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「わが社が女優として迎えよう、しばらくパリで歌と踊りを勉強させてから来日させたら」と。 すぐにパリにレッスン用のアトリエを借り、イヴォンヌを住まわせたが、イヴォンヌはレッスンに身が入らない。 アトリエはたちまち画家志望の若者や留学生の溜まり場になり、酒を覚えたイヴォンヌの生活は乱れ、荒れた。やがて日本人医学生との恋愛をこじれさせ、手持ちの睡眠薬を飲んで命を絶とうとするが、発見が早く、一命を取り留める。 しかし、3ヵ月後、文子が目を離した隙に、二度目の自殺を図る。 二度目の自殺未遂事件のその前に、南仏に居たイヴォンヌが一人、粗末な身なりでパリに舞い戻ってきて、読売新聞のパリ支局長になっていた松尾邦之助に保護を求めたことがあった。 一ヶ月ほど松尾の家に居た彼女は、やっとアントワープに腰を落ち着けた母の元に向かうも、二ヶ月後また松尾家のベルを鳴らす。 「ふたたびパリの土を踏んだイヴォンヌは、もう、二ヶ月前の初々しい朗らかな処女ではなく、何かに強烈に反逆してる”恐るべき娘”になっていて、時々うつ向いて考え込んだり、急に神経質な発作で泣いていた」と『巴里物語』に書き残こされている。 数日するとやっと口を開いて「母親の行状を鋭く非難」した、という。じきに、文子がパリに借りた例のレッスン用アトリエに引っ越す事になるが、一回目の自殺未遂事件はこの直後であり、二回目の未遂事件の後、イヴォンヌは「ママ公は、お金のある人とだけ次から次へと関係し、あたしのことは第二にしているのよ」と、松尾に吐き捨てた、と。 小樽商科大学で教鞭をとった松尾の実弟・正路が退官後に出版した随筆集『地球の春』(春秋社)に「イヴォンヌ パリの憂鬱」という一章が挟まれていたのである。 東京外国語学校フランス語科を卒業した正路がイヴォンヌを知ったのは、兄を訪ねてパリに居たときだという。二度目の自殺騒動の直後、松尾の事務室によくやって来た「細いからだと半透明の蒼い皮膚」を持つイヴォンヌは、つかみようのない謎めいた娘だった。 晩年の老学者がつむいだこの詩的な文体は、彼女が漂わせるはかなさによく似合っていた。 すっかり長くなってしまった。 最初に目を通した時、『地球の春』「イヴォンヌ パリの憂鬱」の一章を読み終えた時のあの何ともいえない重苦しい異様さ、不思議さ。 それが、解けた。 (蛇足) この「山靴の画文ヤ(辻まこと)」を知る前に読んだ、私にとっての一番新しい辻まこと関係著作は、池内 紀の『見しらぬオトカム・辻まことの肖像』であった。 池内 紀はあとがきでこう書いている、 『副題に「辻まことの肖像」とうたっているが、人間にわたる部分はきわめて少ない。 私自身、他人の私生活にわたることは好まないし、辻まこと自身、もっとも嫌ったところだった。』と書いて、彼自身に語ってもらおうと、まことが書き残した文章を紐解いて書き上げている。 「森からの便り」(21編) :ログハウス建設当時の詳細や井戸水問題・環境・原発問題が掲載されています。「続」(26編)、「新」(25編)とエッセイは続いています。 「山野跋渉」 :私、「白州の森」のアルプス遠征(2008年)や、北鎌、北方稜線、前穂北尾根等の山行記録 「星の小舎便り」 :MWV OB会のページ 「オールドローズ」 :「山ノ神」の趣味、オールド・ローズ、イングリッシュ・ローズ、Xmasローズ等 サントリー天然水白州工場との井戸水問題の経緯その1 :2008/9/5 「内容証明で新井戸掘削に同意を求める書簡が届いた」 その2 :2008/9/7 「同じ内容の同意を求める書簡がまた送られて来た」 その3 :2008/9/15 「1回目のサントリーの説明」 その4 :2008/9/17 「隣接関係者が示した"覚書"案」 その5 :2008/9/22 「隣接関係者が示した"覚書"案に対するサントリー側の覚書対案について」 その6 :2008/9/24 「北杜市地下水採取適正化に関する条例」 その7 :2008/9/26 「"環境保全に貢献した企業の取り組みを紹介し、その成功要因を"のテーマで提出されたレポート例」、皮肉!!! その8 :2008/9/30 「同意が無い間にも試掘は進み、井戸水汲み出しテストが進行」 その9 :2008/10/1 「サントリーの説明に対して、隣接関係者からの質問」 その10:2008/10/7 「隣接関係者の覚書案に対するサントリーの回答・覚書案」 その11:2008/10/15 「素朴な質問:1回目の説明に対して質問を投げかけた」、そのやり取り その12:2008/10/20 「山梨日日新聞が報じた:天然水の新工場、12月に着工、2010年春 完成を目指す」 その13:2008/10/24 「吾が井戸の水質検査結果」 その14:2008/10/28 「2回目のサントリー側の説明」 その15:2008/11/10 「覚書の再々提案はまだ出てこない」と「教育委員会への質問」 その16:2008/11/19 「北杜市・教育委員会からの回答」 その17:2008/11/20 「投げかけた質問の内容」 その18:2008/12/9 「井戸調査は完全に徒労に終わった」 その19:2008/12/11 「何と言う無作法な企業であろう!」 その20:2008/12/16 「濾過器のフィルター膜を分析のために持ち帰った」 その21:2009/3/17 「濾過器のフィルター膜の分析結果」 その22:2010/1/29 「サントリー天然水南アルプス(株)白州工場 4/22に竣工」 その23:2010/7/22 「北杜市の水道料金値上げ問題:その1」 その24:2010/7/22 「北杜市の水道料金値上げ問題:その2」 その25:2010/7/22 「国際青年環境NGO A SEED JAPAN 水プロジェクトの白州の現地調査」 その26:2010/8/10 「サントリー白州 天然水 工場見学と涵養林現場調査の落差」 その27:2010/8/22 『日経新聞「私の履歴書」(広岡達郎-西部へ)を読んで』 |
山の本 読書感想
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ニフティに置いてある私の「森からの便り」ホームページの散文集「続・森からの便り」(その21: 「春に向かって:書評「地球の春」松尾正路著」)の中で書きとめた武林無想庵の娘、イヴォンヌの記事。 (http://homepage3.nifty.com/morikaranotayori/zoku_tayori/frame_z.html) その短大は同じ「武蔵」の名が冠されているように、私が4年間学園生活を送った大学と姉妹校であった。 私が通った大学の倶楽部活動の部長だった故・岡茂男教授は、学内で学部長などもされ、松尾正路氏とも知己があり、この「地球の春」を読まれており、あるコンパの席上か、教授の退官記念の宴席の席上であったか、たまたま隣り合わせた折、会話が山の文学に及んだ時「松尾正路先生の”地球の春”を、機会があったら読んで御覧なさい、いい本ですよ」。 昭和44年に出版されたこの本「地球の春」は、副題が「詩と批評のあいだ」とされ、その内容は、詩人の目を通して北の春を謳う多くの散文詩が中心であったが、その中でただ「イヴォンヌ」の章だけ異色であった。 他界した後出版された他の著作や関連著作、中でも「父親 辻潤」や「夢幻の山旅」 (私のブログ http://blogs.yahoo.co.jp/ogawa819/52067417.html でも触れている) を読んで、この「地球の春」の著者・松尾正路とイヴォンヌの接点が心に引っ掛っていた。 それが駒村吉重著「山靴の画文ヤ(辻まこと)」であった。 辻潤が時々散文を発表していた読売新聞から第1回パリ特派員の打診があったのが、昭和2年の年が明けた頃。 その頃、辻まことは、潤の下を離れ、静岡工業学校に通っていた。 だが、潤のパリ行きを知ると、父親と付かず離れずの距離も捨てて、「何でもいいからパリに連れてってくれ」 と言い張る。 潤も、そして当時潤に替わってまことの相談役になっていた飯森(これまた面白い経歴の人物)は、その 意志の固いことを潤に伝え、潤は2学年まで進んでいたまことの退学の意志を受け入れ、親子でパリに赴くことにして昭和3年(1928)1月下旬、神戸港からパリに向けて立った。 