サントリー天然水工場(白州)との井戸水問題・他:白州の森

白州の森が綴る、「サントリー白州工場との井戸水問題」等の「森からの便り」

山の本 読書感想

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七つの最高峰(セブン・サミッツ):その2


○ 「七つの最高峰(セブン・サミッツ)」:ディック・パス&フランク・ウェルズ、リック・リッジウェイ著 
訳者:三浦 恵美里(文芸春秋社:1995年8月15日第一刷)



イメージ 1 帰国後、フランクは伴侶のルアンに打ち明けた「マーティを亡くしたことは言葉にならないくらいほど辛く、悲しいことだったよ。でも同時に山で体験したことは、すべてが厳しいものながらも想像しがたいほど素晴らしいものだったんだ。きみは多分反対するだろうし、辛いだろうけど、わたしたちは続ける決意をした。わたしとディックは来年も山に登るよ」と。
 エベレストからの帰路、ディック達と一緒になったクリス・ボニトンは、両人から南極遠征をしてみないかと誘われ、セブン・サミット計画を聞かされた。南極大陸までの足、航空機チャーター、燃料補給の難しい交渉の過程で、日本のプロ・スキーヤー、三浦雄一郎もまた南極大陸最高峰、ヴィンソン・マッシーフ 5140mの山頂からの滑降を模索していることを知り、丁度カナダ留学中の雄一郎の娘、恵美里(訳者)にコンタクト、日本側の窓口として渉外係りとなり、三浦隊も参加することになり、この夢の障害となった幾つもの問題を、持ち前の前向きな姿勢でクリアーしていったが、チリ海軍の燃料補給の計画が暗礁に乗り上げ、南極遠征はしばし延期。
 一方、アコンカグア計画は順調に進み、ディック、フランク両人が南米に出発する前日、エベレスト遠征隊の面々、ラリー・ニールソン、ゲイリー・ネプチューン、ジェリー・ローチ、ジム・ステイツ、ピーター・ジェーミソン、ドクターのエド・ヒクソン、そしてセブン・サミット全ての山に記録映画を撮ることになったスティーブ・マーツが、スノーバードのディックの邸宅に集結、分担の準備進行を報告、後はエベレストに向けて出発するだけ。
 夜も更け、ディックが亡くなったマーティ・ホイの言葉を思い出していると、いつの間にかフランクが傍らにいて、「どうだね、"相棒"(パンチョ)、時計は丁度12時を過ぎた」、「われわれの人生最高の一年がたった今始まったんだな」と。

 1983年、南米大陸最高峰アコンカグア(6960m)、フランク・ウェルズ、ディック・パス共に登頂成功。

 1983年4〜5月、エベレスト(8848m)、一次アタック隊、ノーマルルートよりブリーシアズ、ニールソン、ジェリー・ローチ、ピーター・ジェーミソンとシェルパのアング・リタの5人が登頂。
 山頂よりABCを通じて生中継。二次隊、無酸素でトライしたアシュラーを除いて、ステイツ、ネプチューンそれにシェルパが登頂。三次隊のディック・バスは8500mで断念。四次隊のフランクはサウスコルで天候待ちするが、断念。

 1983年、北米大陸最高峰マッキンリー(6194m)、アイディタロッド(アンカレッジ・ノーム間の犬橇レース)男の世界に女性で準優勝したスーザン・ブッチャーを仲間に、BCまで犬橇で荷揚げ。チームリーダーのフィル・アッシュラー、犬橇をBCまで操ったスーザン等と、フランク、バス共に登頂。これで2座完登。

 1983年、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(5895m)、裏側のマチャメ・ルートより家族同伴で登頂。

 1983年、ヨーロッパ大陸最高峰エルブルース(5642m)、ナイロビからコペンハーゲンに飛ぶ。数年前に登頂に失敗したフランク、ディックと共に見事登頂。これで4座完了。

 フランクの伴侶、ルアンから「フランクがセブン・サミットを続けるならば、自分は去る」と宣言される。この決心をするだけの強さを彼女に与えたのは、皮肉なことにこのセブン・サミッツだったから、と
 フランクは気付く。「彼等を失ってまでエベレストに登ることなどできない」、これがフランクの出した結論であった、六座で我慢する、と。

