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北鎌尾根が終わって、充足感はあったが、一方で虚脱感も感じていた。 7月の末日から8月の上旬、丁度、98歳になる父親のショートステイ。 娘の「出かけたら」の声に押されて、久しぶりで山ノ神と白州の小舎に向った。 しかし、この梅雨戻りの天気、青空が見えるのも一瞬で、あとはざぁざぁの雨。 庭の草むしりをする勇気など起きぬ、雨の毎日。 「今日も雨・・・、どうする今日1日・・・」そんな会話が、入舎した後、何回か繰り返される。 そう、「日野春アルプ美術館」。 土曜の午後電話を入れてみたが、不在みたい。 日曜の10時過ぎに、もう一度と思い、携帯のボタンを押すと、館長の鈴木さんが居られた。 「じゃ、これからお伺い致しますので・・・」 白州の道の駅で、若干の新鮮な野菜を仕入れてから日野春に向う。 懐かしい直行の絵に再会する。 幾度と無く、食い入るように見入った「雪原の足跡」、「原野から見た山」、そして「開墾の記」の挿絵、「坂本直行作品集」。 何といっても2階への階段を上がって、右正面に架けられた横長の大作、日高の山々がいい。 沢山の遺作が展示された中で、やはりこの絵はいい! (注:したのパンフレット画像の最下段の絵) 館長が心ずくしに入れてくれたアイスコーヒーのグラスを手に、しばし佇む。 ぐるっと観て回って、あとはとりとめもなく文芸雑誌「アルプ」の話を交わす。 昨年初夏、斜里までいきながら、同行仲間とのスケジュールを遅らせるわけには行かず、泣く泣く素通りした「北のアルプ美術館」。 「あそこまで行って、何で館長の山崎さんに連絡されなかったのですか・・・」 昨年の、女満別空港から雌阿寒岳、斜里岳、知床の羅臼岳の山行に向った時の経路にあったのだ。それは知っていた、でも立寄っていれば1時間では済まされない、半日は時間が欲しい。横目で睨みながら斜里の中心街を走り抜けた。 直行の生誕100年が2006年だった。没後、25年の月日が経っていた。 そのときは、中札内、六花亭の「中札内美術村」、「北のアルプ美術館」そしてこの日野春にある「日野春アルプ美術館」もこぞって生誕100周年を記念する特別な催しものを行った。 その年、普段は道標一つ出していない日野春アルプ美術館の案内板が、七里岩ドライブラインの傍らの電柱などに掛かっていたのを、私も見ていた。 その100周年に合わせて刊行された中札内美術村から発行された滝本幸夫著「日高の風」を買い求めた。 そしたら鈴木館長が「これも、お持ちください」と渡してくれた限定1000部で発行された大沼洸著「櫻 レクレイム」(副題:岡部伊都子へのめぐる想い)。どちらの著者の名前も、申し訳ないが、存じ上げなかったが、そこで記された坂本直行、岡部伊都子のことは、もちろん知っていた。 その晩、開け放たれた窓から流れ入る冷気に身を委ねながら、遅くまでこの「日高の風」を読み続けた。 [備考] 読書感想のところで、いつか、詳しく触れてみたい。
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山の本 読書感想
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○『「日本百名山」の背景』:安宅 夏夫著(集英社新書 2002年4月22日発行) もう8、9年前にもなるだろうが、山岳関係の雑誌を見ても、各種のパンフレットを見ても、どこもかしこも「百名山」。山に入れば、何とかツーリストのリボンを付けた団体が吾がもの顔で道を塞ぐ。山小屋案内や、麓の自治体の観光情報媒体にも、「深田久弥の百名山」の文字が躍る。 雨が降り、ガスが渦巻き、展望の有無などお構いなく、ここまで来たのだからとピークに向う。 "「百名山」以外は山ではない"かの如く、目もくれないで、ただひたすら『深田久弥の選んだ百名山』を追い続ける。 そんな風潮が幾分下火になったとは云え、今日でも続いている。 山の歩き方は千差万別、個人が密かに目標にして、それに向って、その達成を楽しみにしながら追い求める。その気持ちは理解できる。 だが団体で、猫も杓子もぞろぞろぞろぞろ、そのピークだけを目的に、脇の山には見向きもせずに、遠隔地のそのピークの往復だけを金科玉条の如く追い求める風潮は、何か首を傾げたくなるように変てこで、滑稽だと、冷めた目で観ていた。 だからこのタイトルが目に入った瞬間は「うっ」と感じたのであった。 