錯乱気流

無茶苦茶忙しいやんけ・・・

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「切腹」という映画がある。かなり有名な作品だから、ご覧になった方も多いはずだ。「人間の條件」で有名な名匠小林正樹監督による1962年公開の作品である。私はこの「切腹」が、日本映画の最高峰であると信じて疑わない。いや、それどころか、世界的に見てもこれを上回る作品はそうないと思わせる。主演は当時28歳だった仲代達矢。脇を固めるのは、少女時代の岩下志麻、最早故人となった丹波哲郎、三国連太郎など錚々たる顔ぶれである。音楽は武満徹。

時代設定は、寛永7年(1630年)ということになっている。寛永7年と言えば、大阪冬の陣から15年ほど経過した時期である。映画の背景にあって重要なのは、改易でお家取り潰しとなった大名家の家臣が、食い詰め浪人となり、主取りを求めて江戸表を放浪するという社会状況である。この状況下で、ある奇妙な現象が起こり始める。奇妙な現象とは、大名屋敷に押しかけ玄関先で「腹を切る」と息巻く浪人が多数現れるという事態である。窮乏と空腹に呻吟し、このまま生き恥をさらすより、武士らしい最後を遂げるため、屋敷の玄関を借り、腹を切らせろと懇願する浪人が後を絶たなくなったというのだ。というのも、ある浪人がその行為で、却って「勇気」と「覚悟」を認められ、大名家のお納戸役に取り立てられるという幸甚に預かった事例があったからである。しかし、たいがいの屋敷が、某かの金銭を与えて引き取らせた為、これら浪人の所業は、いつの間にか金銭目当ての強請りたかりの類と区別のつかないものとなっていた。

この映画の主題はズバリ「痛み」である。映画は、千々岩求女(石浜朗)という若い浪人の切腹を中心に展開する。求女は、上記の食い詰め浪人の例にならい、井伊家屋敷を訪れ、切腹を申し出る。しかし、これには背景があり、生まれたばかりの長男金吾が発病し、妻の美保(岩下志麻)も病に臥し、生活はいよいよ困窮の度を加え、もはや万事休した末の止むにやまれぬ行為であった。井伊家は、最初から切腹をするつもりのない求女を、家臣の列に加えると見せかけぬか喜びさせ、切腹を申しつけ、妻子に会うため、一両日の猶予をくれと懇願する求女を武士の風上にも置けぬ「卑怯者」と罵倒し、最後は無理腹を切らせる。このときまでに、求女は、武士の魂とも言うべき大小をも売り払い、腰のものはいずれも竹光である。井伊家は、求女に、武士としては屈辱以外の何物でもない竹光での切腹を強要する。この映画における、求女の竹光による切腹シーンは、日本映画でもこれ以上はないと言うべき凄惨な光景であり、残酷なのが苦手な方はちょっと苦しいかもしれない。

さて、ここで映画の重要なテーマ「痛み」が大きくクローズアップされる。求めの切腹が象徴する痛みは、表向きは身体的な「痛み」であるが、竹光による切腹を余儀なくされ、武士としての誇りを傷つけられた精神的な「痛み」がこれにオーヴァーラップする。さらに、公儀の恣意的な政策の犠牲となり、食い詰め浪人に転落した武士の感情的な「痛み」、生活苦に伴う肉体的「痛み」、病苦に喘ぐ妻子の「痛み」などが重層的に折り重なり、求女の切腹に集約して表現されているのである。

仲代達矢演ずる主人公津雲半四郎は、求女の後見人であると同時に、娘美保を求女に嫁がせている関係上、求女の義父にもあたる。津雲は、元福島正則家臣であるが、史実によれば、芸州福島家は広島城改修問題がきっかけで幕府より改易を命じられている。津雲は、求女が無理腹を切らされた半年後に、井伊家に現れ、求女と同じように玄関先での切腹を申し出る。実は、映画そのものは、津雲が井伊家を訪れるシーンで始まり、その後、求女の切腹や、金吾や美保の死などをフラッシュバックの形式でちりばめた構成となっている。津雲はもちろん求女の無念を晴らす為に井伊家を訪れるのである。これ以上書くとネタバレとなるので詳しい筋は割愛するが、津雲が井伊家の中庭で、居並ぶ井伊家家臣の面々を前にし、井伊家家老斎藤勘解由(三国連太郎)と交わす以下のやり取りは、この映画の主題「痛み」との関係上重要なので、少々長いがほぼ全文を記す。