 1983年、南極大陸最高峰ヴィンソン・マッシーフ(5140m)
 10月まで順調に進んでいた計画が暗礁に乗り上げた。DC-3のオーナーが指名したパイロット、クレイ・レイシーが健康上の理由でプロジェクトから外れた。南極圏の飛行時間が長いジャイルズ・カーショーをパイロットとすることでこの問題は片付いた。11/7にロス郊外のヴァン・ヌイ空港を飛び立つ。サンチャゴで、世界の七高峰からの滑降を目指す三浦雄一郎隊も合流。一次アタックのボニトンに続いて、天気の回復を待った二次アタック隊、バスが登頂、三次アタックでフランク、マーツ、三浦隊が登頂、山頂直下から滑降、成功。これでバス、フランク共に五座登頂。

 オーストラリア大陸最高峰コシウスコ(2230m)、南極ヴィンソンの帰路、二人はオーストラリアへ向かい、六座目を完了。

 オーストラリアのコシウスコの帰路、バスはカトマンズに向かう。エベレスト登山のアレンジをしていたヨジェンドラの話で、予定していたインド隊との合同遠征の話はぺしゃり、次にネパール警察との合同遠征の話が持ち上がる。1984年秋、ディック・バスはブリーシアズ、ネプチューン等と共に第二キャンプまで上がるが、登山許可のごたごたに巻き込まれ、退却。

 そこに1985年春、サウス・コルから登るノルウエー隊の計画が浮かび上がる。南極でボニトンが話していた隊のことであった。ディックはブリシアーズと共に参加、ノルウエー隊に続いて二人も登頂。

 ディック・バスはこれで本当のセブンサミッターになった!

  *   *   *

 う〜ん、確かに読み物として面白いし、次々でてくる難問、壁を乗り越えていく逞しさには驚嘆する一方で、「やっぱり、金持ちなんだな〜!!!」ってなところが、ゲスの感想だな!

 ところでネットで見たら東海大学山岳部・学士会山岳会が2003年から何年かがかりでセブン・サミッツを目指して、今年、2009年春5月、チョモランマに登頂して、残るは南極のヴィンソン・マッシーフ(5140m)だけのようですね。
http://qomolangma.kubac.net/sevensummits.html
http://www.kanagawa-u.ac.jp/10/kyuryokai/pdf/kaishi56/seven.pdf

七つの最高峰(セブン・サミッツ)


○ 「七つの最高峰(セブン・サミッツ)」:ディック・パス&フランク・ウェルズ、リック・リッジウェイ著 
訳者:三浦 恵美里(文芸春秋社:1995年8月15日第一刷)

イメージ 1帯にはこうあった;
『もう一つの人生が50歳からはじまる!』
『すべてが挑戦という名のもとにはじまった』
『それまでの人生で手に入れなかったものを探しに出かけたふたりの男の物語
---一年間で世界七大陸の最高峰を制覇する---
壮大なセブン・サミッツの夢に向かってふらりは歩きはじめた!』
『わたしたちはすべてを見てみたかった。そして、すべてを見わたすには、
七大陸のいちばん高いところから見わたすのが最良の方法だったのさ』
********************************************
北米大陸最高峰:デナリ(マッキンリー)6194m
南米大陸最高峰:アコンカグア 6960m
欧州大陸最高峰:エルブルース 5642m
アジア大陸最高峰:チョモランマ(エベレスト)8848m
アフリカ大陸最高峰:キリマンジャロ 5895m
オーストラリア大陸最高峰:コシウスコ 2230m
南極大陸最高峰:ヴィンソン・マッシーフ 5140m
*********************************************
[あらすじ]
 実業界で成功していた二人の男、当時ワーナー・ブラザース社長 フランク・ウェルズ、そしてユタ州ソルトレークシティのスキーリゾート、スノー・バードの経営者 ディック・パスの壮大な冒険物語("オデッセイ")。

 当時、アマチュアの域を出なかった登山家二人が、意気投合して、セブン・サミット登頂を目指し、世界初のセブン・サミッターになるまでの、一般人の目から見れば狂気としか思えない、まさに"オデッセイ"を、熱い友情と、燃える情熱で実現していくアドヴェンチャー・ドキュメンタリーである。

