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意外とある、ダジャレ施設名
切り刻まれそう・・・
眼科と言えば、「
眼科と言えば、やっぱり、「
全く信用できなさそうに聞こえるのだが、どうしてだろう・・・
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萬の事
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今や、地方の商店街は衰退の一途をたどりつつある。昨日、電話で郷里の高知の伯父と話をしたのだが、高知の状況は今やこういうことである。高知市の繁華街には、もともと帯屋町というアーケード街がある。子供の頃、高知市の郊外に住んでいた私にとって、帯屋町と言えば、そりゃ大都会である。ところが、このアーケード街の店の3分の1が今やシャッターを降ろしているという。今後、その数はもっと増えそうだとのこと。ここ10年で急速に進んだ、地方都市のシャッター街化である。高知市と言えば、人口40万人を抱える、高知の県都なのに、そのど真ん中にあって、近くには住宅地も控える、歴史のある追手前小学校が閉校になる−なった?−のだと言う。
それで、どういうことが起こっているかと言うと、自分の物件を売り払って、愛媛の松山あたりに移動している商店主がいると言うのである。つまり、長年あの土地で商いをしてきた商店主が、地元を見捨てているわけだ。高知市の繁華街以外にも中小の商店街があるが、それも元気がない。高知市に出来た、郊外型大型ショッピングモールに客を取られてしまっているわけだ。これは、首都圏でも同じである。大久保なんてのは、新宿と池袋に挟まれた谷間のような商店街で、バブル崩壊以降、地元の商業ビルに日本人のテナントは入らなくなり、アパートにも日本人は住まなくなった。そこに、中韓を初めとする、外国人が住み始めたのである。多くの家主さんは、そこそこトラブルはあっても、外国人を受け入れる。なぜなら、日本人は入らないからである。だから、外国人があの場所から去ったとしても、街は救えないのである。日本社会の全体に関わる、構造的な要因があるからである。韓流ビジネスが流入する以前から、あそこの商店街は、徐々にチェーン店にとって代わられるようになっていた。
韓国の商店主は、店子の転売・転貸をやるという批判の声が聞こえてきたりするが、そんなことは、実は日本人も普通にやることである。転売や転貸は、原則オーナーの承認がなければ行なうことが出来ない。最初から、転売や転貸が可能であることが契約書に明記されている場合もあるが、ここがグレーなところで、オーナーの暗黙の了解で、これが行なわれている場合もあるのである。なぜなら、転売・転貸を原則に拘って禁止すると、空き物件の期間が長くなり、買い手・借り手がみつからず、オーナーにとっては、結局損だからである。だから、テナントAが月額20万で借りていた店舗を、Aが、名義変更をしたうえで、Bに22万円で転貸しするなんてことは普通にあるのである。日本人のテナントが入ってこない以上、外国のテナントに素早く貸した方が、双方の利益になるからである。もし、これをオーナーの「暗黙の了解」もなく、隠してやっていた場合は、かなり反則だが、物件を管理する不動産会社はその実態を把握しているはずなので、そういうケースはほとんどないだろう、というのが地元の不動産関係者の話である。そのあたりの管理が適当だと、不動産事業者としての資格を問われる事態となるからだ。
従って、表だけ見ていれば、あたかも韓流ビジネスに日本の商店が押し出されているように見えるが、もし韓流ブームがなければ、大久保地域は、資本力のあるチェーンにとって代わられ、あとは軒並み閉店を余儀なくされ、地方都市同様シャッター街となっていた可能性が高い。小泉政権以降、この流れは加速し、安倍政権でさらなる拍車がかかる様相である。実体経済の基底部分は手つかずで、儲けるのは、大資本のみ。在特会ならぬ、安倍特会を結成して、官邸や財務省あたりを行進したいくらいだ。安倍総理のお膝元、山口市内の商店街も青色吐息のようだ。彼は、選挙活動なんかしなくても勝てるもんだから、地元の実態をあんまり御存じないのかもしれない。
