七月のかすみ草

あの日から6年が経ちました。「思い出」と言うにはあまりにも辛く重いものですが、いつまでも胸の中に。。。

母を送る

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カレー好きだった母

 
母はカレーが好きな人でした。
専門店のカレーからレトルトのボンカレーまで、僕が作るカレーも喜んで食べ、
お皿にご飯は盛らなくていいからカレーだけを盛れ、と言うほどでした。
ご飯を食べるとその分、カレーを食べられなくなるのが嫌だったようで、
実際そのカレーだけのお皿をたいらげて、お代わりすることもありました。
 
僕も一時期カレー作りに凝り、タマネギを長時間炒めたり、お肉も長い時間煮込んで柔らかくし、市販のルーを何社か混ぜ合わせて好みの味を探したりもしました。
 
ただ、僕の父はカレーやシチュー、あとカツ丼や親子丼のように、ご飯とおかずが
一皿になっているのが嫌いな人で、
また母との関係が悪化していったこともあり、だんだんとカレーを作る回数は減り、
ここ5〜6年は一度も手間と時間をかけてカレーを作ったことはありませんでした。
 
数日前、たまたま冷蔵庫の奥に、特売品で買ってあったカレーのルーを見つけ、
その賞味期限が間近だったこともあり、数年ぶりに本格的にカレー作りをしてみました。
 
お肉には鶏の手羽元を、切り込みを入れ塩麹に三日くらい漬け込んでおきました。
タマネギはみじん切りにして炒め、それとは別に大き目に切ったタマネギは、
長い時間煮込むと溶けてなくなるので仕上げ間近に入れます。
ジャガイモは以前作っていた頃は全く入れませんでしたが、
母が好きだったこともあり、今回は入れることに。
どうしても一部が溶けて砕けて、ざらっとした食感になるのが苦手なので、
ひとくち大に切ったら、そのひとつひとつをピーラーで面取りしました。
ニンジンも母が好きだったので多めに切りました。
 
一時間くらいタマネギを炒めたらニンニクのスライスと生姜(チューブのしかなかった)と鶏肉とニンジンを一緒に炒め、水と赤ワインも少し、味の素とローリエも入れ
煮込み始めます。
いつもだとキューブのコンソメも入れるのですが、鶏肉を漬け込んだ塩麹の塩分が
あるので今回はやめました。
ジャガイモは10分くらい時間差をつけ、フライパンで炒めてから鍋へ。
更に煮込み、野菜が柔らかくなってきたら、冒頭で大き目に切っておいたタマネギを、鍋の中で浮いてきた油をすくい、その油を使って炒めました。
(そういえばアク取りを一度もしませんでしたが、アクの中には旨味も豊富にあり、
目の敵のように取り過ぎると鍋の旨味も捨ててしまうことになるそうです)

タマネギも鍋に入れ、一煮立ちしたくらいでカレールーを投入します。
今回はスープカレーという(発売当時)新製品だったため、様子を見ながら少しづつ投入。
全部入れても好みのドロドロにはなりませんでしたが、味見をする際の過去の失敗経験から、カレーだけでなく少量のご飯と一緒に食べてみて、
塩麹の影響もあり十分味は濃く、晴れて完成となりました。
 
まだ午前中、朝食前だったのですぐにでも食べたいのをこらえ、味の染みるの待って晩ご飯として食べることに。
ただ、夕方から深夜までいろいろ忙しく、夕飯を食べ始まったのは午前1時過ぎでした。
我ながら上手く出来たと感心しながら、あと一口くらいで食べ終わろうとした頃、
突然家の電話が鳴り響きました。
 
深夜の2時になろうという時間帯の間違い電話に腹を立てながら受話器を取ると、
母の入院先の病院から、母の呼吸が止まりかけているという連絡でした。
姉に連絡をし、身支度をしてから急ぎ病院へ向かいましたが、僕が到着した時には
もう呼吸も心臓も止まっていました。
僕より一足早くついた姉は、母の最後の一呼吸を聞いたそうです。
まだその身体は、暖かなままの母でした。
 