 1981年、ソ連のエルブルース(5642m)にディック・パスは成功するが、フランク・ウェルズは失敗に始まり、比較的簡単なエルブルースさえ失敗して、その登山家としての準備の無さを自覚する。
 ターゲットを1983年に置き、身体の鍛え直しを目指す。
 ディック・パスの経営するスキーリゾート、スノー・バードで働いていた当時マッキンリーでただ一人の女性ガイド、マーティ・ホイを通じ、レーニア山ガイドがメンバーに入ったルー・ウィッタカー(隊長)のエベレスト北壁隊に潜り込むことが決まり、自分達のセブン・サミット登山の準備になると、その幸運を喜び、その準備登山のその又準備の手始めにレーニア山を目指すが、ここでもフランク・ウェルズ一人が山頂を踏めず、引き返す。
 ディック・パスはこの"相棒"(パンチョ:フランクのこと)に夢の相棒としての能力に危惧を抱くが、フランク・ウェルズは「あっさりベンチ入りする気などにはなれなかった。もっと練習が必要なだけと信じ込む。」
 そんな折にアコンカグア遠征の話が持ち上がり、「山は南半球にあり、そのためエベレスト出発を予定している二ヶ月前の12月と1月に練習登山として登ってみることができる。たとえ登頂が難しいとしてもセブン・サミッツの一つでトレーニングになる」と。
 そして1981年秋、フランク・ウェルズはワーナー・ブラザース社長の座を降りる決心をし、"夢の現"に向ける道を選択して、アコンカグア遠征に向かう。
 しかし、アコンカグア遠征のウィックワイア隊のルートはノーマル・ルートではなく、より困難なポーランド氷河ルート。アタックの日、このルートからの登頂は無理、と途中からノーマル・ルートへの転進を図るが、結局隊を二つに分け、ディック・パスとフランク・ウェルズは隊長と共にキャンプに戻り、マーティ・ホイ(女性)を含む二人がそのまま山頂に向かう。キャンプに戻ったフランクは高山病で完全にダウン。翌日、バスだけが隊長のウィックワイアと共に、ポーランド氷河を辿る別ルートから山頂を狙い、見事十字架のある6960mのピークに立つ。
 ディックはこの登山で自信を付けたが、"相棒"(パンチョ)のフランクは、またまた失敗。ディックの心配に、「そりゃ、多少がっかりしたさ。でも失望はしていない。」とフランク。彼、フランクは今でも大切なことは身体作りだということを繰り返し、家に戻ってより一層のトレーニングを積み、それから二、三ヶ月エベレストで過ごしさえすれば、セブン・サミット計画に向けて体調は整う、と考えていた。

 1982年、早春、中国の成都からエベレスト北壁隊のメンバーとして北側からエベレストに向かう。ネパール側と違ってポーターは居ない。隊員だけで荷を上げなければならない。フランク、バス、ホイも同じようにBCから第一次キャンプへ、二次キャンプへ、三次キャンプへと荷揚げを続けるが、だがフランクはその無理が祟って、肺炎を起こし、BCでの静養をドクターから言い渡される。中間キャンプで荷揚げ作業に従事していたディックは上のキャンプで作業を続けていたホイが下のキャンプに降りてきたとき、ホイから言われる「一緒に山頂まで行くのよ」と。
 体調が戻ったフランクが三次キャンプに上がり、ディックと同じテントで生活しながら、馬鹿話をした二人のセブン・サミット計画を隣のテントに居た、この隊の撮影担当のスティーブ・マーツに聞かれてしまう。そして二人の計画の撮影担当にマーツが乗る。
 そんな数日が過ぎて、突然上のキャンプから無線連絡が入る「悪い知らせだ、第六キャンプ直下で最悪の事故が起こった! 詳しい内容はまだ不明だが、ハーネスが切れて、マーティ・ホイが命を落としたらしい・・・」。後で判ったことは「ハーネスをちゃんとバックルに通していなかった。ロープにつけたユマールに身体から抜けたハーネスだけが残っていた、と。致命的なミスだった。
 アマチュアのディックに登山家としての厳しさを、優しさを教えた若い女性ガイド、マーティ・ホイの死は、ディックの心に痛手を与えた。しかし、「一緒に頂上に立つのよ!」の彼女の言葉を思い出し、この遠征をさせることが彼女に意思だと。
 後で、遺品を調べたら、物欲の無い彼女の持ち物は僅かだった。あのイヤリング(ディックがプレゼントして、この遠征にも付けていた)が見当たらない。滑落した時、彼女はそれを身に着けていた、そしてあのイヤリングを永久に耳につけたまま氷河の中に眠っている。
 アタック・メンバーとなったニールソンの失敗、続いて二次隊、ウィックワイアも失敗。
隊長ウィックタッカーは撤退を宣言した。
 BCを去る日、仲間はケルンを積みマーティ・ホイに最後の別れを、ディックは彼女が好きだったラスカの詩の一節を引用して;

