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・ ★ 時間をかけて階段を下りたRyoは、ドンドンと大きな音で下りてきたケラーを、 目を見開いて見上げていた。そして、さきほどの「腕」のとき同様、寄ってきて
ごついブーツをさわってきた。
かがみこみ、こぶしでコンコンとノックしている。その音が楽しかったのか、 Ryoは何度かそれを繰り返していた。
(そんなことぐらい、いくらでもしてあげるのに…これがわが子なら!) ケラーは目の前の小さな子が、たまらなく不憫(ふびん)に思えた。 廊下の真ん中を歩いていたRyoが、キッチンのところで、そこを避けるように 遠回りをし、急に反対側の壁にからだをつけてうずくまった。
呼吸が荒い。泣きじゃくるように顔を上下し、そのうち呼吸がおかしくなった。 息を吸うだけで、吐くことができなくなったようだ。落ち着かせるために後ろから 両腕をまわし、輪を作ってから下腹をグッと強くしめた。
呼吸の荒さはそれでおさまったが、キッチンを見ないようにしてRyoは 逃げていく。ケラーの頭の中で、シンクをうならせて蛇口からほとばしる、
水の光景が浮かんだ。
Ryoのくちびるが乾いて血がにじんでいたのは、食べ物はもちろん、
水さえまともに与えられなかったせいだろう。
自分の手やからだを動かすことを禁じられ、蛇口を触ることさえとめられて いたとしたなら、閉められずに 朝までそのままになっていたのも理由がつく。
しかし、男の子だろう。蛇口くらい、自分で開閉できることを、今覚えるんだ!
ケラーはRyoをキッチンに連れて行き、「開けてみろ」と言った。 丸いイスを近づけると、Ryoは簡単に上がった。飲み込みも、身のこなしもいい。
(さすが、男の子!) と 妙な感心の仕方をした。
ケラーも男の子がほしいと思っている。ルイカの次は絶対男の子だと、 自分に言い聞かせていた。
「ボク、知らない」 と Ryoが言う。 「知らないって、じゃあ、どうやって水を飲んでたんだ?」。
Ryoはシンクの横のカーテンを指差した。 開けてみる。
なんてことだ。汚れた洗濯物が、山のように積み上げられている。
その奥の方に、銀色の蛇口が見えた。洗濯物をつかみ、次々と廊下に
放り出す。
下から、モップを洗うシンクが出てきた。ひねってみる。キッチンより 貧弱な蛇口から、普通に水が出た。Ryoがきて、床にそのまま据えられている
シンクのフチに上がり、蛇口をつかんだ。
そのまま口をつけて飲むのか…小さな子が首をかたむけて直接飲むには、 ちょうどいい高さだった。
(それにしても、そこだって、蛇口はひねるだろう)と思い、ケラーは腕を組んで 後ろから見ていた。
そのとき、ケラーはRyoの異常さというのではない、観察眼の鋭さと賢さのような ものを感じた。
Ryoは、水の出てくる口の少し上を、軽く指で、トンと叩いた。それが合図の 衝撃になったのだろう。水が、ちょろちょろと、(ひと口分)流れ出た。
こうして飲んでいたと言うように、Ryoは振り返ってケラーを見上げた。
明るい、いい表情だった。
この子は、こうして誰かが使ったこの蛇口から…水を飲んでいたのか。 それも、おそらくは、家族の目を恐れ、家にひとり残されたとき、
寝静まったと きなど,静かに階段を下りてきたのだ。
ドアの前にライティングデスクを置かれても、砂糖とコースターで移動させ、 気づかれないような、こんな水の出し方を見つけた。冷蔵庫にはカギが
かけられて、この子が開けられないようになっていた。
そんなキッチンで、水を飲む以外、どうやって空腹を満たしていたのか…。 ケラーは切ないものがこみ上げてきて、Ryoを見下ろしていた。
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