まこと、当時17歳。 40数日の航海でマルセイユ、それから列車でパリに。 その時のパリは、まだ春には早い、冬の様相であった。 一方、武林無想庵は、潤・まことに先立つこと8年前の大正9年(1920)、妻・文子を伴って渡仏。 (注:この8年間のことを書いておかないと、松尾正路の「イヴォンヌ」の章の理解が進まない) 武林無想庵は、高学歴・資産家、そして並外れて博識の人。文学や歴史、思想の話をひとたびはじめれば、 谷崎潤一郎、芥川龍之介、島崎藤村、小山内薫、川田順といった一流の知識人でも太刀打ちできなかった と言う。辻潤だけが無想庵と互角にやりあう事ができたという。 二人がお互いを知ったのは、野枝が大杉のもとに走った大正5年ごろ。馬が合った二人は、すぐに気兼ねなく 行き来する間になり、無想庵が渡仏する直前には、家賃滞納で家を無くした潤が、麹町の無想庵のもとに しばらく居候をしていた事があった。 無想庵は渡仏の直前に駆け込むかのように結婚していた。 その相手、妻となってパリに同道した中平文子である。日本でも、そして渡仏してからも、パリの社交界で 無想庵以上に名が売れたような傑女。 というのも18歳で結婚して裕福な家で三児をもうけながら、一方的に家庭を捨てて、松井須磨子が居た 芸術座で女優を目指すが、一転、中央新聞の門をたたいて婦人記者となる。女性記者が珍しい時代、何の 実績もこれといった学歴もなかったが、女優張りの華があった。体験ルポルタージュ欄に登場するやいなや たちまち人気者になり、それもつかぬま、言い寄られた社長との男女関係が噂になって、 一方的に解雇されるはめに。我慢ならない彼女は、中央公論上に暴露記事を書く。 持ち前の美貌は彼女に好機を与えもしたし、トラブルも呼び込んだ。だが彼女は、その度にスキャンダル を平然と平らげて来た。上昇のためなら、女も道具に出来た、鵠沼に住んでいた人気の女流作家を 頼って当地の宿に入った大正9年(1920)の春、そこにふらりと現れた長身のインテリ、洋行を ひかえた武林無想庵を見たときもそうだ、チャンスの芽をみてとった文子は、人の妻に恋煩いしていた 無想庵に、思い切りよく結婚というエサを投げ出すのだ、但し「洋行に一緒に連れてってくれること」 との条件も付けて。 しかし、降ってわいた結婚話には問題が一つあった。無想庵の洋行の相手は既に決まっていたのだ。 その約束を、この期におよんで反故にしなければならない、「悪いがな・・・」と。 その約束の相手が他ならぬ無二の親友、辻潤だったのだ。 パリは、文子が恋焦がれた地である。 武林夫妻は、パリで一児にめぐまれる。やがてまことの人生と浅からぬ縁を持つその女児は、 イヴォンヌと名付けられる。 優雅な武林一家三人のパリ暮らしは、それなりに文子を満足させた。だが、実家の土地を処分して つくった潤沢な有り金にも自ずと限界があり3年ほどで尽きてしまう。されど、無想庵は 日本の文壇で芽を出す兆しはない。一家は、文子の細腕にぶらさがるよりほかになかった。 女優の真似事をしたり、舞台で日本舞踊を披露したり、はたまた別の日本男性を骨抜きにして 日本料理店の出店を手がけたり、あれやこれやで食い扶持を持って来た。そのたびに親密なる 男たちとの関係は複雑にならざるを得ない。 一方、無想庵といえば・・・、なりふりかまわず、妻を寝取られた男(仏語でコキュ)の悲嘆を 小説にした、大正14年改造に発表された「『コキュ』の嘆き」。文壇の一部からは好意的な 批評もあったが、埋もれた無想庵の地位を土中から引き上げるほどの反響は呼ばなかった。 武林夫妻の名が世界中に広まる大事件がそんな時に起きた。 モナコのモンテカルロに、乾いた銃声が響いたのは渡仏から8年目の冬、大正15年の1月。 現場は、文子が愛人を巻き込んで出店させたダンスホールの通路。ホールの呼び物だった 振袖姿の「マダム・タケバヤシ」が気分を害し、出演を拒み、ヒステリックに騒ぎ出した ことが引き金になった。愛人の放った弾丸は、彼女の左頬を付きぬけ、彼女の奥歯で止まり、 一命を取り留める。東洋男女の血なまぐさい殺傷沙汰はたちまち新聞メディアで報じられ、 日本にも届く。 