葬儀屋さんに連絡をし母をいったん斎場に引き取ってもらい、
父の時と同じようにまた母を家に迎え入れるための家の大掃除をするので、
式の打ち合わせはまた姉に任せ、僕は家に戻りました。
 
台所の僕の食べたカレーのお皿を見た時、ふと、家族の胃袋はつながっているという話を思い出しました。
カレー好きだった母が僕の胃袋を通じて、久しぶりのカレーをお腹一杯食べ、
満足し、幸せな気持ちまま旅立ったいったのではないか、そう思えてきました。
 
ただの偶然、僕の勝手な思い込みなのかもしれませんが、
お集まりの皆様にもそう思って頂けると、きっと母も喜ぶと思います。
以上長くなりましたが、献杯のご挨拶に代えさせて頂きたく思います。
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母の火葬を待つ間、精進落としの席での僕の挨拶(補完)でした。
お通夜と葬儀での挨拶は、身内だけの家族葬ということもありご住職にお任せし、
献杯の挨拶だけを喪主の僕が務めました。
 
2016年3月10日、午前3時51分が母の死亡時刻となりました。
(実際に息を引き取ったのはこの1時間近く前でしたが…)
死後2週間も経ってからのご報告となってしまい大変申し訳ありませんでした。

葬儀は無事に終わりましたが、直後そのまま彼岸の準備に入ったこともあり、
忙しさが続いたままで、自分の中では母の死が数日前のことのようです。
 
「昨日は晩ご飯にカレーを食べたんだよ」
カレーを作った翌日に母の見舞いに行ったら、母にそう告げるつもりでいたのを、
ふと思い出しました。。。
 
イメージ 1
 
 
カレー好きだった母・終


来週一杯の命?

 
一昨日の夜、母に面会を済ませて来ました。
日中、母に見せるための写真選びをしていると、姉から母が少し持ち直してきている、との連絡が入りました。
ノートPCの画面の写真を見せても理解出来ないであろうことを承知の上で、フォルダー作りを進めましたが結局夕方までかかってしまい、
ジュンの散歩と犬猫たちの夕飯を終えてから、家を出たのは6時過ぎになりました。
 
ノートPCを抱えながら病室へ近づくと、母の「痛い〜」という声が廊下にまで聞こえていました。
酸素は鼻からチューブだけの状態で、両手には、おそらく点滴等を外してしまわないためのグラブをしてありました。
「痛い」と声をあげたり点滴を外すほどの元気があるのは意外でした。
 
僕のことが分かっているのかいないのか、「手(グラブ)を取って!」「イタイ、イタイ」をひたすら繰り返しているので看護士さんを呼ぶと、
痛み止めはもう胸に貼ってあるので、腰に湿布を貼ったり、体の向きを変えたりして少し落ち着いてきました。
 
時折目も開けるので、親父やジュンの写真が映ったPC画面を見せてみましたが、やはり理解は出来ていませんでした。
  
しばらくして眠ったので病室を後にし、看護婦さんに吐血のことについて聞いてみると、カルテ(日誌?)にはその時間だけが書いてあり、一度きりのようでした。
どの程度の量だったのか、どこからの出血だったのかの言及もありませんでした。
つまり大量の吐血でななく、胃か肺のどちらかから滲んだ血液を吐き出した程度のことだったようです。
 
相変わらず危篤に近い状態であることに変りはないので、それが「来週一杯」なのか「再来週一杯」なのか、
とりあえず今日明日(日曜)までの命、ということではないようでした。
 
 
母に見せても徒労に終わるのは承知の上での写真整理でしたが、思い出深いものがいくつも出てきました。。。
 
イメージ 1
二つ目の病院に親父が入院中、姉の車で外出してきた時の写真です。
 
ジュンにとっては数か月ぶりの親父でしたが、ちゃんと分かって、久しぶりの再会を喜び、甘えていました。




イメージ 2三つ目の、最後の病院は犬の見舞いも可能だったので、何度かジュンを連れて行き、親父に車椅子で病院の玄関前に出て来てもらい、ジュンと触れ合いました。
 
でも長い病院暮らしで生活臭が無くなってきたためか、或いは、
人間としての生気が失われてきたためか、徐々にジュンは親父のことを理解できなくなっていきました…。

そのことで却って親父に寂しい思いをさせてしまったと、今では後悔しています…。
 
 
母の病院を後にし、外で夕飯を済ませて家に着いたのは8時過ぎでした。
この時間に家を留守にすることは珍しいのですが、みんな良い子で留守番をしていました。
ふとジュンの寝ている部屋を覗くと、珍しくアトデくんが一緒に寝ていました。
イメージ 3
 