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国と国の関係を考える時、私は、だいたい身近なところから判断するようにしている。結構それで当たっている場合が多い。一番良いのは、ネットとかテレビを離れて、街に出ることだ。別に横浜や新大久保に行く必要はなく、アキバとか、早稲田とかで十分である。
私の場合は、非常勤で週に一回しか出講しない大学だが、外国人の留学生がたくさん集まるところにいるので、彼らと付き合っていると、だいたいのところはわかる。そういう性格の大学だからだ。一応言っておくと、留学生が増えたのは、ここ10年の傾向で、これに一番貢献したのは、小泉・安倍自民党政権である。一番多いのは中国で、その次が韓国。それから東南アジア諸国。それと、ヨーロッパだが、中でもフランス。日中韓共同教科書の件が始動しはじめたのも小泉・安倍政権からだったと思う。
で、今尖閣でごちゃごちゃやってるから、来年度からコマ数が減るかもと戦々恐々としていたら、教務によれば、全然影響なく、例年通りの出願状況なんだそうな。一度、留学生だけのクラスも教えたことがある。だいたい英語でディスカッションなので、こっちは聴いているだけなんだけど。
まず、韓国の学生なんだけど、彼らは、だいたい保守政治家が嫌い。つまり李明博とかに対しては批判的であるってこと。これは若い人ほどそういう傾向がある。その理由はというと、「李明博になってから徴兵期限が延びた」とかそういう自分の生活に関わることだったりする。それと、若い世代の場合、日本に対して批判的な気持ちを持つのは、だいたい竹島関連で、日帝の植民地支配ってのはそれほどでもない。というのは、彼らにとっては、朝鮮戦争ですら、とお〜い昔の話で、ましてやそれ以前のことってのは実感がわかないのである。これは、日本の若い世代にとって、60年前の敗戦や占領期がピンとこないのと同じ。ましてや、沖縄が、1972年までアメリカ領だったなんてのは、ほとんど他人事である。
彼らの教科書は、日本の圧政よりは、むしろ独立運動のほうに力点が置かれた記述がなされている。三・一三独立運動のことなんかは、知識としては当然知っているけれど、大事なことは、韓国ってのは、日本を上回る暗記教育の社会である。だから、折角民族の独立史が教科書には書いてあっても、試験のツールに堕してしまっているので、その意味するところをそれほど理解しているわけではない。この辺りは、結構お互い様である。「反日をだしに、民族主義を煽っているようなところもありますからね」なんて、ものすごく冷静な発言をする学生がいたりする。と、思ったら、「先生、日本政府はなぜウソをつくんですか」などと抗議めいたことを言う学生もいる。そういう場合、私はだいたいこのように言う。「あなたは、独島を自国領だと言うけれど、日本の主張や韓国の主張を裏付ける文書書類に一応目を通した結果言ってるんですか。そうじゃなきゃ、自国の言ってることは無条件に正しいっていう、一種の宗教じゃないですか」と。「先生はどうなんですか?」と聞かれた場合、「私は、この問題の専門家じゃないが、とりあえず、10指に余る二次文献を読んでみたところ、どっちとも言えず、微妙だと思う」と答える。別に、問題をはぐらかす意図はない。そう思うからである。女の子は、ファッション等に興味があって、日本の若い女の子とあんまり変わらない。男性学生は、ものすごく礼儀正しい。韓国では、教員の権威が日本より高いし、彼らは、徴兵制を経験したりしていて、そういうところはきちんとしているのである。
中国の学生と言っても、中国ってのは、もうこれは一つの国と呼べるような代物じゃない。地域によって言葉もちがうし、考え方もちがっている。だいたいの学生が、政治的なことにはあまり興味がない(笑)。ある人もいるけど、我々がテレビあたりでみて感じるほど強硬に考えているわけじゃない。一人の学生は、はっきりと「あ、私、中国共産党好きじゃないんで」と言った。そういう若者も増えているんだろう。卒業後も中国に帰るつもりはないんだそうだ。もう7年日本にいて、英語も日本語も相当出来る学生もいる。普通の日本の学生だと太刀打ちできないレベルだ。総じて、日本の学生のほうが内向きだと思う。
