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「それから、前田さん。人の命とは、そう簡単に消えるものじゃありませんよ。あなたは如何に死ぬ
かを考えているようですが、そんな単純じゃありません。命を全うするということは、前を見て前へ
前へと進むことです。後ろを振り向く必要なんてありません。後悔したら、そこからまた始めれば
いいのです」
渡辺氏の忠告は、ハッとするほど胸に染み通った。 「どうでしょう。これからは、社会に対して自らの命が持つ役割を探すようにしては・・・・。こんなに 娘さん親子の行く末を配慮する心をお持ちなのですから、その一部を外へ向けることで、きっと新
たな生き甲斐を探し当てるに決まっています。より良い人生を楽しむように、挑戦してみてください」
僅かな付き合いだというのに、客という程度の相手に対し、心理的な弱点まで見透かしている。 「私も定年を迎えた頃には、同様な気持ちになりました。でも、上司から、会社に残って外商の手助 けをして欲しいと言われたときは、まだ自分を必要としてくれる道があったかと、嬉しくなりました。体
力的に衰えていない私への同情だったかも知れませんが、私には天の声に聞こえていました。正直
言って、あの頃に一番悩んでいたのは、これから何をして暮らしていったらいいかでした」
サラリーマンとは、長年にわたって一つの仕事に勤務し、老いを迎えた頃に職を辞せと迫られる職
種である。公務員であろうが、企業人であろうが、その点は変わりない。雇う側は、無事にその日を
迎えたことを、「おめでとう」という祝福の言葉で労をねぎらおうとするが、気力体力がまだ十分に残っ
ていると自覚している本人にとっては、その言葉は、祝福どころか弔辞に聞こえてくるものである。彼
の運が良かったのは、具体的に外商という仕事を指摘された上に、助けて欲しいとへりくだった表現
で誘われたことだろう。渡辺氏の仕事への構えも優れていたのだろうが、素晴らしい上司に恵まれて
いたことも大きい。
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