  なぜだかわかなないが
  めざした山頂は今ははかない頂のようだ
  エベレスト北壁、あのグレート・クロアールの下に
  ぼくの心が永劫に眠るように

 今、彼女の墓標を前にして、二人はこの計画を続けるべきか、止めるべきか悩んだ。


***その2に続く***
http://blogs.yahoo.co.jp/ogawa819/folder/1517301.html

昨晩のNHKの番組「「あの人に会いたい」で、タイミング良く随筆家の"岡部伊都子"さんを偲ぶ番組が放映されていました。

命日は、昨年、2008年4月29日。
肝臓癌で亡くなったのでしたね。

沖縄・南風原村・陸軍野戦病院跡や、竹富島や加茂川堤の本の中で記憶に残る静止画が、テレビ画面の映像として見ることができました。

再放送だったのかな〜、前にも見たような気もするが、別の番組であったかどうか・・・。

ここのところずっと彼女の著作を読んでいた。

   *   *   *

ネット上の情報を参照させて頂くと、彼女の著作は;

1950年代
 『おむすびの味 正続』 創元社 1956
 『いとはんさいなら』 創元社 1957
○『蝋涙』 創元社 1957
 『言葉のぷれぜんと 』創元社 1958
 『白』 新潮社 1959
 『十代の質問』 創元社 1959

1960年代
 『いのちの襞』 新潮社 1961
 『観光バスの行かない… 埋もれた古寺』 新潮社 1962 のち文庫
 『古都ひとり 』新潮社 1963
 『花の寺 正続』 淡交新社 1963-65
 『風さわぐ かなしむ言葉』 新潮社 1964
 『美の巡礼 京都・奈良・倉敷』 新潮社 1965 のち学陽書房女性文庫
 『秋篠寺法華寺』 淡交新社 1965
○『美のうらみ 』新潮社 1966
 『奈良残照の寺』 淡交新社 1966
 『京の寺』 保育社カラーブックス 1966
 『女人歳時記』 河原書店 1967 のち角川文庫
○『美を求める心』 講談社 1967 のち文庫、文芸文庫
○『鳴滝日記 』新潮社 1968
 『仏像に想う 』梅原猛共著 朝日新聞社 1968 のち講談社現代新書
 『水かがみ 』淡交社 1968
○『わが心の地図』 創元社 1969

1970年代前半
 『鈴の音』 創元社 1970
○『おりおりの心 理想への振子』 大和書房 1970
 『女人の京』 新潮社 1970
 『列島をゆく』淡交社 1970
 『蜜の壷』 創元社 1971
 『秋雨前線』 大和書房 1972
○『二十七度線 沖縄に照らされて』講談社現代新書 1972
○『心象華譜』 新潮社 1972
 『御伽草子を歩く』 新潮社 1973
 『難波の女人』 講談社 1973
 『北白川日誌 』新潮社 1974

1970年代後半
 『四季の菓子』読売新聞社 1975
 『あこがれの原初』筑摩書房 1975
 『こころをばなににたとえん』 創元社 1975
 『玉ゆらめく』新潮社 1975
 『京の川』 講談社 1976
 『京の手みやげ』新潮社 1976
 『紅しぼり』創元社 1976
 『小さなこだま』創元社 1977
 『小さないのちに光あれ 花のすがた』創元社 1977
 『小さないのちに光あれ』大和書房 1978
 『女人無限』 創元社 1979
 『暮しの絵暦』 創元社 1979
 『ふしぎなめざめにうながされて』 大和書房 1979
 『暮しのこころ』 創元社 1979

1980年代
 『自然の象』 創元社 1980
 『鬼遊び』 筑摩書房 1981
 『野の寺山の寺』 新潮社 1981
 『あしかびのいのち』 PHP研究所 1981
 『心のふしぎをみつめて』 筑摩書房 1982(ちくま少年図書館)
 『野菜のこよみ・くだものの香り』 創元社 1982
 『シカの白ちゃん』 筑摩書房 1983
 『紅のちから』 大和書房 1983
 『みほとけ・ひと・いのち』 法藏館 1984
 『京の地蔵紳士録』 淡交社 1984
 『上方風土とわたくしと』 大阪書籍 1984
 『賀茂川のほとりで』(全4巻)毎日新聞社 1985-90
 『優しい出逢い』 海竜社 1985
 『風ありて 伊都子短章』 創元社 1986
 『いのち明かり』 大和書房 1987
 『伊都子南島譜』 海風社 1988
 『お話ひとこと』 冬樹社 1988
 『言の葉かずら』 冬樹社 1989