寂しがりやのアトデは、僕の姿が見えないので、僕(人間)の次に体の大きいジュンを頼っていたのかも? 
                                                              アトデ「おかえりニャー♪」  
イメージ 4
 
ジュンにスリスリしたあと、
イメージ 5
 
(僕が帰ってきてるにもかかわらず)またジュンと寝てしまいました(泣)
イメージ 6
 
結局、アトデは僕が寝る時間までジュンのそばを動かなかったので、僕の布団まで拉致してきました!
何故ならアトデは、この約十年間一匹もいなかった、久しぶりの布団の中で一緒に寝てくれるニャンコだからです❤

寂しがりはアトデより僕のほうでした(笑)
 
 
来週一杯の命?・終
 

 
昨日、猫たちの夕ご飯をボイコットしたので、ご飯をあげた後にする予定だった、
買い物の整理と灯油をポリタンクからヒーターのタンクへ入れ替えを。
ようやく片付いてPCの前に座ると、猫たちはまた僕のそばへと集まって来てくれた。
馬鹿でどうしようもない僕のそばへと。。。

「ご飯にするか?」の声に、まるで理解したかのように猫たちは色めき立って、
僕を廊下へいざなう子も。
いつもより2時間近く遅い夕ご飯は、何事も無かったかのようにいつも通りだった。
 
夕べ、猫たちが逃げ出す時に引っ掻かれた傷、
イメージ 1
血はすぐに止まって、
傷テープも貼らずにそのままに。

ちょっとした痕を残しただけで、すぐに治ってしまうでしょう。








僕が猫たちに付けてしまった心の傷も、しばらくすれば消えることでしょう。
ただ、心の傷は小さいものでもなかなか治らない。
一見治ったように見えても、その奥は膿んでしまっていて、時間と共に痛みが増すばかりの時もある。 
 
お袋はそういう他人の心の傷や痛みは、大小関わらず一切考えない人だった。
姉もその類の人間だ。
“ケンカするほど仲が良い”とでも言うように、怒鳴り合い、言い争いした翌日には
ケロっとしている。それも良い経験だ、とでも言うように。

ひどい言葉を言われた痛み、そしてそんな言葉を使ったこちらにも痛みはある。
それらはそうそう消えるものではない。
でもそんな相手の痛みを全く考えることなく、自分は気にしないから相手も気にしてはいない。
それがお袋たちの流儀であり、考え方である。
 
長年結婚生活を送った姉は先月離婚し、別れた旦那の悪口を当然のように吐き出す。
でもケチだとけなす義兄は娘(姪)が春から通うことになる、試験も受けずに金さえ払えば誰でも入れる専門学校の学費も、東京での家賃もちゃんと払っている。
もめることなく離婚に応じたのは、義兄なりの姉への優しさだったのかもしれない。
 
そして姉が家を出たために独りで暮らしてゆくことになった義兄の痛みを慮る様子は、姉からはみじんも感じられない。
 
そう、常に自分は正しくて(法律や倫理上ではなく、「人として当たり前」という基準)
その「当たり前」から逆らったりハミ出したりする人間を攻撃し、卑しめる。
もしそちら側の人間と戦うことになれば、自分は被害者側で一切悪くない。
それがお袋と姉の是々非々。
 
そうはなるまいと思う。
夕べ僕の言葉で傷付けた猫たちの痛み、
年老いた犬のジュンが、体を上手く動かせないことに、つい怒ってしまうこともある。
そんな彼らの傷と痛みを胸に刻むことで、少しづつでも自分が「まとも」な人間になってゆきたいと思う。
それが一部の人間から「まともじゃない」と非難され、蔑まれることになったとしても。
   
