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★ いつものように、Ryoはまた目を覚ました。そっとドアに耳を当てて、まわりの音を聞いてみる。
テレビの音も、こどもたちの騒ぐ声も聞こえない。みんなは眠ったようだ。納戸の小さなドアを
背中で押してみる。
夜中に抜け出さないように、廊下から押し付けられているライティングデスクが、
少し動く。
ドアのすき間から野球のバットを差し出して、テコの原理を応用して、ぐ〜っとドアを
大きく広げた。40cmくらいの空間が出来れば、2歳のRyoなら簡単に抜け出せるのだ。
静かに歩いて階段まで行く。きしむ音を立てないように、一段下りて、そこに座り、誰も
起きてこないとわかってから、次に下りる。そしてまた1段、時間をかけてキッチンまで
行く予定だ。
のどが渇いている。おなかもすいていた。
(でも、ボクは悪い子だから、シリアルを5枚しかもらえなくてもしかたがないんだ)と、
Ryoは 思う。
昨日の夜は、みんなが食事をしている間、テーブルのそばに立たされていたが、つい
おなかがなったので、お兄ちゃんのこぼしたお肉を パッとつかんで パクッと食べた。
でもママが見ていて、顔を叩かれた。
その後、首をしめられて、思わず咳き込んで、お肉を吐き出してしまったのだった。
階段を下りながら、ママが針金をぐるぐる巻いていなければいいのに・・・と思う。前は、
こっそり下りてきて、冷凍庫の氷を食べたから、開けられないように針金が巻かれていた。
でも、毎日巻いて、朝にそれをほどくのは大変なので、ドアの前にライテングデスクを押し付ける
ことにしたのだった。
キッチンをのぞいてみる。窓から月の光が差し込んで、ほんのりと明るい。冷蔵庫には
針金はなかった。でも、中はカラだった。ふしぎなくらいからっぽで、氷さえなかった。
Ryoは 丸いイスを押して、シンクまで移動させた。なぜか、割れた皿がいくつか
ちらばってあったが、Ryoはその理由を考えなかった。
廊下にもちぎれたおもちゃや書類が散乱していたのだけれど、それはどうでも良かった。
おなかがすいて、のどが渇いて、舌がしたあごに張り付いて動かない感じだった。
イスの上に立ち上がり、蛇口に手を伸ばす。みんながここをどうにかしていたのを思い出す。
きっと水が出るはず、と思う。左右に何回かまわしているうちに水が出た。蛇口を押さえたまま
出てきた水に口をつける。シンクにぶつかる水音をママに聞かれたら、また叩かれる、また
つねられる・・・と思う。
イスがガタンとゆれて、思わず手に力が入った。蛇口が大きく開かれ、いきなり大量の水が
勢い良くほとばしり、シンクでうなった。
(ママがくる! また叩かれる! 針を刺される!)
Ryoは なんとかして水をとめようとしたが、とめ方を知らなかった。シンクではねた水が
シャツに飛び、たちまちしずくがしたたり落ちる。水はますますシンクでうなり、
いっそう水音が 激しくキッチンにこだました。
(怒られる! 叩かれる!)・・・
Ryoは ぬれたシャツが気になり、あわててイスを下りた。
少し離れた壁に背中をつけ、怒られ叩かれる怖さを思って少しふるえた。横目で見た庭に、
いつもとめてある黄色いビートルがなかった。シャツからはまだ水がしたたり、シンクでは
まだ爆音がしていた。
勝手口のドアを開け、シャツを風に当てる。すそをぎゅっと握ると、水が流れ落ちた。
見上げた月が、みるみる黒雲に覆われていく。Ryoには その雲が、空から自分に伸びてくる
悪魔の触手のように思えて目を閉じた。
ママが起きてくるのも怖かったが、不気味な黒雲も怖かった。それで、ドアを細くあけ、
風を少しだけキッチンに入れた。下を見ていれば怖くない。
(黒い雲はボクを食べたりしない)
そう思いながら、いつしかRyoは意識を失っていった。
Ryo…もうすぐ3歳。まだ 捨てられたことを知らない
エーゲ海ブルーの目をした男の子だった。
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