1990年代
 『うぐいす生きて』 孔芸荘 1990
 『露きらめく 伊都子短章』 創元社 1991
 『ひとを生きる』 海竜社 1992
 『生きるこだま』 岩波書店 1992 のち現代文庫
 『沖縄からの出発 わが心をみつめて』 講談社現代新書 1992
 『こころからこころへ 2巻』 弥生書房 1993-94
 『夢をつらねる』 毎日新聞社 1994
 『出会うこころ』 淡交社 1994
 『朱い文箱から』 岩波書店 1995
 『流れゆく今』 河原書店 1996
 『岡部伊都子集』全5巻 岩波書店 1996.5
 『沖縄の骨』 岩波書店 1997
 『こころ花あかり』 海竜社 1998
 『水平へのあこがれ』 明石書店 1998
 『能つれづれこころの花』 檜書店 1999
 『未来はありますか おもいを語る』 昭和堂 1999

2000年代
 『思いこもる日々』藤原書店 2000
 『京色のなかで』藤原書店 2001
 『弱いから折れないのさ』藤原書店 2001
 『賀茂川日記』 藤原書店 2002
 『朝鮮母像』 藤原書店 2004
 『まごころ』 哲学者と随筆家の対話 鶴見俊輔共著 藤原書店 2004
 『岡部伊都子作品選・美と巡礼』 全5巻 藤原書店 2005
 『みほとけとの対話』 淡交社 2005
 『遺言のつもりで 伊都子一生語り下ろし』藤原書店 2006
 『ハンセン病とともに』藤原書店 2006
 『伊都子の食卓』 藤原書店 2006
 『清らに生きる 伊都子のことば』 藤原書店 2007

   *   *   *

こんなにあったのですね!
○印を付したのは、私が読んだ、或いは読みかけ中の著作です。

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「二十七度線」、「蝋涙」、「おりおりの心」


 「櫻レクレイム(副題:岡部伊都子へのめぐる想い) に触発されて、岡部伊都子の著作を読み続けていた。
正しくは、読み続けている、と進行形で書くのが正しいのだが。

 1956年(S.31)に出版された「おむすびの味」、「続・おむすびの味」(創元社)の作品で随筆家として注目され、その後「蝋涙」、「ずいひつ白」、そして1963年(S.38)に新潮社から出された「古都ひとり」、淡交新社から出版された「花の寺」、「続・花の寺」、新潮社から「美の巡礼」、「美のうらみ」、講談社から出された1967年(S.42)の「美をもとめる心」で随筆家として確固たる名声を築く。
 その後も、「鳴滝日記」(新潮社)、「わが心の地図」(創元社)、「おりおりの心」(大和書房)、「鈴の音」(新潮社)、「蜜の壷」(創元社)、そして1972年(S.47)出版の「心象華譜」(新潮社)など、わずか6年の間に34冊の随筆集を世に出している。

 私が目を通したのは、この中の「蝋涙」、「美のうらみ」、「わが心の地図」、「おりおりの心」、「心象華譜」、そして1972年(S.47)以降に出版された「二十七度線」。
まだ読み始めていないが、「鳴滝日記」も手元にある。