辻潤とまことが暮らすパリの宿に無想庵が尋ねたのがその後。無想庵の顔には、もう剥落の 色が浮き出していた。俗に言うモンテカルロ事件があってから3年後。文子は、すっかり 元気になっていたが、武林一家はもはや家庭の体をなしていなかった。 潤は時々重い腰を上げてパリの知識人たちに会いに出かけた。ダダイズムの提唱者、フランスの 詩人トリスタン・ツァラをはじめとする知識人。時にはまことも同席した。 あるとき、わざわざ潤に面会を求める在留邦人があらわれた、アンドレ・ジイドら当代一流の 文化人とも対等につきあった滞在7年目の古株で、松尾邦之助といった。東京外語学校で 仏語を学び、逓信省職員を経て、パリ大学高等社会学院を出た松尾は、街に自前の印刷所を 持って、文芸誌の発行を手がけていた。日仏文化連絡協会を運営するほどの顔役であった。 松尾は、気取りのない辻潤に好感を抱き、人を紹介したり、なにくれと親子の世話を焼く ようになった。余談ながら、潤の帰国後に読売新聞の文藝特派員の肩書きを引き継ぐことに なった松尾は、戦後、読売新聞の論説委員、副主筆として活躍。 パリ時代にまことは無想庵の娘・イヴォンヌに度々会っている。潤と無想庵が話しにふける 間のお守り役になったのだろう。 そうして、昭和4年12月、辻親子はシベリアまわりで帰国する。 昭和11年から昭和12年にかけて、日本には軍国主義の音が鳴り響きだす。 しかし、まことは今で言うグラフィック・デザイナーの若い仲間等と金鉱探しに熱を上げて いた。岩を砕くトンカチ、地図をみるコンパスを持って、山から山を巡る。 その時代、ヨーロッパの武林一家はどうなっていたか。 (その2に続く) |
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その後、2010年の5月6日から、中日新聞の夕刊に「わが道」という連載文を約一ヶ月に渡って連載したようだが、その後この文章は纏められて本になったのかどうか、調べたが私には判らなかった。 この三冊の中で、山野井泰史氏自身の手によって書かれた「垂直の記憶」が一番後で読んだ事になるのだが、ドキュメンタリー作家の手になる文章は、やはり本人によって書かれた文章では無いと言う先入観があるため、一歩下がって受け止めるような感じがあるが、本人自身が書いた文章だと、思うだけで、重みが違う、と感じるのは、軽率な判断になるのだろうか。 今更ながら、兎も角、「壮絶!」・「凄い!」・「ここまで一本気になれるのか!」なのだ!!! そう、目の前に展開される広大な風景の一部に、この著者が「攀ってみたい、攀ってやろう」と思った標高差1600mのメラ西ピークに続く西壁がそそり立っていたのだから。 (説明:ヒンクーコーラを辿りながら見上げる、メラピークの西壁、一番左の切れ落ちた壁) 22歳でヨセミテのビッグ・ウオール、アルプスのドリュ西壁を攀ぼり、翌年23歳で北極圏、トール西壁を単独初登攀。24歳の冬、パタゴニアのフィッツロイに単独で挑戦するも失敗、しかし翌年、1990年、25歳でフィッツロイ冬季単独初登。そして、翌年、26歳の著者は、8000mの高度を経験するためにヒマラヤのブロードピークに、従来からの極地法で挑む。 その時、彼の視界の中にはガッシャブルム東壁があった。 この「垂直の記憶」の中で著者が書いている如く、単なるノーマル・ルートからの登頂ではなく、8000mのヒマラヤの壁を無酸素・アルパイン・スタイルの、しかもソロでやりたいと願っていた当時27歳の著者が、次のステップとしたのが、メラ・ピーク西壁の単独登攀。 (説明:もう少し進んだ場所から。一番左のえぐれたような壁がメラの西壁) (説明:更に数時間進んで) (説明:メラの西壁を背景にターナ(4248m)に向かう筆者とヤブさんの後ろ姿) (説明:ターナーの手前、洞窟寺院、ゴンバがあるところで。タルチョがはためく画面上方のピーク下の黒い壁のところで山野井氏は敗退) (説明:カーラBCまで来ると、高度が上がり、西壁は画面右になる) (説明:パノラマ画像の一番右がメラ西壁:クリックで拡大) (説明:一番右が西壁) (説明:メラ氷河の舌端に登りあがると、西壁の中心と同じ高さに。ロープを整理するチリン・ドルジェ) その後の活動は、伴侶・妙子氏と一緒に攀り、テレビで放映されたグリーンランドのオルカ(当時42歳)やキルギスのハンテングリ、チベットのカルジャンなどがあり、2000年には文化科学スポーツ功労賞、2002年には、朝日スポーツ賞・植村直己冒険賞などを受けている。 蛇足になるが、山野井御夫妻が、我々と同じような齢になったとき、どのようにクライミングを楽しまれているか、是非知りたいものだ・・・(いらぬお世話だ、と言われちゃいそうだが)。 |