 
傷・終
 

今週一杯の命

 
隣町で買い物中、姉から連絡が入り、お袋が(昨晩?今朝?)吐血して
今は酸素マスクをしていると。
主治医から「今週一杯」と聞かされたと。
 
僕は三日ほど見舞いに行っていなかった。
姉に任せっきりで、姉は毎日お袋の許へ通っていた。

ここ数週間、ほとんど食べ物を口にせず点滴だけで生きていた。
覚悟は出来ていたが、思っていたよりも早すぎる終末だった。

お袋に、最後にノートPCで犬猫や親父の写真を見せてやろうと、
その編集をやろうと、
僕の顔を見せに行ってやろうと、

でもお袋を許す気にはなれない自分がいる。
本人は呆けて忘れても、こちらは決して忘れない、許さない。
それでも見舞いに行かなければ、自分に悔いが残る。

そのジレンマからの僕の苛立ちは猫たちも感じるものとなり、
夕飯前でお腹を空かせているのに、
台所でいつもなら各々のお茶碗の前で鳴くか、
僕の膝に乗ってきて催促するのに近寄ってこない。
 
それに更に腹が立って、「なら食うなっ!」と怒号をあげてしまい、
猫たちは一目散に逃げていく。
その時、足の甲に爪で引っかかれた傷が3本出来ていた。
血がにじみ、あふれてきた。
自分の母親以上に、僕は最低な親だ
  
  

 

次の別れ

  
一昨日の夕方、ジュンの散歩中僕の携帯に、お袋が入っているショートステイの施設から連絡が入りました。
お袋は軽度の認知症と、廊下や風呂で転倒して怪我をすることが多くなり、
昨年の2月頃から隣町のショートステイに、週の半分くらい預かってもらっています。

その施設から、お袋が発熱しているので迎えに来て、病院を受診させてくれ、と。
夕方の4時を回っていたので、診てもらえるのは隣町の病院だけでした。
散歩から戻ると急ぎ車で施設に向かい、普段と変わりない様子のお袋を引き取り、
自分の町を素通りして隣町へ向かいました。
うちの小さな家族たちの晩ご飯はいつも夕方の5時前後、
少し遅れるけど勘弁してくれ、と心の中でつぶやきながら車を走らせました。
 
施設では38度を超えていた体温は37度台に、インフルエンザのチェックは大丈夫でしたが、発熱の原因を調べるためにCTを撮ることに。
それを見ての医師からの説明は

「もう手の施しようがない」

と。
体中の臓器に広がっている腫瘍は、ほぼ間違いなく「がん」と思われ、、
「一年は無理だろう」とも。
 
病院で診てもらうと余計な病気まで見つけられてしまうから行かない、が口癖で
数十年間近所の町医者だけを頼ってきました。
軽度の認知症とはいえ食欲もあって口も達者、トイレも自分で行けて、このまま世界最高齢も狙えるんじゃないかと思っていただけに、まさに青天の霹靂でした。
 
親父よりも年上の86歳で、むしろこれまで病気らしい病気をしたことが無かったほうが奇跡と言えるし、十分な大往生と言えるでしょう。
ただ、お袋とは長年の確執があったので正直それ以上の感慨はありませんでした。
今回はすぐにこのことを姉に連絡し、そして当然のごとく泣きじゃくっていました。
 
本人への告知は、翌日には本人が忘れてしまうかもしれないので却下として、
これからいろいろと痛みや不自由になってくる身体で、どこで生活をしたいかの希望は聞き遂げてあげるつもりです。
親父に叶えてあげられなかった、せめてもの償いで・・・。
 
大まかな診断が覆ることはないとしても、更に詳しい診断のため、親父も世話になっていた大病院への紹介状を書いてもらい(CTのデータを焼いたCDも同封)、翌日受診することに。
 
ようやく一息ついてふと時計を見ると、すでに6時を回っていて、病院へ来る前に家に立ち寄って、犬猫たちにご飯あげてこなかったことが悔やまれました。
お腹を空かしながら、ひたすら我慢して待っている子たちを思うといたたまれず、 
会計の待ち時間も恨めしかったです。
ようやく家に到着すると真っ暗な玄関で、みんな勢ぞろいして待っていました。。。  
  
新書庫『母を送る』を立ち上げることにしました。  
 
次の別れ・終
 

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