イメージ 1
● 「二十七度線」副題:沖縄に照らされて(講談社現代新書:昭和47年3月28日第一刷発行)
「櫻レクレイム(副題:岡部伊都子へのめぐる想い) の原作者:大沼 洸は、この本の中の「沖縄をめぐる」の章でこう書いている;
『斯(こ)うしておりにふれ語られ傳へられて来た謂(い)ふなれば燠(おき)の火が一陣の風に煽(あお)られ、遽かに燃え盛り、激しい紅蓮(ぐれん)の焔の色を判然と示してみせた文集---其れが「二十七度線-沖縄に照らされて」でなかったか。
 この著書以降の叙述は、以前のものと較べ全で異なって了ふ、一層、眞実味、鮮明度が加わり迫眞且つ具体的となる、時に激越(ドラスティック)な烈しさをみせるまで変化する。
 是の一書は、或る意味に於いて、岡部伊都子といふ作家の瞠目に値する代表作と申して過言であるまい。
 寺社めぐりや、佛像佛画の解説、古文書古典籍の解題---さうした秀でたお仕事とは全く別の面の謂はば作家としての体面やら体裁、矜持(きんじ)虚飾をかなぐり捨て、思ひのたけをぶちまけ、一気に其の生身の懊悩憂悶(むのういうもん)を弾けさせた一書だ。
 優雅な裳裾(もすそ)をかなぐり捨て、化粧を剥落した生の素面(そづら)を其遽に見出す事が出来る。
 一途なまで形振(なりふ)りかまはぬ眞摯敬虔な求道の姿がある。瞋恚(しんい)の炎に灼かれ爆発する姿がある。是は岡部伊都子といふ作家の将に眞骨頂を示した重厚且つ畢生(ひっせい)入魂の一書であらう。
 どうしても書きたかった事、書かねばならなかった事、どれだけ懸命に書いたか、読む者に如実に傳はって来る。読むほどに作者の其の熱(ほとぼ)りに圧倒され、有無を言はせず遮二無二惹きこまれる。作者は恐らく寝食を忘れ只管(ひたすら)、書いて書いて書きまくったに相違ない。作者の熱い思ひが煮滾(にえたぎ)って沸騰するやうだ。息詰まるやうな、いくら書いても書き切れない緊迫の念慮が、眼に見えない細かい微粒の礫(つぶて)となって、此の作品のそこら一面に飛散して浮遊するかのやうにな印象を受けた。
 是ほどの作品が、生涯二度と書けるものではないのは勿論だが、作者の凄絶とも言へる精神構造、其の背骨(バックボーン)の強かさ、操觚(さうこ)道(だう)に徹す厳しさにつくづく敬服させられ、私は涙がこぼれてきたのである。』

「二十七度線」の表紙の要約文にはこうある;

『 昭和二十年・・・・・。
  一通の広報残して
  著者の婚約者は沖縄に散った。
  「いつかは沖縄に行ってみたい、彼の死の真実が知りたい」
  それが著者の長年の願いであった。
  そして渡った沖縄。
  そこには死の真実を越えて、沖縄の真実がまっていた。
  沖縄の人びとと知りあい、美に感動し、
  悩み、苦しみ、教えられ、その心に、
  沖縄に照らされて浮かびあがったものは何であったか。
  本書は、心を裸にし、切々とつづった感銘をよぶ記録である。』

 その著者、岡部伊都子が始めて沖縄を訪れたのが、1968年。
この「二十七度線」は神戸新聞に1969年8月18日から」9月22日まで連載された原稿で、1回分の枚数が決まっていたため、言うべきことを割愛したところがあり、なんといってもなまぬるくて、と1971年秋頃から1972年1月にかけて追加、分離、編成し直した、と後書きにある。

 いままで読んできた「蝋涙」、「美のうらみ」、「おりおりの心」、「わが心の地図」、その短い一編一編の文章の中にさりげなく、何十回、いや何百回と繰り返し繰り返し、言葉を代えて、呟くように、
『自分の浅はかな思想と、沖縄で自決した1歳年上だった許婚が、短い許婚時代のわずかな出征前の時間にふともらした言葉「こんな戦争で死にたくない」を「どうしてそんなことをいうの」とたしなめた、彼の思想の違いを気付かずに過ぎ去った過去の自分を、皇国の教育を疑わず、女らしくとのみ育てられ、戦死を必然だと思いこんでいた軍国の少女だった自分を許せぬと・・・、許せぬと・・・。』

 岡部伊都子が初めて沖縄に渡ったのが、勿論沖縄返還前の1968年。
そして当時の関係者に会い、許婚の自決したその場所を訪れ所属部隊の最後の様子を知る。

 沖縄は1972年5月15日に返還され、
『分断の二十七度線は、1972年5月15日、消える。けれどそこになお鮮明な二十七度線が浮き立つ。戦争や差別解放を考えるとき、そこには必ず沖縄があったように、沖縄から中国や南北ベトナム、東南アジアの各国や台湾が映し出される。南北にわけられた朝鮮半島の地図が照らしだされる。世界中の差別や戦争が映しだされる。醜悪な本土化を否定し、世界各地の二十七度線を消す方向へ歩みださなければ、本土が沖縄をへだてた二十七度線もけっして消えはしないだろう。』と、この本は結んでいる。

 [備考] 私事になるが、わがMWV(ワンゲル)が返還前の沖縄へ、宮古、石垣へと遠征、春期合宿をしたのは昭和42年(1966)3月であった。ワンデルングが目的の、日本でありながら日本でない沖縄へ、その記録(部誌 跋渉7号)には「よく見ればそこは戦争」(二年西村 浩)、「学校教育とその環境及び沖縄今後の課題」(二年 本多育男)、「宮古群島農業の問題点」(浜田 稔)が拙い文章を寄せていた。

