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★『まあるい空(5)』
ドクターは、おそるおそる鐘のあるベル・ラウンジをのぞいた。十分大人だけれど、さすがに
3階の、しかも尖塔の屋根を歩くのは恐怖だった。しかし、見守ってきたRyoのことを考えると、
無視はできなかった。
両手と背中に汗があふれ、べっとりとシャツにへばりつく。下を見るとからだがバランスを失うようで
めまいがした。自分の予想が正しければ、Ryoはベル・ラウンジの狭い空間で、安らいでいるはずだ。
いた! Ryoが、たまごの中のヒナのように、足をかかえるようにまあるくなって、そこにいた。
その表情は安らかで、少しほほえんでいるように眠っていた。
「お〜い! 生きてるか〜。迎えにきたぞ〜」
明るく呼びかけながら、ドクターはこの後、屋根の上に腰をおろし、彼と色々話したいと思っていた。
「屋根の上のヴァイオリン弾き」のー場面のように。
しかし、そんな安易な想像はすぐに消し飛んだ。ドクターのいきなりの呼びかけに驚いたRyoは、
反射的にベル・ラウンジの狭い空間からサルのように飛び出した。
あとのことを何も考えてなかったのだろう。屋根の上でバランスを崩したRyoは、上体をぐらっと
揺らせ、3階の建物の、その屋根の上から、まっさかさまに固い地面に落ちていった。
グチャッ! という音を聞いたような気がした。一部始終をうかがっていたシスターたちは、
思わず十字を切った。
ロザリオを握り締め、何度も何度も繰り返す。ドクターは急いで窓のある方へ向かった。
しかし、気ばかり焦って、尖塔を降りるのは容易なことではなかった。
Ryoのことが気になるが、なかなか降りられない。下を見ると、連絡があったのだろう、女性の看護士が
駆けつけていた。
「バイタルチェックを急ぐんだ!」
それだけ叫んでドクターは、ツタを握って下に滑り降りた。小さくやわらかいはずのツタの葉が、
鋭い切り口をもったプラスチックのように感じられた。心配した通り、手のひらにいく筋もの出血が
あった。
★「どうだった? 意識はあるのかっ!」
やっと地面に下り立って、手のひらの傷に舌打ちしながらたずねた先に、腰を抜かし、ぶるぶる
震えながらRyoを指差す看護士の姿があった。
「何をしている! それでもプロかっ!」
叫んで看護士を立ち上がらせたドクターは、陰になって見えていなかったRyoを見た。
「なんだ? どういうこと、だ?」
Ryoは、そこに立っていた! 3階の、その上の屋根から落ちたのに、頭と手のひらから少し血を
流しているだけ! 信じられない!
「し、死んでいると思ったら、いきなり立ち上がって‥・私を見て、わ、笑ったんです。血をなめながら!」
確かにRyoは笑っていた。動物がよくするように、手の血をなめながら。その顔は‥・ドクターが
看てきたRyoではなかった。
では、なんなのか! Ryoの中の、違う誰か‥・。この心の病に特有の、その人物が
避けられない危機にひんしたとき、現れる「守護人格」・‥。それではないのか!
(なぜ軽症なんだ? もう、彼の中で、人格変動が起こっているというのか!)
論文では読んだこともある「人格変異」の現場に自分がいるなんて‥・。
ドクターは、まったく未知のものに遭遇した恐ろしさに、思わず身震いをした。
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