東南アジア、例えば、マレーシアとかインドネシアの学生だと、日本の戦争責任のことは彼らもよく学んでいて、日本の学生がこの問題をよく知らないことについて、苦笑いする。「これほど知らないとは思わなかった」という、ある種のあきれ顔というか。まあ、今にはじまったことじゃないけど。実際に交流するってのは、やっぱり大事だ。
もちろん、私は、私なりの動機によって、日本の戦争責任については行動してきているし、今後もするつもりだ。こういうことは、「ほっといてもなんとかなるだろ」って態度もOKだし、そういうこともあるかもしれないが、やはり能動的に活動している市民の力も無視できないし、その蓄積については、英語やハングル等を使って、国際的にもアピールしていかなければと思っている。日中韓(朝)の問題は、本当なら、60年代~70年代に、解決していなくてはならなかった類のものだが、冷戦期で、お互い当事国の思惑もあり、経済優先で、色々大事なことを棚上げにしてきて、それが今くすぶっている。私は、40代後半だが、私の世代で受けついて、後に渡していくしかないだろう。排外主義的空気が強くなれば、それに対抗できるカウンターの形成は大事なので、マスコミが委縮しているなら、市民がやるしかないでしょうよ。
後、語学と「赦し」について何か書きたいが、それはまたいずれかの機会に。とまれ、私の場合、書物とかネットの情報よりかは、やはり生身の付き合いから考えて行くってのが基本で、それが性にあってるし、そのほうが、理念が肥大化せずに、足に地をつけて行動出来る。それと、いつも学生に言うんだが、一時期閉じこもってもいいけど、最終的には外に開けよ、と。個人でも、閉じこもると、色々と妄想をしてしまう(笑)。「書を捨てて街にでよう」じゃないけれど、コンピューターから離れて、街を歩き、人の息吹を実感として感じとる方がよっぽど良かったりする。
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韓国という国に、ある意味取りつかれているらしい、産経新聞社の黒田勝弘は、なんでもかんでも自国の起源だと主張したがる韓国において、「花札とタクアンとトウガラシだけは『日本起源』と認めてくれている」と書いている。キムチというのは、発酵食品で、単なる調味液につけたような浅漬け風のものはキムチではないというのが、韓国の食品関係者の認識で、そのような偽キムチの大元が日本であるというのは、韓国の食品業界の危惧するところであった。そんなわけで、日本の農協に相当する、韓国農協のHPに飛んで、一番上をご覧いただきたい。
http://www.koreafood.co.jp/
「韓国農協は日本のキムチとは一線を画した本当のキムチを販売しております」
ここに、韓国農業団体のキムチにかけるナショナリスティックなプライドが見て取れる(笑)。黒田は、「日本起源と認めてくれている」と書いているが、残念。農協HPの「キムチの歴史」のところをご覧いただきたい。http://www.koreafood.co.jp/trivia/history.html 「16世紀に韓国に伝来した唐辛子が、18世紀頃からはキムチ作りに本格的に使われるようになりました」
「韓国に」と「伝来した」の間に、「日本から」の文句が見当たらない(笑)。ま、そりゃそうだ。それに言及すると、壬辰倭乱(文禄慶長の役)、すなわち、秀吉による朝鮮侵略に触れないわけにはいかない。というのは、秀吉の朝鮮出兵と朝鮮への唐辛子伝播は密接な関係がある。もちろん、それが全てではなくって、文禄慶長の役前後から、唐辛子は、日本列島と朝鮮半島の間の主要な交易品目だったわけでわあるが。
まあ、それは良いんだけど、黒田の、「花札とタクアンとトウガラシだけは『日本起源』と認めてくれている」という文句もちょっといただけない。なぜなら、唐辛子は、「日本起源」ではなく、ポルトガルの宣教師が日本にもたらしたものだからだ。じゃあ、唐辛子はボルトガル原産なのかというと、そうじゃない。ポルトガルとかスペインが、中南米を征服する過程で、ヨーロッパに伝わったものだから、もともとは、西インド諸島とか、中南米である。黒田の言う「日本起源」は誤解を生む。なんでもかんでも、「日本起源」にしてはいけない。
