから、折角民族の独立史が教科書には書いてあっても、試験のツールに堕してしまっているので、その意味するところをそれほど理解しているわけではない。この辺りは、結構お互い様である。「反日をだしに、民族主義を煽っているようなところもありますからね」なんて、ものすごく冷静な発言をする学生がいたりする。と、思ったら、「先生、日本政府はなぜウソをつくんですか」などと抗議めいたことを言う学生もいる。そういう場合、私はだいたいこのように言う。「あなたは、独島を自国領だと言うけれど、日本の主張や韓国の主張を裏付ける文書書類に一応目を通した結果言ってるんですか。そうじゃなきゃ、自国の言ってることは無条件に正しいっていう、一種の宗教じゃないですか」と。「先生はどうなんですか?」と聞かれた場合、「私は、この問題の専門家じゃないが、とりあえず、10指に余る二次文献を読んでみたところ、どっちとも言えず、微妙だと思う」と答える。別に、問題をはぐらかす意図はない。そう思うからである。女の子は、ファッション等に興味があって、日本の若い女の子とあんまり変わらない。男性学生は、ものすごく礼儀正しい。韓国では、教員の権威が日本より高いし、彼らは、徴兵制を経験したりしていて、そういうところはきちんとしているのである。
中国の学生と言っても、中国ってのは、もうこれは一つの国と呼べるような代物じゃない。地域によって言葉もちがうし、考え方もちがっている。だいたいの学生が、政治的なことにはあまり興味がない(笑)。ある人もいるけど、我々がテレビあたりでみて感じるほど強硬に考えているわけじゃない。一人の学生は、はっきりと「あ、私、中国共産党好きじゃないんで」と言った。そういう若者も増えているんだろう。卒業後も中国に帰るつもりはないんだそうだ。もう7年日本にいて、英語も日本語も相当出来る学生もいる。普通の日本の学生だと太刀打ちできないレベルだ。総じて、日本の学生のほうが内向きだと思う。
東南アジア、例えば、マレーシアとかインドネシアの学生だと、日本の戦争責任のことは彼らもよく学んでいて、日本の学生がこの問題をよく知らないことについて、苦笑いする。「これほど知らないとは思わなかった」という、ある種のあきれ顔というか。まあ、今にはじまったことじゃないけど。実際に交流するってのは、やっぱり大事だ。
もちろん、私は、私なりの動機によって、日本の戦争責任については行動してきているし、今後もするつもりだ。こういうことは、「ほっといてもなんとかなるだろ」って態度もOKだし、そういうこともあるかもしれないが、やはり能動的に活動している市民の力も無視できないし、その蓄積については、英語やハングル等を使って、国際的にもアピールしていかなければと思っている。日中韓(朝)の問題は、本当なら、60年代~70年代に、解決していなくてはならなかった類のものだが、冷戦期で、お互い当事国の思惑もあり、経済優先で、色々大事なことを棚上げにしてきて、それが今くすぶっている。私は、40代後半だが、私の世代で受けついて、後に渡していくしかないだろう。排外主義的空気が強くなれば、それに対抗できるカウンターの形成は大事なので、マスコミが委縮しているなら、市民がやるしかないでしょうよ。
後、語学と「赦し」について何か書きたいが、それはまたいずれかの機会に。とまれ、私の場合、書物とかネットの情報よりかは、やはり生身の付き合いから考えて行くってのが基本で、それが性にあってるし、そのほうが、理念が肥大化せずに、足に地をつけて行動出来る。それと、いつも学生に言うんだが、一時期閉じこもってもいいけど、最終的には外に開けよ、と。個人でも、閉じこもると、色々と妄想をしてしまう(笑)。「書を捨てて街にでよう」じゃないけれど、コンピューターから離れて、街を歩き、人の息吹を実感として感じとる方がよっぽど良かったりする。