そんな気持ちを代弁するような内容の本なのか、と推察したからである。 手にとって、最初のページを開いて「本書で筆者は、深田久弥の生涯をたどることによって『日本百名山』がどのような背景から誕生することになったのか、その秘密にアプローチしてみたい。」を読んで「うっ・・・!」となった私の考えが邪推だと、悟った。 私が"深田久弥"の名を知ったのは、高校生の頃、「津軽の野づら」を読んだ時であった。 "志乃の手紙"や、アイヌの少女"チヤシヌマ"の恋の物語は、その新鮮な叙情的文体から若かった私の心を揺さぶった。その恋物語の内容はすっかり忘れているのに、その本の巻末に置かれた解説の中で「深田久弥の作ではなく、当時一緒に暮らしていた八穂夫人(北畠八穂)の作ではないかと言うのが通説」とのことが記されていたことだけは、よく覚えていた。私が17、8歳の頃。今から50年も前のことである。 10代の後半から山歩きをするようになり、青春真っ只中の若い頃、目にしていた「山と高原」に連載されていた、「日本百名山」の文章は、それほど私の気を引く存在ではなかった。 自分自身の「山」を求めていたから。 創文社の「アルプ」の文章の方が、遥かに心惹かれた。 社会人となった後、生計のためにわき目も振らず、モーレツ社員の仲間入りをして、山歩きから遠ざかっていた30年。 ほそぼそと年に数回の山歩きを再開する40代後半、50代に入った頃から、『深田久弥の「日本百名山」』の字句が、言葉が頻繁に耳に入るようになって来た。 それでも「津軽の野づら」の著者としての記憶が強く、自分が歩きたいルートの山が、この「日本百名山」の中の山かどうかなどと云う事は全く気にも留めなかった。 忘れ物を取り返すが如く足しげく歩くようになった50代後半から60代、山で行き会う人たちから"「百名山」ですね!"と声をかけられて、今自分が歩いてる山が「"深田久弥が選んで文章にした山"の中の一つなのか」を教えられた。 『「日本百名山」の背景』を手にした時、「はじめ」の第一文節を読むと、その後すぐに巻末の著者の略歴を開いた。著者 安宅 夏夫は詩人で金沢在住18年間、「鎌倉文学散歩」や「金沢文学散歩」を著した作家だと知り、山歩きとは無縁の略歴のようだったので、なお更「はじめ」の一節は強烈で、「本書で筆者は、深田久弥の生涯をたどることによって『日本百名山』がどのような背景から誕生することになったのか、その秘密にアプローチしてみたい。」の一文に惹きつけられた。 「あの”解説文”の詳細を知ることができる・・・」と; 第一章 運命の見えない手 第二章 人生はトンボ返り 第三章 賽子は振られた 第四章 火宅の人 第五章 故郷の山々に抱かれて 第六章 残された唯一の道 第七章 山の文学者・誕生 ヒマラヤ関係の文献を多く集め、ヒマラヤの山々に精通され、「雲の上の道」などを通じ、また初期の幾つかの遠征隊がその目的の山の選択にあたって、助言を求めに深田宅の「九山山房」に寄った時の遠征隊関係者の文章を目にしていた。 "百名山狙い"には興味は無いが、山の文章としての「日本百名山」には目を通していたし、山歩きを再開して以来、周りから小耳に挟む"背景"の断片を繋ぎ合わせて、凡その見当はついてはいたが、小説作家としての深田久弥(私はそう思っていた)が何故小説から離れ、山岳作家としての道を歩むことになったのか、その詳細な「背景」に関して、私は強い興味をもった。 一高時代の”憧れの君(姫?)”、本郷通りですれちがった少女(女学生)との思わぬ再会が深田の一高時代の後輩、当時新進気鋭の中村光夫の結婚披露宴の席上だった。 「やはりあなただったのですね!」 この少女に瓜二つ八穂(北畠八穂)との生活が破綻をきたし、本郷通りですれ違った少女と暮らすようになり、応召されて中国戦線へ、帰国後もそのまま、新しい家族の疎開先へ直行する。 この太平洋戦争を挟んだ数年の間に、深田と八穂の間にどのような夫婦間、男女間の葛藤があったのかは具体的には書かれていない。二人が書いた作品の中からこの著者、安宅夏夫は紐解きを試みている。 それが、それ以前から長いこと山歩きを好んでしていた深田をして、「日本百名山」を著させたのだと。 もちろん「雨飾山」は、彼が”山の品格”、”山の歴史”、”個性のある山”として百の山を選んだ中で、どうしても外すことの出来ない”本郷通りですれ違った少女”(18年後の少女)と雨に閉じ込められて4日間を過ごし、久恋の男女として結ばれた「山」だったからなのだろう。 