サントリー天然水工場(白州)との井戸水問題・他:白州の森

白州の森が綴る、「サントリー白州工場との井戸水問題」等の「森からの便り」

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2014年07月

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アンデスの空に、コンドルが舞っていた

 
アンデスの鳥と言えば、コンドル。
 
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高く舞っていて、なかなか下降はしてこないなぁ〜・・・。
 
 
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雪山が画面に入るくらいに、降りてこないかなぁ〜・・・。
 
 
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やっと低いところを舞っていたが、方向が違うよ・・・、雪の山を背景にしたいんだよ・・・。
 
 
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こんなのを背景に舞ってくれれば、最高なんだけど・・・。
 
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おぉ、神よ!と念じたが、効目はなかった・・・
 
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お前も喉が渇いただろ、ビール、半分あげるからさぁ〜・・・。
 
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アンデスの旅<完>
 
 
ご要望に応え、追加、おまけの画像です。コンドルとは直接関係ございません。
 
アンデス、ワイワッシュ山群の最奥、ラグナ・ヴィコンガ湖畔の温泉プールにて、筆者とガイドのギヨさん。
 
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日本に帰れない:最後の最後、この旅の落とし穴? 米国の再入国審査でーその2

 
係官が再度私の名を呼んだ。
 
私は、彼にこう話そうと考えて、席を立った。
ESTA登録時、その様な操作をしたとは思えはない。その項目が「Yes」となっているのなら、その項目の回答欄をDeletして欲しい。それを、英語で喋る単語を一生懸命考えながら、そして例のハード・コピーをまさぐりながら窓口に向かって、正しく承認を得た証明となる入力画面のハード・コピーを彼らに示そうと窓口に立った。
 
窓口では、同僚の審査官の立ち合いのもとに、彼はこう言う主旨のことを私に伝えた。
あなたは、二度とESTA手続きで米国に入国することはできない。将来、米国に来る時は、必ず前もってアメリカ大使館に出向いてビザを取得してからにすること。それに同意できるか?
 
私は、懸命になって、サイドバックの中をまさぐり続けた。
彼は、何を探してるんだ、と私の動作をみて。
私の言っていることを聞いているのか、
言っていることの意味が判っているのか?、と。
私の話した内容を理解しているのか?
私の言ったことを復唱してみなさい、と。
私は、探すのを諦め、
「I understand what you said」、「But、・・・」
さっきまでこう伝えようと考えていたことが英語で出てこない、deleteの単語が出てこない!
彼は、更に畳み込むかのように繰り返す
「Do you understand what I said.」
「Please repeat what I said.」
私は、不承不承ゆっくり切り出した
「When I want to come America again in future、I have to go the American Enbassy and have to obtain the visa before the departure.」
と、つっかえつっかえ伝えた。
彼は、Right.
That is all、と同僚と顔を見合わせて、次のようなことを付け足した;
記録を見ると、貴男は過去にも何回も米国に入出国したようだけど、ESTAデータ・ベースの記録を抹消する以外に、今回貴男を米国に入国させる手立てがない。だから、次回の渡米に際しては、事前に大使館に出向いて米国のビザ申請をしなければならない。そのことを理解してくれればいい、と。そのような主旨のことを伝えたと、私は理解した。
 
そして、その処置をするからしばらく待て、と。

かれは、コンピューターに向かって操作をしていた。
 
私は、真っ白になった頭の中を整理して、想像していた。
私の今のESTAデータ(ビザ記録)は、抹消されて、再度ビザ申請すると、新たな
ESTA申請が可能になるのかな。
しかし、何とも腑に落ちない、百歩譲って、私の誤操作でそうなったとしても、2年間有効をうたっているESTA承認なのに、「1回だけの利用でいい」と言う設問が有ったと言うこと自体が、しかも14ドルを払わせておいて。私には到底理解できないし、データ・ベースの中身を調べるのに、何であのように時間がかかったのか・・・、全くの想定外のレアー・ケースだったのか・・・。
 
それから30分後、ドアが開いて名前を呼ばれて、パスポートを返されたとき、探し当てて、手に持ったESTA承認番号を記したハードコピを彼に差しだした。
彼は、無表情に、意味がない、と。次回入国の前にはアメリカ大使館でビザを取れ、と繰り返し、ドアを閉めた。
 
この部屋に入れられてから、二時間半、私はパスポートを手に、やっと、この部屋を出ることができたのだった。
 
入国審査区画の出口で、待ちくたびれた様子のこの旅の相方、Kさんの顔を見た時には、本当にほっとした。
 
(完)

日本に帰れない:最後の最後、この旅の落とし穴? 米国の再入国審査で


何と何と、こともあろうに、入国審査で引っ掛かって、別室に閉じ込められ、拳銃を下げた厳つい入国審査官が繰り出す難しい(?)質問に答えるはめに!
 