さて、「韓国農協は日本のキムチとは一線を画した本当のキムチを販売しております」だが、こうなると、韓国農協の「本当のキムチ」を試さずにはいられない。韓国農協から直接ネットで買えるが、私は、新大久保の量販店で買った。結論から言うと、あまり旨くない(笑)。製造工程に手抜きはなさそうだし、材料もちゃんとしているが、なんせレトルトパックに入った代物だから、なんちゅうか・・・・。それと、キムチってのは発酵食品だから、刻一刻と味が変化している。漬けてから時間がたったヤツは酸味が強くなるので、そうなると、だいたい炒め物や鍋に使う材料となる。
そういうわけで、本場のパック詰めキムチよりは、上野や鶴橋の在日コリアンの方が経営する商店が漬ける、新鮮なキムチに軍配を上げざるを得ない。新大久保だが、キムチを買うのなら、あそこはよろしくない。あくまで、上野のマルキンがよろしい。http://www.kimchi-marukin.com/
昔からよく行くから、店の人とはほとんど顔見知りである。辛すぎず、甘すぎず、絶妙な味わいである。実際店舗に足を運ぶ場合、私は、「落とし」の部分を買う。普通の品より2割ほど安いからだ。要は、パンの耳みたいなもんで、本当なら切って捨てる、白菜の外側を使った部分である。味は全く変わらない。通常商品より歯応えがあって良いくらいだ。こいつをつまみに、百歳酒を飲むってのが一番よろしい。
参考文献:
鄭大声『朝鮮半島の食と酒‐儒教文化が育んだ民族の伝統』中公新書
黒田勝弘『韓国を食べる』文春文庫
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よくある、公共の場所における通知の外国語訳である。最近は、首都圏であれば、英語、ハングル、中国語の三言語で表記してある場合が多い。昔から、この手の英訳には文法とか語用の誤りが多く、英語を母国語とする人は、ネタにして、自分のブログに載せてあったりする。もちろん、東南アジアとか台湾あたりの商品にある日本語表記が怪しいのはよく知られた話である。
まあ、通じればよいじゃないかとも言えるが、やはり相手の言語に敬意を表する意味でも、ちゃんとした言葉を使って表記すべきと思う。ここにあげたのは、東京都内の地下鉄の駅のプラットフォームにあったものだが、もうちょっとコンパクトに書けばよいのに、学校の英作文のようで、誤りも散見され、あまり良い出来ではない。ただ、意味は十分わかる。しかし、見逃せない文章がひとつある。それは二段落めの最初の行である。こう書いてある。
In preparation for a fire, the subway station is equipped with an automatic fire alarm system,
an emergency public address system, a smoke control system and a fire extinguishing system.
これは、こう書いたつもりだろう。
「火事に備えて、地下鉄の駅には、自動火災警報装置システム、非常時アナウンスシステム、煙制御装置(?)と消化装置が備え付けてあります」
ただし、in preparation for a fireというイディオムの使い方が間違っており、次のような意味になってしまっている。
「火事の準備のために、地下鉄の駅には、自動火災警報装置システム、非常時アナウンスシステム、煙制御装置(?)と消化装置が備え付けてあります」
つまり、如何にも、「火事を起こすために」、諸々の装置を備え付けてあるかのように受け取られかねない文句になっているのである。こういう場合、in preparation for a fireという文句はいらないと思う。なぜなら、備え付けてある装置を見れば、それがなんのためにあるのかは明らかだからである。日本語の思考が透けて見える英文となっている。私は、外国語を使う以上は、その言語の思考様式を尊重すべきであると考えるのであえて書くのだけど。
ちなみに、「戦争に備えて武器を持つのか」、「戦争を起こすために武器を持つのか」どっちなのだと言われれば、国家というシステムによる武器の保有は、結局後者に収斂せざるを得ないし、歴史を見てもそうだと思う。って、結局締めはそれかよ、みたいな・・・。
そういえば、ビリー・ジョエルの歌に、We Didn’t Start the Fireという歌があったな・・・
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