津雲:
如何に衣食に窮したと言えども武士たる者が腹を切ると称して他人の玄関先に押し寄せるなど誠に言語道断許すべき所業ではない。とは言いながら・・・武士たる者が恥じも外聞もなく、もう一両日だけ待ってくれとはよくよく事情があってのこと。せめて、一言、それは如何なる理由か、どういう訳なのか聞き出してやる思いやりは、これだけの方々がおられて、誰一人なかったのか。
斎藤:
それはいろいろと事情もあったであろう。しかし、己自身から申し出た切腹。事、志と食い違いいかなるはめに立ち至ろうと、全ては己が蒔いた種。・・・かくなれば、全てのこと一切は決然と投げ打ち、見事に腹を切る、潔く死に立ち向かう。これこそ誠の侍の道。それにも関わらず一両日待てとは卑怯未練。血迷うたと言われても仕方があるまい。
津雲:
いやそれはその通り。なるほど求女は血迷うた。しかし、よくぞ血迷うた。拙者褒めてやりたい。如何に武士と言え、所詮は血の通う人間、霞を食って生きていけるものでもない。求女ほどの男でも、土壇場に追い詰められれば妻子ゆえに。いやよくぞ血迷うた!・・・仮借なき幕府の政略の為、罪なくして主家を滅ぼされ、奈落の底に喘ぎうごめく浪人者の悲哀など、衣食に憂いのない人には所詮わからぬ。・・・所詮武士の面目などと申すものは、単にその表面だけを飾るもの!

井伊家にとっての武士道は、「切腹」という儀式的行為に象徴されており、彼らにとって、武士の魂たる大小を売り渡し、竹光など手挟む求女は、武士の風上にもおけぬ不埒者なのである。重要なのは、津雲が吐く「武士の面目などと申すものは、単にその表面だけを飾るもの!」という台詞である。津雲は、求女を切腹に追い込んだ井伊家の「武士道」をとりあげ、それを単に「表面的」なものと断じているのである。ここにおいて、津雲は、斎藤が、井伊家の家格にすりよる思考故に、武士道の外形に囚われ、人の持つ「痛み」が分からなくなっているという事実を指弾する。斎藤にとって、「武士の面目」は、社会というコンテクストから遊離した理念的なものであるが、一方、津雲にとって、「痛み」は、生活場面の実際から独立して存在するものではありえないのである。そして、津雲は、求女や美保、金吾の死を通して、そのことを身を持って知る。それは「喪失」を経験した者のみが知る「痛み」でもある。

映画のクライマックスにかけて、津雲が、斎藤の語る「武士道」が、単なる上辺だけの虚飾にまみれたものであることを暴露するスリリングな展開は、まさに映画史上に残る名場面といえる。

能の静謐と歌舞伎の大見得が融合したような見事なフィルムワーク。ほぼ琵琶一本で奏でられる武満徹の音楽の素晴らしい効果。ひとつの芸術作品として至高の領域に達しているのみならず、「国旗」や「国歌」が強制され、毎年何万という自殺者が出る現実の中、「美しい国」などという言辞が臆面もなく弄される昨今において、念頭に置くべき何物かを含む重要な作品であると思う。

しかし、仲代達矢、三国連太郎、丹波哲郎の演技は実に見事で、現今これだけの演技が出来る俳優は果たしてどれだけいるのであろうか。戦後民主主義の頽落を云々する空気からか、最近の時代劇は「清貧・清廉」を強調したような「人情もの」が多いが、今の時代こそ、この「切腹」ような作品が再評価されなくてはならないはずだ。まだの方は、是非ご覧になっていただきたい。

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