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「おはようございます。姫君には御仕度は整われましたか?」
侍従長が恭しく礼を取った。
「お役目御苦労様でございます」
ジュエルは丁寧に礼を返した。黒髪は後ろで一つにまとめ、男装をしている。黒い瞳は慎み深く伏せられたままだ。
この瞳が伝説の通りに黄昏の空の色、紫に輝いたのを、侍従長は王の謁見室で目のあたりにしたのだった。そして、彼女の不思議な《力》も。
「それでは御案内致します」
賓客扱いに整えられた寝間を出る。夜が明けたばかりで静まり返っている王宮の廊下を、案内されるままにジュエルは付き従った。
王の信任篤い侍従長が仰々しく護衛や小姓を引き連れて現れても、彼女にはもはや驚きはない。一昨日以来、驚きの種は尽きてしまった。
「おまえを信じているよ」
共に王都を訪ねた両親は、そう言ってジュエルを抱擁し、名残惜しげに所領へと戻って行った。両親を見送ってジュエルは心もとなさを覚えたが、自らを叱咤したのだった。今からは自分の責任で判断し、決定して行かねば。誰かに頼るのはもうおしまい。
謁見室の前室に入り、ジュエルは王弟殿下のお越しを待った。国王陛下への出立のご挨拶は殿下のお役目。彼女は控えているだけで良いと申し渡されている。
ジュエルは王弟殿下とは旧知の仲、幼馴染みである。畏れ多くも殿下を「幼馴染み」とお呼びして良いものかどうか、ほんとうのところジュエルにはよく分からないが。
王弟殿下は、ほんの数刻ばかりの逢瀬のために王都から馬を飛ばしてお通い下さる。子供の頃の気安さのまま振舞われる殿下に、ジュエルの両親も、領民も、そしてジュエル自身も戸惑いを隠せない。
だが、浅黒く日焼けした肌に真っ白な歯を見せて屈託なくお笑いになるその笑顔、輝く緑の瞳、爽やかな口説、偉ぶるところのない自然な態度を前にすると、誰もが無条件に殿下のなさることをただ受け入れてしまうのだった。
ひと月前、ジュエルは何度目かの殿下からの求婚をお断り申し上げた。
ことは単純ではない。王弟殿下との結婚を望むは次の王妃となるを望むということ。普通に考えてまず到底お受け出来かねるお話である。
そのはずだった。国王陛下より『光の予見』を頂くまでは………。
「王弟殿下がおいでになられました」
先触れの小姓の声に被さってドアの開く音がして、ジュエルの物思いは中断された。
「このたびはわたくしの我儘をお聞き入れ下さり、旅のお許しをいただけましたことを深く感謝致します。陛下の御信頼には必ずやおこたえする所存でございます。」
王弟殿下が出立の挨拶を述べられるのを、ジュエルは深くこうべを垂れた姿勢で聞き入った。
(それでは、殿下が国王陛下に願い出られて?)
初耳だった。民を悩ます怪異を調べに赴かれるという趣旨、自分はその力を用いて殿下をお護りするに相応しいと神殿より推挙されたのだということ、ジュエルが知っているのはそれだけだった。
「出立にあたり、王族として自らの責任を果たし、この身、この魂、この真心をもって、王国の平和を守る為に最善を尽くすことをここにお誓い申し上げます。また、わたくしの留守中も国王陛下にはご健勝であられますようにお祈り申し上げます」
「私も旅の無事を祈ろう。ガゼル・カデシュ、愛する弟よ。心して職務を果たし、ジュエル姫とともに無事の帰還を。
そして……ジュエル姫」
王に名を呼ばれて、ジュエルはハッと身を固くした。
「図らずも、そなたの決断を待つに程よい成り行きとなった。王都を離れて旅の空の下、一日に一度は我が予見に思いを致せ。ジュエル姫、運命を枉げることは誰にも出来ぬぞ」
「国王陛下」
ジュエルは思わず頭を上げた。蜂蜜色をした陛下の目とまともに目と目が合って慌てた。
「狼狽えずとも良い、尊い姫。私が伝説の『光の王』であれば、そなたは『その助け手の影』だ」
王は太陽の光のようにまばゆい金の髪をなびかせ、闇の色の髪をした少女のもとへと歩む。そして彼女の手を取って立ち上がらせた。
二人の姿は、その場にいる誰の目にも明らかに『光の王と、その助け手の影』と映った。まるで伝説を織り出したタペストリそのままに。
「ジュエル姫、そなたは『黄昏の星』、『やがては国の母ともなる娘』、くれぐれも御身大切に。
ガゼル、我が弟よ。よく姫をお護りしてお仕え申せ。よいな?」
お護りする立場が、それでは主従さかさまである。王家の未来に関わる重大な予見を、御自ら冗談口に紛らすことでジュエルの身の上をさりげなく気遣っておられるのか、王の口調は楽しげで明るかった。
門の外に用意された馬車を見てジュエルは顔を顰めた。騎馬の旅と心得ての男装である。それがどうしてこういうことになるのか。
勿論答えは一つだ。『光の予見』は周囲の彼女に対する扱いをちぐはぐなものにしようとしている。一つを受け入れればあとは済し崩しに受け入れざるを得ないだろう。このお心遣いは御遠慮せねば。
ジュエルは断固とした態度でひとしきり係の者とやり合って、なんとか納得させることに成功した。お手間を取らせたことを殿下にお詫びして、ようやくの出立である。先が思いやられた。
目的の村までは馬で三日という距離であった。
供回りの人数は殿下の御身分を考えれば思いのほか少ない。お身の周りの世話をする従者が一名に護衛が三名。それきりである。ジュエルも荷運びのために供の者を連れていたので、一行は総勢七名である。
ジュエル一人が女人であったが、彼女が馬の扱いには長けていることをよく知っている王弟の組んだ旅程は、身も蓋も無いほど女人連れらしからぬ強行軍であった。
初日でだいぶん距離を稼いだ翌二日目、しかしジュエルの異変に最初に気付いたのも王弟であった。
一行から次第に遅れ遅れになるジュエルは、見れば額にびっしりと脂汗を浮かべ、顔色も悪い。さっきまでは青白かったのが今は赤らんで、明らかに発熱している様子である。
「ジュエル。馬を下りて休んだほうがいい」
声を掛けると、もはや意地を張る気力もないのかジュエルは大人しく頷いたので、これは重症だと王弟は判断した。
涼しい木陰を見付けて一行は馬を繋いだ。
さっそくジュエルを横にさせる。荷物を程好い高さに丸めて頭にあてがい、少し迷ったが襟元を緩めてやった。されるがままになっているのがどうにも不安だ。
お転婆ジュエル。初対面で私を池に突き落とした。誰からも乱暴な扱いを受けたことのない私は、呆然として水の中に尻餅をついたままだった。あれから十年。何度求婚して何度断られたか忘れてしまった。いつかは受けて貰えると信じていたけれど………。
「ジュエル、水を飲んで」
上体を抱え起こし、水筒を口許に差し付けると素直に飲んだ。痛々しさに王弟の胸は痛んだ。再び寝かせてやって、濡らした手布で額の汗を拭い、別の手布を絞って額から目の周りまでを覆うようにして冷やしてやる。
王都へ返すことは簡単だったが、そうしたくはなかった。一旦返してしまえば彼女自身の決断を待つまでもなく宮殿の奥へ迎えられ、そのまま兄王の庇護の下に入ってしまうのが容易に想像できた。
片道三日、たった六日間の猶予ではあったが轡を並べてこんなにも近しく旅して過ごす、王弟にとっては貴重な時間だった。
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