映画や、ニュースでたまに見かける、偽造パスポートや、期限切れパスポートで引っ掛かり、別室に連れ込まれ、怒鳴りあったり、泣き叫んだり、掴みあったりするシーン。
そこまでは、行かないが、別室に連れ込まれ、取り調べに近い形の(本人にはそう感じられた)各種の質問を、当然のことながら英語で受ける。
その不安が二時間半に及んだ。
 
 
ことの顛末は、こうである;
 
リマ発ダラスフォートワース行のアメリカン航空AA−988便は、ほぼ定刻の9:20分にダラス空港に着いた。
この空港で、アメリカン航空13:20発成田行に乗り換える、約4時間後である。
アメリカの沢山ある空港の中でも最大級の広さを持つこの空港であるが、そのトランジットには4時間は十分過ぎる位の時間。
買い物や、バーボン or ワインと軽食を楽しむ時間は、十分ある。
それにしても順調だったな。往路から、リマ経由ワラスまで、そして20日間近くのトレッキング、ディアブロ・ムド登頂、そして最後のリマ市内観光、全てが順調に行って、トラブルらしいトラブルは、リマ市内のタクシーで起きたタクシー運転手との英会話で起きたちょっとした行き違い程度で、そんなのはトラブルの内には入らんよな、なんて軽口が出るほど、本当に健康面での順調さも加えて、相方Kさんが前に経験したトランジットでの手荷物の誤配送のような深刻な問題も無くて、最高の旅だったねと、話し合っていたほどであった。
この空港で、手荷物はそのまま成田まで送られるから、先ず入国審査手続きをと、外国人の列に並ぶと、係官が「ESTA!」、「ESTA!」と大声を張り上げ、何やらコンピュター・マシンが並んだ列へ誘導する。ESTAって、米国ビザ取得免除のために出来た手続きで、米国に観光目的等で入国するビザを、事前にネット・オンラインで取得する手続きで、東京を出発する前に承認取得してあった。
だらか、往路、成田からダラスフォートワースに着いて、ペルーのリマ空港に向かう時もすんなり入国でき、トランジットでリマに向かうことができた。
だが、今回、復路、同じ空港で、コンピューター・マシンのESTA画面に向かって航空機内で配られて必要事項に記入の終わった入国カードの内容を、再度そのESTA画面に向かって入力せよ、とのことであった。
何台かあるマシンの列に並んで、係官のサポートで何とか、必要事項、例の生ものは持ってないか、風邪などは引いてないか、1万ドル以上の金は所持してないか、野生動物や家畜と触れ合ってはいないか、等の質問にチェックする、例の質問を
コンピューター画面から入力するのである。
最初は、さすがアメリカ、入国審査を電子機器の画面からの入力で済ませるのか。
と思いきや、それは我々の早合点、やはり審査官の待つブースに進んで、従来経験していたような審査を受けるのである。
ブースは幾つかあり、相方のKさんが先に入り、審査官とにこやかに何やら会話している。
私は、隣のブースに進めと指示され、小柄な中年女性審査官のいるブースに入り、航空券と入国カードを挟んだパスポートをにこやかに差し出した。
女性審査官は、パスポートを見ながら名前、パスポート番号(たぶんそうだと思う)をコンピュータのキーを叩いてキー・インし、リターンキーを押していた。押した後のレスポンスが悪いらしく、首をふったりして、しばらく応答を待ってる素振り。
私は、「応答がないのかい?」と聞いてみた。
彼女は、応答が遅くて、やんなっちゃうのよ、なんて感じの素振り。
やがて、右手の4本の指を指紋採取窓の上に置いて、指紋画像を撮るから、と。次に右手の親指1本を置いて。次は左手の指4本、次に左手の親指1本。
それが済むと、左上のカメラに顔を向けて、帽子は取って下さい、画面の中央に顔が入るように、しばらくじっとして、はいOKよ、なんて。
彼女は、なにやら頭から、また入力をやり直している素振り。
ちょっと、待っててね、まったく遅いんだから、とか何とか喋くっている。
隣のブースでもKさんは手間取っている感じである。
 
