|
「お父さん、電話よ。美世子さんの伯父さんから・・」 受話器を掴むと、耳に当てる前から声が届いた。 「前田さん、お願いがあって電話させていただきました」 「・・・・」 「飛べないカラスのことですがね。野鳥の会の者たちに、森を案内してやって欲しいのですが、如何 でしょうか」
食事になろうかという夕刻だった。受話器の中に、谷口氏の声に被さって、渡辺氏の言葉が反響 した。
「・・・自らの命が持つ役割を・・・」 それは、谷口氏の声に消されそうになりながらも、精一杯の訴えに聞こえた。 「わかりました。お引き受けいたしましょう」 谷口氏の、立て板に水のような語気に押され、考える間もなく流された返答だった。しかし、これ までの間に知人友人から誘われた時のような、反問はなかった。
「命の進みは登り道下り道だが、前に向かう一本道だけだ」 誰からも聞いた覚えがない言葉が、つぶやきとなった。 悩んでどうする。自分に与えられた境遇なら、素直に受け入れろ。考えてどうする。自然発生的に 生じる現実には、自分に最も相応しい内容が多いものさ。無学のカラスでさえ分かっていることだ。
受話器の奥で、自らの結論を肯定する思いが膨らんでいくのだった。谷口氏の声が消えた。目前 にチョコマカの笑顔がおぼろに浮かんでいた。
「出会いがくれた奇跡かも知れない」 ふっと、そんな思いがした。
「飛べないカラス」全 完
長い間、お読み下さったみなさん、ありがとうございました。
「飛べないカラス」は、第1・2章をもって、完結いたしました。
今後の主人公は?
そんな状況(主人公の活躍場面や意外な一面)がおこりましたら、
改めて、執筆させていただくことにいたします。完読、ありがとうございました!!
|
飛べないカラス 第2章
[ リスト | 詳細 ]
|
「お陰で私は、取りあえずという程度の気持ちで、この仕事に就けました。初めは戸惑いも多かった
のですが、気軽さが手伝ってくれたのか、日を追うごとに順応できました。今では、人って、前向き
な気持ちさえあれば、どんなことにも対応できる力があるのだと確信しています。前田さんと知り合
い、あなたの考えをいろいろ聞いてきましたが、あなたは私以上に、そんな力をお持ちになっておら
れます。どうか、命に終止符を打つ方法ではなく、新たな人生を開拓する方向に目を向けてください。
そして私のような、サラリーマンの枠から出られない人生ではなく、自由で幅の広い楽しい生き方を
見つけてください」
サラリーマンの枠を越えて・・・。銀行からの戻り道、渡辺氏が発した最後の言葉が、耳の奥で、 指揮官の横でたなびく幟旗となった。それには、彼が未だに得られない、望んでいて果たせない
でいるジレンマが染め込まれ、嫌でも眼にとめろとばかりに翻っていた。そして、その満たされない
心理が語彙の圧力となって、飽くなき本能とそれを維持しようとする活力を生み出し、抵抗力のな
い耳管を激しく震わせるのだった。
いつもの渡辺氏なら、相手を諭すような話題や言い回しが中心になる。しかし、今日の彼は、コ ンピューターが故障を起こしたのではないかと思うほど、これまでとは違った。感想で表現すれば、
本音を明かさないのが銀行マンの資格だと言われるが・・と、会話の中でしばしば思いを巡らすほ
どの2時間だったのだ。彼から離れたことで、ホッとした感情を覚えたのも初めてのことである。
|
|
「それから、前田さん。人の命とは、そう簡単に消えるものじゃありませんよ。あなたは如何に死ぬ
かを考えているようですが、そんな単純じゃありません。命を全うするということは、前を見て前へ
前へと進むことです。後ろを振り向く必要なんてありません。後悔したら、そこからまた始めれば
いいのです」
渡辺氏の忠告は、ハッとするほど胸に染み通った。 「どうでしょう。これからは、社会に対して自らの命が持つ役割を探すようにしては・・・・。こんなに 娘さん親子の行く末を配慮する心をお持ちなのですから、その一部を外へ向けることで、きっと新
たな生き甲斐を探し当てるに決まっています。より良い人生を楽しむように、挑戦してみてください」
僅かな付き合いだというのに、客という程度の相手に対し、心理的な弱点まで見透かしている。 「私も定年を迎えた頃には、同様な気持ちになりました。でも、上司から、会社に残って外商の手助 けをして欲しいと言われたときは、まだ自分を必要としてくれる道があったかと、嬉しくなりました。体
力的に衰えていない私への同情だったかも知れませんが、私には天の声に聞こえていました。正直
言って、あの頃に一番悩んでいたのは、これから何をして暮らしていったらいいかでした」
サラリーマンとは、長年にわたって一つの仕事に勤務し、老いを迎えた頃に職を辞せと迫られる職
種である。公務員であろうが、企業人であろうが、その点は変わりない。雇う側は、無事にその日を
迎えたことを、「おめでとう」という祝福の言葉で労をねぎらおうとするが、気力体力がまだ十分に残っ
ていると自覚している本人にとっては、その言葉は、祝福どころか弔辞に聞こえてくるものである。彼
の運が良かったのは、具体的に外商という仕事を指摘された上に、助けて欲しいとへりくだった表現