イメージ 2
● 「蝋涙」(創元社:昭和32年8月20日初版発行)
 岡部伊都子の初期の作品である。
 この本のベースになったのは朝日放送”ハモンドにのせて”と言う番組の<四百字の言葉>の原稿である。この放送番組は昭和29年7月から始まり、1000枚近く続いた、とある。その中からの抄出である。
 四百字詰め原稿用紙1枚の小文であるから、日常眼に触れる事柄を書き綴ったものであるが、「櫻レクレイム」の著者に習って、先の戦争への懺悔、許婚を思わせるふとした文節にタグを貼りながら読み進め、読み終わったら7枚のタグが残った。「わが心の地図」では6枚、「おりおりの心」では約20枚のタグが残っていた。
 "蝋涙"、この言葉を語彙として意識したのは、このブログでも書いたことのある沢田誠一の「白い土地の人々」の中の一遍、"ランプの家"で書かれていた句「秋深し 主蝋涙を みつめおり」であった。
戦後積丹半島の荒地の入植地に集団で開墾に入ったが、いまはことごとく敗れて離農し、残ったたった一軒、数年前に妻に先立たれ、電灯がないテレビがない、その家が火災に遭い、その火事のショックで聾になった老人が、自分の慰みに手帳に綴った句;


 人の住む 果てにありけり 雪の家

 亡妻忌 小菊開かぬ 寒さかな

 秋深し 主蝋涙を みつめおり

 白い道 聾十字架を 負う如く

 聾よ泣け 紙一枚の 稚な文字

 蝋涙は実際に灯した蝋燭の涙であろう。しかし私には、それが夜更け、一人奥さんの位牌の前に座った作者の眼からこぼれる涙としか思えない。そして聾よ泣け! と、北の果てに開拓者を夢見てあまりにも報われなかった亡妻と自分の生涯への悲しみが、水晶玉になって私の胸にしみてくる』

イメージ 3 岡部伊都子は、こう書いている;
『・・・・・。
 はなやかなネオンのようになれなくっても、小さなまま、自分にせいいっぱいの明かりをともして燃えつづける蝋燭でありたい。そしてその光が世の中の片隅を照らすことができたらどんなに生甲斐ある人生になるでしょう。でも自分は明るく燃えながら蝋燭は蝋涙、つまり身をやいて流す涙を、ほろほろとこぼしているのでございます。』と。

[追記]
これでまたまた積読状態であった深田久弥の著作、串田孫一随想録、松方三郎「アルプス記」、小西政継の「ジャヌー」や「マッターホルン北壁」、近藤等の「アルプスの名峰」等、山岳関係の名著に眼を通すのが遅れそうだ・・・。
● 「櫻レクレイム(副題:岡部伊都子へのめぐる想い):著者 大沼 洸 編集・発行 麻生芳伸、 刊行 紅ファクトリー

 強烈なアッパーカットをくらった!

 読み進めて、その一節一節が、きついボディブローになって効いてきた。

*   *   *

イメージ 1 著者は、こう書いている;
『読み進むほどに否も応もなく著作の一ツ一ツに魅了され、惹きつけられていったのは言を俟たない。其れは無論のこと紛ふ由もなかったのだが、次第に緊張の度合ひが高まってきて、息苦しい何かに圧されてくるのを覚えてきた。
 其れは取りも直さず、読んで癒されるとか楽しむ或いは娯しむやうな事から、読む事により深く促され考へさせられ次第に別の方向へ、進路を変更せざるを得なくなって来てゐたからである。畢竟(ひっきょう)もうひとりの著者の素顔、或いはぎりぎりの生身「岡部伊都子」を認識せざるを得ない事態に立到ったからである。
 廻り諄(くど)い話は止そう、著作の裡から引用する文章を読んで頂くのが、何より最善の法かと思はれます。』と。

イメージ 2初めて手にした岡部伊都子の著作、豆本「うぐいす生きて」(1990年7月1日発行)。昭和5年、福島県生まれの「岩越豆本」の主宰者であった著者の大沼 洸(くわう)が最初に接した本である。それで「古都ひとり」に接し、こう書いている
『忘れもしない。最初に出會ひそして感銘一入(ひとしほ)深く受けた夲は、『古都ひとり』であった。なんといふ美しい文章を書く人だろう。其れが最初の印象であった。著者、不惑前後の年齢 - 最も脂の乗った折に、認(したた)められた随筆集で、高邁な香気と才気を如実に示した一巻であろう。先ず目次を披見して、其の斬新凄絶の文字に息をのんだのである。順に竝べ挙げると、呪、虚、艶、彩、闇、音、執、淡、幻、酔、離、荒の十二章から成立する。「呪」の最初の書起しは斯うだ。』
で始まる”トリミングを施さぬ素の侭の抄出(短章ではなく)”をしてみたくなったと書いている。