ブースに入る列に並んでいる間、我々はこんな会話をしていた。
まったく、いくらテロ対策だから何だか知らないが、トランジットで外部と遮断された空港内通路を歩いて乗り換えに行くだけなんだから、わざわざこんな審査何故しなきゃなんないんだよ、全く!
しかも、事前に14ドルの手数料までふんだくってさ、旅行者総数を考えれば莫大な金額になってるのに、これじゃビザ免除の意味がないじゃないか・・・、なんてぶーたれていた。
 
審査官の彼女、なかなかレスポンスがないもんだらか、手持ち無沙汰。
私は、彼女に、私のデータが出てこないの?と聞いた。さらに、あっちの機械で、さっきも入力したよね、って、笑いながら付け加えた。
隣のブースでは審査を終わってKさんの次の人が入って行った。
ちょっと待っててね、って、彼女は傍らの電話機を取って、何かを尋ねて、その指示で、またキー操作を繰り返している。
 
私は、想像していた、このESTAシステムのデータ・ベースは膨大な量のデータベースであろう。そのデータベースへのアクセスのシステム上の問題か、プログラムに、バグでもあるんじゃないかな・・・?
皆、10分前ほどに、横のマシンで質問項目に答えを入力して、その際のキーはパスポート番号と名前なのだろうから、もしデータベースの中に私のレコードがないのなら、横の機械で操作していた時に、何にか問題が発生しただろうし、行きの(往路)の審査では、問題がなかったのだから、東京でオンラインで行ったESTA手続きそのものは有効だった筈。だからトランジットでも入国でき、ペルー行の飛行機に乗れたのだから。
さっきの操作では何ら問題なく済んで、このブースに来て、何やら問題がありそうな素振りを審査官がし、何度も入力を繰り返しているのは、異常だな。どこのブースも何故か、時間がかかっていたようだし。
 
女性審査官が電話機を置いて、ブースから出て来て、私の後に付いて来なさい、と私を別室の小部屋に案内した。
そこは、ドアを開けても内部が見えないような構造の、入り口には、銃をガンベルトに差した制服制帽の厳つい(と私には見てとれた)審査官が立つ、長椅子が幾く本か並んだ小部屋で、並んだ椅子の向こうは、ずらりと並んだコンピュータとそのディスプレイを見つめる審査官が、これまたずらりと並び、受話器を耳に当て、何やら会話をしながらキー操作をしてる様子が見て取れた。
小部屋との仕切りは一面総ガラス張りになっていて、数か所、駅の切符売り窓口のような穴の空いた所があった。
入って来た入り口以外、窓も何も無い、ガラスで仕切られた奥の部屋の中で5〜6人の銃を腰に差した審査官がコンピュータ端末を操作するのが見えるだけの小部屋だった。
私を案内した女性の審査官が私のパスポートを渡しながら、男性の審査官に何やら話をして、彼女は部屋から消えた。
 
部屋には、インド系の幼子を含んだ数人家族、中国系、ベトナム系、アフリカ系らしき10人近い人が座っていた。
 
突然ガラス仕切り横のドアが半分開いて、銃を腰に下げた男性審査官がドアを背に、誰かの名前を呼んだ。
長椅子の中からアフリカ系らしき男性がその審査官の前に立ち、何やら話をして、この部屋の隅にある台の方に連れて行かれ、黒いインクのスタンプ台らしきもので指紋の採取をされていた。例の4本、次親指、今度は左の4本、親指、と。
 
その時で、部屋に入って、もう40分くらい経っていただろうか。
随分と待たせるな。
私のパスポートを持った係官は、相変わらず、マウスを操作しながら一心不乱にコンピューター画面に食い入っている、ときたま仲間と会話をしながら。
 