この著者はそうは書いていないが、私にはそう思える。 今、私の手元にある「日本百名山」(新潮社:昭和58年8月30日 11刷)に解説(昭和53年9月)を書いている串田孫一によれば、「『日本百名山』その後」と言う文章があり、その中で"百のうち自分は幾つ登ったか目次にしるしをつけて、その数のふえて行くのを楽しみにしている読者が多いようである"と書かれている。」と。 また深田久弥の七回忌に編纂された、俳句を若き日から嗜んでいた俳号「九山」の句をまとめた「九山句集」を読んで、 「たまゆらの 恋なりき君は セルを着て」 「おもかげに 似たるホームの セルの人」 「セルとなり ショパンのロンド 弾きにけり」 「セル着るや 妻の美人で なきぞよき」 「時にふと 疼く憤怒も 去歳のこと」 「草の上に 干し物並び 野天風呂」 「夕涼み おのづと寄りし 草むしろ」 「おどけたる 一人を中に 夕涼み」 「わが子はや 歌留多取る子と なりにけり」 句を作った背景に触れる文章も「俳句履歴書」の中には無いのでこれ等の句を詠んだ時の深田久弥の心境を知る術は、私にはない。 昭和34年3月「日本百名山」の連載が「山と高原」に出る。この連載は好評で、昭和36年に読者の人気投票によって選ばれる第一回読者賞を受賞。 一方、確執のあった先妻、北畠八穂は著作「右足のスキー」で、この「背景」の著者が『八穂の怨念の炎立ち』で、八穂の文章から「夫」、「マキ」を二人の間の確執をモデルにした作品と位置づけている。 その後、昭和40年、深田62歳の時に「日本百名山」が第16回読売文学賞を受賞。 [追記:1] 若い頃呼んだ「津軽の野づら」も、新潮社版「雲の上の道」も「日本百名山」も、ある理由で他の山岳書と共に、皆処分してしまった。今手元にある「日本百名山」は最近古本屋で求めた物で、ご多分に漏れず前の所有者が100の山の番号のところに黄色のマーカーで印を付けている。その人が登った山なのだろう。このブームの火付け役になった「深田クラブ」のことに関して報じられた新聞記事の色あせた切り抜きが挟まれていた。 [追記:2]
7/16、『日本百名山』の中の一つ、大雪山系のトムラウシ岳で起こった痛ましい遭難事故死。 これから原因究明がされるだろうと報じられていたが。 いつかこう言う不幸なことが起こりうると感じられていただけに残念で、深田久弥もあの世で嘆いているのではないか、と・・・、勝手に想像している。 人間の手の及ばない自然の中に入る山歩き、自分自身肝に銘じなければと・・・。 |
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著者:古川 純一 発行者:二見書房 発行日:昭和42年8月30日初版発行 戦中・戦後の一時代、日本の岩登りを引っ張ったクライマーの一人。 ベルニナ山岳会、後JCCを設立。 このクライマーの著作を読むのは「わが岩壁」についで二冊目。 大分読んでから時間が経ってしまったので、もう一度タグを貼ってある箇所を読み返してから、キーボードを叩いている。 「わが岩壁」が初登攀を中心にした登攀記録の回想なら、この「いにちの山」は自分史的な要素を含んだそれ以外の山行、や「アルピニズムについて」記している。 一番私の興味を引いたのは「戦後の山旅」の章で書かれた南アルプス、八丁尾根の文章であろう。 八丁尾根、乃至は日向・八丁尾根とは、甲斐駒ケ岳の前衛峰、花崗岩の砂で覆われた八ヶ岳方面の展望の良さで知られた山ですが、その奥に続く大岩山、鞍掛山、さらに稜線は延びて、鋸岳の横の烏帽子岳に繋がる、駒ケ岳がまだ信仰登山の対象だった頃の駒ケ岳へのクラシック・ルート。私も一度は歩いてみたいと思っている、今は殆どひとの登らないバリエーション・ルートとなっている。 そのルートを昭和25年(1965年)の7月上旬に歩いた時の回想である。 この頃はまだ黒戸尾根も列を成して登山者が続くといった登山ブームにはなっていなかったかもしれないが、一般ルートは、このコースであった。人臭くない所を、とこのコースで登ったと書かれているが、大岩山の手前で水が無くなって、キャベツを齧りながら烏帽子岳へのきつい登りを上った、と。 小西政継の著作にも書かれていたが、山学同志会が先鋭的なアルプニズムを目指し、赤石沢奥壁を狙って、1965年の正月に入っているのを知って、同じ場所を狙っていた著者の所属するベルニナ山岳会は北岳のバットレスへ向かう。この時は、あちこちの山で降雪が激しく、ナダレで遭難事故が発生していたが、山学同志会では3人が亡くなり、荒川岳では昭和山岳会が、そして著者らのパーティもあやうく難を逃れた、と「なだれの恐怖」の章にあった。 当時の一線のクライマーの話が出てくるが、同じ会の小森康行(山岳写真家として知られる)の著作などがあれば読んでみたいものだ。