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スイスという国を理解するには、是非目を通すべきで、良い本だ。 今までスイスの山登りに関する沢山の本を読んできた、でもこれほどスイスという国の成り立ち、風土について触れられた紀行本(?)はなかった。 もちろん山登り、クライミングやトレッキングに興味があって、それらに関係する本ばかりに目を通してきたのだから、当たり前と言えば当たり前なのかも知れないが。 著者は、当時ドイツに住んでいて、黒海地方への旅行で急性アミーバと熱病に冒されたが、そこは無医村、無薬局の地。数日間の後、ウィーンで応急処置をしてもらいドイツに戻って伝染病研究所の厄介になったが、回復は進まず、そこの医師は『高い冷たいところにいらっしゃい。一番の薬です。山の冷たさで菌を眠らせてしまうのです』。ドクターはスイスと名指したが、そのころの著者は『スイスには何の関心も呼び起こさぬよそよそしい土地であった』と。要するに著者は、スイスについて殆ど白紙の状態だったのであった。 さて、どこへ? いい場所が思い当たらない。だが、唐突に、楽しみの読書として嘗て愛した二冊の本を思い出す。一冊はアルプス文学の古典中の古典、ウィンパーの「アルプス登攀記」、そしてそのウィンパーのこの本を訳し、しかもヴェッター・ホルン初登頂の経験を持つ浦松左美太郎の「たった一人の山」。たまたま松方三郎(故人・日本山岳会の元会長。母方の親類)の手紙が数日前に届いていた。今にして思えば何かの縁。そして、スイス・ベルナーオーバーランドへ。1972年9月末。 『私は一介の旅びととして、白紙のままに、ベルナーオーバーランドに向けて出発した。山の装いの手持ちのある筈もなく、山靴もはかず、駅でもらったツーリスト向け「絵地図」だけを後生大事に手に持って、ひたすら鈍痛の元凶である菌に眠ってもらうただその目的のためだけ、出発した。』とプロローグを書き始め、『時はアルプスのもはや晩秋。天気の最も安定する季節。迫り来る雪が感じられた。私はまず、シニゲプラトに向かった。それがどんな所であるかも知らずに。「たった一人の山」が動機になっていたならば、あるいはアイガー東壁完走のそしてそこに今ものこる小屋を寄付した槇さんや、彼と共に縦横に山々をめぐり登った三郎さんを記念するならば、当然、グリンデルワルドをこそまっさきに目指すべきであったのに、シニゲはどうですかと言ってくれたインターラーケンの駅員の言葉にすなおにしたがって、私は、次のヴィルダースヴィルで乗り換え、黄色に赤の線の入る古風な「山の電車」に揺られて行ったのである。』 最後の4、5つのトンネルを抜け、初めて近々に見たベルナー・オーバーランドの名だたる三峰。 『パアっと開けた高貴にも絢なる別天地に入ったとき、私のホビーの世界は、新たな一つを加えることになったのだ。』 『すべての病がそうであるように、拾ったこの重病は、その後の私の生活とリズムを一変させた。山歩きの体力をつくるための規則正しい訓練。疲れ休めの読書はアルプスの地質学から入って、生物・植物の書物、氷河の書物。さまざまの人の書いた山の文学。』 そして10年。ベルナー・オーバーランド・アルプスからペナイン・アルプスへ、エンガディン・アルプスへ。イタリアのドロミテ、オーストリアへ。エンガディンには通算70余日。ヴァレイには130余日。 