で誘われたことだろう。渡辺氏の仕事への構えも優れていたのだろうが、素晴らしい上司に恵まれて
いたことも大きい。
|
|
なるほど・・・。自分では、相続税をゼロにすることが工夫だと考えてきたが、渡辺氏は、負担を感
じないほどの少額なら、相続税が付いても良いと言う。程度を考えなさいという訳だ。さすがは銀行
マン。数字に長けている。
「それに、前田さんのお考えは十分に承知しておりますから、こちらに全てを任せていただければ、 大きな声では言えませんが、今後についてもご希望通りに運べます。大船に乗った気持ちでいて
下さい」
1年前を思い出した。彼の進言では、年金以外の現金と債券を、残される二人の分として、徐々 に名義変更しておくということだった。定期的な移行では作為が見え見えになるので、生活色が臭
うように、少額ずつを乱数的な方法で移行してくれるとまで言ってくれた。これまでに二度も経過報
告が届いているので、渡辺氏の確かさは確認できている。その上での助言だ。もう十分だという思
いが、自信となって溢れているように映った。
「それでは、通帳と印鑑を受け取ることにしましょうか」 「そうですね。此処まで来れば、その方が良いでしょう。そして、時々、前田さんの手で、出し入れに 使用して下さい。こちらの方でも、為替の動きという危険要素もありますから、引き続き監視していき
ます。でも、私の退職までは、健康でいて下さいね。そうでないと、不安を取り除いたために気力ま
で失わせてしまったのではと、寝覚めが悪くなってしまいますから・・・。ハハハ」
ーー人として命を全うするとは、今後に間違いなく降り掛かってくる経済不安を、残される者のため に少しでも減らしてやることですよーー
退職金の運用を機会に知り合い、その時点で、こう、忠告されたのが、彼との付き合いの始まりだ った。その渡辺氏の教えは、5年後の今になって振り返っても、間違いなかった。大金を預けてしま
うことに不安そうな表情を見せていた妻も、黄泉の世界で、安堵しながら眺めているに違いない。
「前田さん。念のためですが、この娘さん名義の通帳は、あなたがお亡くなりになったときに、娘さん が必ず見る場所に置いておかなければ意味がありませんよ。病院や役所への手続きに、また葬儀
や諸処の出費に、『先ず現金』ということになりますからね」
「そうですね。これまでは、渡辺さんの氏名と連絡先を書いて手紙にしておきましたが、早速、その ようにします」
|
|
強がってはきたが、年々、我が身の体力が衰えてきていることは、傍目にも明らかなはずだ。そ
の上、同居している娘は出戻りで、これから何が起こるか知れない小学生を抱えている。普段は
親の健康を第一にと心配してくれるが、彼女たちの生活費に、この身の年金が大きな役割を占め
ているのも事実だ。長生きして欲しいという言葉に、娘親子が生きるためには欠かせない収入だ、
という思いも大きいに決まっている。それを考えたら、老いによる消耗など、噯にも出せない。
他国のことは知る由もないが、我が国の年金制度は、配偶者がいない本人が死亡した場合、 実子との同居に年金が果たしている比重がいくら大きかろうと、配慮も見せずに、切り捨て御免
に打ち切られてしまう。
「良い親でいて欲しい」 亡き妻から末期に言い残されているだけに、娘親子の先々を準備せずに、死を迎える訳にはいか ない。それを成し終えてこそが、亡き妻との約束を果たしたことであり、同居してくれた娘の優しさに
報いたことにもなる。
そうなれば、心理的な流れとして、やり残していることはないかが気がかりになってくる。それを果 たすことが亡き妻との約束であり、同居してくれた娘の優しさに応える義務でもあろう。そんな焦りか
ら、1年前の手術の際には、切羽詰まって銀行を訪ね、許される時間内でそれなりの準備をして臨
んだのだった。しかし、生き延びた今、あの時の手続きだけで、残る者たちへの配慮が行き渡ったの
かというと、自信を持って断言できるだけの確信には至っていない。
大した財産がある訳ではないが、それだけに、相続税だけでも少なくなるような工夫をしておいて あげたいのが、親の本音である。だからと言って、重病という診断から外された今、準備を急くと、
新たな問題が派生したときに、苦い目に遭うことも起こり得るだろう。そんな思いが喉元の凝りに
なっていたのに、この1年、銀行を訪ねるまでの腰が上がらなかった。娘の逞しさを思えば愚かな
先走りだと、一笑に付されそうなことかも知れないが、それでも、僅かでも多く楽をさせたいという願
いが募ってしまう。余命の見え始めとは、ついつい必要以上の気配りが浮かんでくるものだ。何とも
切ない日々の繰り返しである。
銀行のドアを跨いで渡辺氏を指名したのは、そんな思いを胸に秘めてだった。 「前田さん。これ以上の心配はいりませんよ。あれから1年。任された分の3分の2は、娘さんとお 孫さんの名義に移行されています。お二人に、通帳と印鑑が渡るように手配しておいていただけれ
ば、必要になったら何時でも出し入れできますよ。これ以上の気配りは、あなたの今後に不便を引
き起こすことも考えられます。まあ、残った分が贈与に指摘されるようなことがあっても、大した数字
じゃありませんから、この程度にしておきましょうよ」
|