イメージ 3この本の母体となったのは手書きの私製豆本「サクラ ガ サイタ」(著者:大沼 洸)であると、麻生芳伸 編集・発行者が編集後記に記しているが、その又土台になった本があった。
著者、大沼 洸氏が、その豆本を製作しようと考えた発端は、「古都ひとり」と出合った後、
『美しいものと出會った感動から岡部さんの著書を数冊漁って読んだ。
 読んだとは言へ、美しい場面を拾い読んでゐたばかりで謂はヾ慢読の域を出てゐなかったのである。
さう斯うする裡(うち)、「露きらめく - 伊都子短章」の一冊に出會った。是は小山三郎さんといふ方が、岡部さんの著書の裡から好みにまかせて遊び抄出した「短章集」で、断片的抄本といふべきものであった。・・・
』と記している。

この私製豆本「サクラ ガ サイタ」は、その後縁があって岡部伊都子に寄贈され、この本の編者で発行者の麻生芳伸氏にわたった。ここまで強烈に惹きつけられ、熱烈なファンが居たことに編者・発行者の麻生芳伸氏は驚き、『その豆本を手にとって、小生はひと目見て、人知れずこのような岡部作品への熱烈な信奉者が存在することをはじめて識り、感動して、密かに出版を決意した』と。

*   *   *

イメージ 4私が、「岡部伊都子」なる名を知ったのは、いつのことだろう・・・、まったく思い出せない。
この本の末尾に載せられている「岡部伊都子 著書リスト」をよくよく眺めても、思い出せないで居る。
私のホームページ「森からの便り」やこのブログの「山・自然 読書感想」の中でも、何回か触れたが、わけあって早期退職した後の浪人時代、遊びの山行費用がなく、泣く泣く二束三文で手放した雑誌アルプ全号、ほか沢山の山岳関係の蔵書の中に、岡部伊都子の著作もあったのではと、「古都ひとり」だったか「美を求める心」だったか・・・。
だから、私にとっても「美の探究者」として、神社仏閣、庭園、仏像を見て、それらの随筆を書く作者、と言う印象しか残っていなかった・・・。

でも、違った。

私は、最近求めていた「わが心の地図」(昭和44年7月20日 創元社発行)、「美のうらみ」(昭和41年5月30日 新潮社発行)、そして「心象華譜」(昭和47年6月25日 新潮社発行)の3冊を立て続けに読んだ、豆本作者、大沼 洸と同じように、気に入った数節の文章の箇所に付箋を貼りながら。

串田孫一をして言わしめた”吉野せい”の「洟をたらした神」のあの鉈でばっさり割ったような切り口の節くれだった文章とは違うが、ストレートな、心をぶつけるような切れ口の、痛みを抉り取るような、でも美しく響く文章に惹きつけられたからである。

海を見、波を見、松を見、風に触れ、船を見、寺を見、仏像を見、庭を見、浄瑠璃を見、神戸の町並みを歩き、大阪を歩き、何十回、いや何百回と記述される自分の浅はかな思想と、沖縄で自決した1歳年上だった許婚が、短い許婚時代のわずかな出征前の時間にふともらした言葉「こんな戦争で死にたくない」を「どうしてそんなことをいうの」とたしなめた、彼の思想の違いを気付かずに過ぎ去った過去の自分を、皇国の教育を疑わず、女らしくとのみ育てられ、戦死を必然だと思いこんでいた軍国の少女だった自分を許せぬと・・・、許せぬと・・・。

*   *   *

この本は、先日、日野春にある「日野春アルプ美術館」を訪れた時、館長が「どうぞ、お持ちくださいと」言ってくださり、頂いてきた本であった。


原本の著者、大沼 洸氏の住所を記しておこう:〒969-1131 福島県本宮町南町裡122-2

日野春アルプ美術館 http://www.y-shinpou.co.jp/MUSEUM/alp.html
私の関連ブログ記事 http://blogs.yahoo.co.jp/ogawa819/49127483.html

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