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「喜作新道-ある北アルプス哀史」 ●喜作新道-ある北アルプス哀史 著者:山本 茂美 発行者:朝日新聞社 発行日:昭和46年10月25日第1刷 昭和53年12月10日第12刷
山歩きをする今の若い人達に"喜作新道"と言っても通じないかもしれない。"表銀座"と言わなければならないのかも知れない。
巻末にある著者の略歴を開いたら、著者山本 茂美はあの「あゝ野麦峠」で女工哀史を著した作家だと知り、一、二もなく買い求めた。北アルプスの盟主、槍ヶ岳から伸びる尾根は4つあり、バリュエーションの北鎌尾根、双六に繋がる西鎌尾根、槍から南、穂高に連なる尾根、そして東鎌尾根。この最後の東鎌尾根に登山道を拓いたのが小林喜作、それで当初は喜作新道と呼ばれていた。 北穂高小屋を建設した小山義治の書いた「穂高を愛して二十年」を読んでいた頃、ふらっと街の古本屋を覗いたらこの「喜作新道」が目に留まった。 大正6年(1917)松本市生まれの著者が子供の頃に山好きの学生から聞いた『<喜作新道>をつくった牧の喜作がカモシカを獲りすぎて、「ねたまれて殺された」といううわさは、地元でも東京の登山家たちの間でもそれはかなり有名な話で、すでにある点、動かしがたい定説になっていた。』・・・ 『しかし考えてみると一人の猟師の死がナダレであろうと、また世間で言うように他殺であろうと、それで天下国家がどうなるものでもない、そんなことははじめからどっちだってよさそうなものであるが、どうしたものか私はこの山男の死が妙に気になってならなかった。それは私にとって宿命のようにいつまでも尾をひいていた。 理由はよくわからないが今になって考えてみると、「ガメツクって強欲で、エゴイストで」という喜作の話を聞けば聞くほど「何だかオレそっくりじゃないか!」という親近感だったかもしれない。 いずれにしても私はこの喜作の死について長年関心を抱いてきたことになる。 その後私はこの「喜作の死の周辺を」を洗わざるを得ないハメになり、予想もしなかった幾つかのことに出くわしてとまどい、ある時は驚喜した。』と"あとがき"にある。 ながい年月をかけて膨大な数の文献、関係者の遺族への聞き取り調査の内容から、こんがらかった糸を丹念に注意深く解きほぐすように書き進める内容は、緻密なドキュメンタリーというより、インタビューした関係者達の言葉と、残された文献の字句とを付き合わせながらの推理作家が問題の核心に迫るような面白さを感じた。 最初は単なる山岳関係のドキュメンタリー物として読み始めたが、いやいやどうしてどうして先が楽しみで読むのを途中で止めるのが惜しいくらいであった。
話しの背景にある田園、山岳描写、そして猟師の対象であるカモシカや熊など。 これは先日読んだ日本冒険小説協会大賞を受賞した「約束の地」(樋口明雄著)や、第131回直木賞を受賞した「邂逅の森」(熊谷達也著)などに出てくる、マタギと熊、猟師と巨大イノシシ・熊とのフィクション小説とも一味違った面白さであったが、それは私が山歩きをしていることからきているのだろう。 |
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樋口明雄さんは白州にお住まいです。 あらためて、この本の帯に書かれている紹介文を; 『しかし。 真の「狂気」は、 人間だった。 人を餌にし始めた 巨大野性動物。 環境問題で対立する住民。 謎多き死亡事件。 - 四面楚歌のこの地に、 男は孤独癖の娘と二人で、 やってきた。 我々は、 共に生きては いけないのか?』 . . 『法で猟を規制され 不満を募らせるハンターたち。 密猟でもいい。 「害獣」を殺して欲しいと願う農家。 ヒステリックに動物愛護を叫ぶ団体。 親の利害関係が生み出した 子供の苛め。 どうせエリートの腰掛人事、 と冷ややかに自分を見る部下。 そして、 人間を襲い始めた巨大野生動物。 心の闇が生み出した死亡事件。 相容れぬ者が共に 生きることを目指し前進する 「普通の男」の葛藤』 |