多くの村落を訪ね歩き、森に渓谷に分け入り、小川を渡り、多くの谷に奥深く入り、多くの峠に立ち、頂に立ち、ヨーロッパのほぼ中央に位置するこの小さな小国スイスの生い立ちを、風土を、雪と氷と岩にふさがれた地方が、「中立」、「スイスの平和」、「自由」そして「世界とスイスの関係(経済・金融など)」を、谷から峰を見上げ、峠・頂から谷を見下ろし、スイスの谷・水・草・貧土などつまり山の自然が歴史の諸事情と相まって、必然に生み出したものを、見つめ、それを語る「Agree to dissagree」の共同体を、国民性を、それを作り出した必然性を。 そういえば私も現役社会人時代に、輸入先のスイスの精密機械部品・センサーのメーカーのイクスポート・マネジャーが、いきなりテレックスで「来年一年間、兵役義務で居なくなるから、後はこれこれで、宜しく」と伝えられた時は、たまげたもんだった、「へぇ〜、国民皆兵制?」 永世中立国だって、こりゃ大変だなぁ〜、って感じた事あった。 [アルプスのコース・ガイドやハイキング・ガイドや関連書籍] ゲーゲデ著 松方三郎著 ティンダル著 中野 融著 近藤 等著 近藤 等著 ウィンパー著 近藤 等著 池田光雅著 小川清美著 辻村伊助著 新井 満著 |
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そう思わせる女一人の約6ヶ月に渡るチベット、チャンタン高原一周の馬による旅の紀行文である。しかも、1995年の事である。 私は、社会に出たての頃、山歩きを少しでも齧った多くの若者が夢見ていたヒマラヤの高山に登りたいという夢、それはあまり思わず、蒙古から西に向かった大草原の旅に憧れていた。多分、当時読んだ京都大学山岳部の今西錦司等の大興安嶺探検、オロチョンを求めて行った探検の旅の記録や、隊員だった加藤泰安の「森林、草原・氷河」(茗渓堂)を手にしていたからだろうか。 今まで、アジアの西域に関してどの位の本を読んだろうか。 スウェン・ヘディンの「中央アジア探検紀行」や、河口慧海の「チベット旅行記」の何冊かのシリーズに始まって、津本陽の「大谷光瑞の生涯」、橘瑞超の「中亜探検」、多田等観の「チベット」、比較的新しい時代の酒井敏明の「旅人たちのパミール」、田島正の「中国国境8000Km」、藤原新也の「西蔵放浪」、ちょっと毛色は変わるがハインリヒ・ハーラーの「チベットの7年:Seven Years in Chibet」に目を通し、その映画も観た、等々。 沢山あるが、読んだと言っても流し読みした程度の数冊もある。いずれは再読してみたいと思いながら手つかずのままになっている。 この「チベットを馬で行く」であるが、本の背にあるタイトルが眼に入って著者の名前・"一枝"で、?、?、? 男なのか、女なのか、単純な疑問を持った。 私は、巻末にある後書きを見てから本を買う癖があるから、この時もご多分に漏れずあとがきを開いた。そして知った。「1996年4月 またラサで」で結ばれた"あとがき"の文章の中に「夫も元気で忙しい日を送っている」とあったから、著者は女性で、"一枝"(いちえ)と読むことを知り、表紙の裏に「著者紹介」があることに気付いた。1945年ハルピン生まれで、1987年春まで18年間東京の近郊の保育園に保母として勤務していたことを知った。 『子供のころの渾名が「チベット」だった。・・・口ぐせのように「チベットに行きたいな」と言っていたらしい。なぜチベットが心にとまったかも、記憶にない。中学2年の時「ダライ・ラマ、インドに亡命」という新聞記事をみた。小学生のとき何かで「チベット」がインプットされて以来、チベットに関しては敏感な中学生だった。それから数年して川喜多二郎さんの「チベット人 鳥葬の民」を読んだ。ますますチベットに憧れた。』とあった。 読み進めていくうちに凄いじゃないか、素晴らしいじゃないか、ここまで溶け込み、チベットの人、風物を愛して!、と。 夢の実現のためにチベット語を学び、たった一人での騎馬の旅。もちろん現地、チベットの随行者、案内人も同行しての旅ではあるが。子供の頃の憧れを実現しに。 所々で出てくる「岳」の名が気になっていた。 そう、著者は、「岳物語」や「わしらあやしい探検隊」の作家、椎名誠の伴侶なのだ。 さもありなん、と変な納得をしてしまった、本の内容とは何も関係もないのに。 |