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韓国という国に、ある意味取りつかれているらしい、産経新聞社の黒田勝弘は、なんでもかんでも自国の起源だと主張したがる韓国において、「花札とタクアンとトウガラシだけは『日本起源』と認めてくれている」と書いている。キムチというのは、発酵食品で、単なる調味液につけたような浅漬け風のものはキムチではないというのが、韓国の食品関係者の認識で、そのような偽キムチの大元が日本であるというのは、韓国の食品業界の危惧するところであった。そんなわけで、日本の農協に相当する、韓国農協のHPに飛んで、一番上をご覧いただきたい。
http://www.koreafood.co.jp/
「韓国農協は日本のキムチとは一線を画した本当のキムチを販売しております」
ここに、韓国農業団体のキムチにかけるナショナリスティックなプライドが見て取れる(笑)。黒田は、「日本起源と認めてくれている」と書いているが、残念。農協HPの「キムチの歴史」のところをご覧いただきたい。http://www.koreafood.co.jp/trivia/history.html 「16世紀に韓国に伝来した唐辛子が、18世紀頃からはキムチ作りに本格的に使われるようになりました」
「韓国に」と「伝来した」の間に、「日本から」の文句が見当たらない(笑)。ま、そりゃそうだ。それに言及すると、壬辰倭乱(文禄慶長の役)、すなわち、秀吉による朝鮮侵略に触れないわけにはいかない。というのは、秀吉の朝鮮出兵と朝鮮への唐辛子伝播は密接な関係がある。もちろん、それが全てではなくって、文禄慶長の役前後から、唐辛子は、日本列島と朝鮮半島の間の主要な交易品目だったわけでわあるが。
まあ、それは良いんだけど、黒田の、「花札とタクアンとトウガラシだけは『日本起源』と認めてくれている」という文句もちょっといただけない。なぜなら、唐辛子は、「日本起源」ではなく、ポルトガルの宣教師が日本にもたらしたものだからだ。じゃあ、唐辛子はボルトガル原産なのかというと、そうじゃない。ポルトガルとかスペインが、中南米を征服する過程で、ヨーロッパに伝わったものだから、もともとは、西インド諸島とか、中南米である。黒田の言う「日本起源」は誤解を生む。なんでもかんでも、「日本起源」にしてはいけない。
さて、「韓国農協は日本のキムチとは一線を画した本当のキムチを販売しております」だが、こうなると、韓国農協の「本当のキムチ」を試さずにはいられない。韓国農協から直接ネットで買えるが、私は、新大久保の量販店で買った。結論から言うと、あまり旨くない(笑)。製造工程に手抜きはなさそうだし、材料もちゃんとしているが、なんせレトルトパックに入った代物だから、なんちゅうか・・・・。それと、キムチってのは発酵食品だから、刻一刻と味が変化している。漬けてから時間がたったヤツは酸味が強くなるので、そうなると、だいたい炒め物や鍋に使う材料となる。
そういうわけで、本場のパック詰めキムチよりは、上野や鶴橋の在日コリアンの方が経営する商店が漬ける、新鮮なキムチに軍配を上げざるを得ない。新大久保だが、キムチを買うのなら、あそこはよろしくない。あくまで、上野のマルキンがよろしい。http://www.kimchi-marukin.com/
昔からよく行くから、店の人とはほとんど顔見知りである。辛すぎず、甘すぎず、絶妙な味わいである。実際店舗に足を運ぶ場合、私は、「落とし」の部分を買う。普通の品より2割ほど安いからだ。要は、パンの耳みたいなもんで、本当なら切って捨てる、白菜の外側を使った部分である。味は全く変わらない。通常商品より歯応えがあって良いくらいだ。こいつをつまみに、百歳酒を飲むってのが一番よろしい。
参考文献:
鄭大声『朝鮮半島の食と酒‐儒教文化が育んだ民族の伝統』中公新書
黒田勝弘『韓国を食べる』文春文庫
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