次にインド系家族の高齢のおばさん(車椅子に乗っていた)が呼ばれた。
係官が彼女の傍まで来て、立てるか?歩けるか?と、聞いている。女性はなかなか立ち上がろうとはしない。
係官は、脇のスタンプ台を指さして、再び移動できるか?と聞いていた。
何度かそんなやり取りがあった末、家族に支えられて老女はスタンプ台に向かった。そして、同じように4本、親指、手を変えて、4本、親指と、真っ黒なインクを付けた指先を押されていた。
 
後から入って来た、アジア系の若い男も、同じように指紋の再採取をされて、数分後にパスポートを渡され、部屋から出て行った。
 
もう、1時間半近く経っていたろうか。
私は、彼らと同じように、ブースで採取された指紋が、上手く映らないで、他の、例えば犯罪者の指紋データベースと照合できないので、指紋の再採取をこの部屋でされるのであろうか・・・。
それにしても時間がかかり過ぎる。
 
私のパスポートを託され、長時間コンピュータに向かっていた審査官が、突然振り向き、同僚の審査官に笑いながら話しかけた。同僚も、ディスプレイをのぞき込むようにしながら、笑っているのが、ガラス越しに見えた。
 
椅子から立ち上がった係官は、ドアを半開きにして「Shoji Ogawa?」と呼んで、部屋を見渡した。
私が立ち上がると、先ほどまで彼が座っていた場所の前のガラス窓に来るようにと、手でその仕草をした。
 
私は、出来るだけ冷静にと、自分に言い聞かせてその窓口に向かった。
それから、彼の英語での話が続いた。
所々、聞き取れない所があった。
私は、何度か「Say again, please」、「Speak more slowly」を繰り返した。
どうやら、こんな主旨のことを言っているらしかった。
「お前さんのESTAデータには、このESTAデータは1回しか利用しないと言う項目にYesと入っている。それが理由で、2回目のESTAチェックが受け付けられない状態だ」、続けて「何らかのミステイクでその状態になっている。だから、受け付けられられないのだ」と。
何度か聞き直して、やっと彼の言っている意味がそんな主旨だと判ったが、私の頭の中は真っ白だ。
そんな馬鹿な!
ESTAの有効期間は2年間、そして手続き毎に14ドルを取られる。もし、パスポート番号等、キー・イン事項に誤りがあって、その訂正入力をする時にも14ドル払わねばならない事などは、注意書きを読んで知っていた。
そんなESTA承認を、自分自ら1回こっきりの利用で宜しい等と答える筈がないし、ましてやそんな質問項目があったことすら記憶がない。
ネット上で買い物をしたり、メンバー登録をする込み入った手続きの画面展開で、意味をあまり理解せず、軽い気持ちで、「Yes」ボタンをクリックして、いらぬアプリまで同梱のプログラムをダウンロードするはめになったことは、幾度かあったから、あまり大きな事は言えないが。
でも、ネット上のESTA手続きは、日本のアメリカ大使館のサイトに置かれていて、日本語画面で入力できるようになっていた筈。しかも、承認番号を取得できた画面が表示されて、何かの際の利用にハードコピーを残して置くようにとあって・・・。
 
そんなことが、頭の中を巡っていた。
そうだ、あの承認番号のページのハードコピーを携帯しているはずだ。
係官は、何か喋っているが、私はサイドバッグの中身を引っ掻き回していた、あの書類が有る筈だ、と。
こう言う時に限って、その書類がなかなか見つからない、くっそ!
しかし、係官は、一方的に、しばらく待て、と伝えて、席を立ち、後ろの他の審査官と何やら色々会話している。
 
私は、長椅子に戻り、バックの中の書類類を引っ掻き回す。
トレッキングの日程表や、コースの概略図、追加の料金表を含めた、トレッキングのプライス表、航空券やチケット販売会社の注意書きやら、メモ帳、歯ブラシ、常備薬、財布、小銭入れ、TCやらなんやら、雑多の物が押し込まれていて、肝心なESTA承認番号が記載されたA4サイズ用紙の畳んだ奴が見つからない。
バックの中身をかき回しながらも、私の頭は考えていた、往路は1回目のESTAの照合だった、だからすんなり通過した、復路、今回は、ESTAの利用の2回目だ、それで引っ掛かったのだ、だからブースの女性審査官が何度も私のデータベースにアクセスしてもノー・レスポンスだったのか・・・。
 
一体、どうなる、私は・・・。

(未完:続く)

アンデスの旅ーその3

おぉ、全能の神よ、我が渇きを癒し給えぇ〜!!!

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ロンドイ(5870m)、イリシャンカ(6094m)、イエルパハ(6617m)から落ちる氷河の水が、二段の氷河湖を形成する。上は、ソルテラコーチャ湖と呼ばれ、下はヤワアコーチャ湖と呼ばれていた。
キャンプサイトは、下のヤワアコーチャ湖の流れ出し口の狭まった深い流れの畔の両岸に出来ていた。
 
イメージ 4
 
二つの氷河湖を経て来た流れは、それでも冷たかった。
何時間も袋に入れて棒杭につるされ、流れに浸されていた瓶ビール、「クリスタル」は良く冷えて美味しかった。
キャンプサイトの管理人から分けて貰った瓶ビールだった。
 
(続く)

アンデスの旅ーその2

リマ国立博物館(MUSEO DE LA NACION)にて

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ペルー滞在最後の1日をリマ国立博物館 National Museum (Museo de la Nacion)を是非訪れたいと、事前に予定を組み、幾らかは理解可能な英語で案内の出来る市内観光ガイド氏を依頼してあった。
プレインカ、インカの貴重な遺産・展示物を自分の目で観たかった。
 
プレインカ時代から始まって、インカ時代、スペイン侵攻後の所謂植民地時代、近代・現代へと階を上がって行って観賞した後、一旦ロビーに戻り、次にエレベーターで、着いたのが6階常設展「YUYANAPAQ」であった。
 
 
 
イメージ 2
 
YUYANAPAQ」?
 
展示場の入り口で、入場者名簿に記帳する仕組みになっていた。
「何故、ここだけ記帳?」
YUYANAPAQ」(ユヤナパック)と聞いても、観光について事前に調べてもいない我々に判る筈もなかった。
ケチュア語で「追憶のために」と言う意味だ、とガイド氏から説明されても、ピンと来ていない二人だった。
もちろん、展示内容は全てスペイン語表記だったし、我々に文字の読めよう筈がない。
 
しかし写真画像は、雄弁に語りかけて来た。
最初の画像を観て「がっ、がぁ〜ん!」
ガイド氏の言葉は、私達にも馴染みのある言葉「テロ」、「ペルーのテロの時代だったのです」
ほぉ〜、ペルーにもそんな時代があったのだ。
日本大使館がテロ集団に占拠されて、時の大統領の名「フジモリ」が知れ渡った、その事件のことは記憶にあるが・・・。
そうか、日本だって左翼過激派の赤軍派迦葉山事件や浅間山荘事件があったから。
 
しかし、その年代・時代を聞いて、また「がっ、がぁ〜ん!!」
「えっ、えっ、えぇ〜、そんな最近だったの・・・!!!」
 
陳腐な形容であるが、しばらく開いた口が塞がらなかった。
まさに目から鱗の「がっ、がぁ〜ん!!」なのである。
1970年代から、ことに1980年から1992年までの間の、テロや軍(軍事政権時代も)による暴力の応酬の歴史。
それが、東京で言えば、上野の博物館の中で常設展示されているようなものだ。
 
それって、日本が右肩上がりの経済成長を続けた、バブル経済の時代じゃないか!
1970年って、えぇーと、<解く風呂敷から昭和が出>だから、昭和44年か、45年!
大学を卒業して、親の事業を手伝いながら電気の事を学ぶために夜学に通い、結婚して、長女が誕生、その年だ。
1980年って、昭和55年だから、その時代にペルーでは左翼ゲリラ組織が容赦のない無差別暴力テロを繰り返していたんだって!
 
私たちは、己の無知さを思い知った!
日本のバブル時代じゃないか、朝、ぎゅう詰めの電車に乗り込んで、夜、終電の駅に駆け込む日々の。その地球の裏側のペルーで、こんな惨たらしい日々が続いていたなんて。
 
案内氏は、「我々のテロの時代」を繰り返し使った。
決して「コミュニスト集団が」と、決めつけはしなかった。
 
が、これでもか、と言う位に惨たらしい数多くのモノクロの写真の中に、見慣れたチェ・ゲバラの顔写真が小さめに掲げられていた。二人とも、カストロと袂を分かった医者であったチェ・ゲバラがボリビアで処刑されたことは知っていた。
「我々のテロの時代」の殆どが、毛沢東主義を信奉する極左ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」(ペルーの輝ける道)の惨たらしい無差別暴力テロと軍の応酬、暴力の繰り返しの歴史であった、と後から知った。
「鎌と槌」のお馴染のマルクス・レーニン主義を象徴するマークもあった。
 
そんな時代があった、ついこの間のことを”忘れまい!”。
 
その誓いの「追憶のために」(YUYANAPAQ)、だった、と。
 
最も政治的に脆弱な時代で、付け入る隙を与えた時代であった、と。
その責任は皆にある、それを忘れないために、と。
 
        ☆     ☆     ☆
 
博物館の表に出て、階段を下りながら、二人が交わした会話は;
日本にゃ「三日坊主」って言葉も、「人の噂も75日」って諺があって、忘れっぽくて、しかもずっと長いこと総無責任時代がまかり通っていた、いると進行形?
3.11の後のあの原発の悲劇を、あの安全神話への怒りを忘れ、憲法問題・集団的自衛権、憲法9条の是非、靖国の合祀問題、東京裁判と戦争責任問題、終戦直前の沖縄戦の軍の命令有無の問題、インパール作戦の責任問題、226511や盧溝橋や、ノモンハンの責任所在、等々、皆々、曖昧に・・・。
 
それにしてもプレインカのあの遺産、文化の高さを証明する遺物の素晴らしさ、縄文文化・弥生文化の比じゃないねぇ。
BC何百年のあの時代に、日本でやっていた絞り染の技術と同じような技術を持っていたとは、驚いたね。
日本じゃインカ、インカって、アンデスは全てインカで一括りにしちゃう傾向があるけど、プレインカの方が遥かに長く、その文化度の高さは目を見張るよね。
それにしても、そんな高度の生活文化を備えた文明社会が、その先何百年とそれほど進化せず、スペインのピサロが大航海時代にパナマから攻め込んで来た時、西洋の銃に対抗する武器としてパチンコの親玉のような投石器やこん棒の様な武器しか無かったとはねぇ、びっくりだねぇ。
何で、そんな長い期間、争いの道具としての武器開発が停滞していたのかねぇ?
 
        ☆     ☆     ☆
 
人口数十万のワラスから車で数時間、ガタピシャに揺られながら辿り着くことになるアルパマヨ登山の登山口、カシャパンパの集落に着くまでの道中でも、そしてワイワッシュ山群トレッキングの終着点ポクパからワラスに戻るための数時間、大きめの集落や、町の中で、垣間見たお揃いの制服を着た小学生・中学生の清楚さ、仕草の礼儀正しさ。
都会から遠く離れた山岳地帯、山間部の谷あいに育つ子供達への教育の確かさを感じた。
 
        ☆     ☆     ☆
 
アルパマヨ・アタック・キャンプ(標高約5000m弱)への4泊5日のトレッキングで高度順応を終えた二人は、6月11日からワイワッシュ山群トレッキング+ディアブロ・ムド峰(5350m)登頂を目指す10日間の山旅に出た。
 
ワールドカップ・サッカー・ブラジル大会は、この旅に出てからスタートを切った。
一緒に行っていたケチュアの血を引くような顔だちの馬方(ロバ使い)のアジェも、キッチン方のシリロも、
ブラジルが勝って大喜び。<ネイマールだってよぉ、寿司食いねぇ、酒飲みねぇ、江戸っ子だってねぇ、そうだってねぇ・・・>
メヒコが勝って大喜び。<ドスサントスだってよぉ、寿司食いねぇ、酒飲みねぇ、江戸っ子だってねぇ、そうだってねぇ・・・>
チリが勝って大喜び。<サンチェスだってよぉ、寿司食いねぇ、酒飲みねぇ、江戸っ子だってねぇ、そうだってねぇ・・・>
 
だが、強豪スペインが大差で負けたら、おどけて大喜び。
そうか、ピサロの敵討ちか!
 
(注:<>は、初代・広沢虎造の十八番、森の石松・金毘羅代参・三十石船より)
 
(続く)
 

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