|
「残雪の立山」が未完のまま、4/26に出かけた西上州・鹿岳の報告を先にして、ちょっと前後してしまいますが。 我々が扇沢から室堂に入ったのは4/15日。 天気が思わしくなく、一ノ越から雄山に直接向かうのは中止して、ひとまず宿の「みくりが池温泉」に入ったが、そこで相部屋になった写真家のお二人、AさんとI先生。 すでに4/13日から入山して、雪で埋まった室堂平などの写真を撮影する目的であったが、ずっと天気が悪く、撮影できない日が続いて、と最初にお部屋でお会いした時にもこぼされていた。 その日の午後数時間青空が顔を出し、日没の光景を撮影できたとは思うが、4/17に雪の大谷がオープンして、黒四アルペン・ルートが全面開通した後は、どっとスキーヤーやスノーボーダーが入山してきて、あの広大な室堂平の雪原も沢山のシュプールが刻され、写真撮影には向かなくなる、と言う。 宿の壁にも彼らの何枚かの作品が架けられていた。 "袖振り合うも多生の縁"で、温泉とはいえ山小屋みたいな蚕棚式ベットの相部屋になれば、いろいろ話を交わすのは常のこと。 ましてや話しているうちに、住まいが比較的近くで、しかも共通した知人の話ができるほどローカル話題が通じる方々と判れば、更に話は弾む。 4/15の夕刻は、我々も多くのカメラマンに混じって、大日三山の向こうに没する太陽に向かってシャッターを押してはいたが、どちらかと言えば、山の上に向かって歩くことが目的で、カメラでの撮影はその過程の記録・記憶の補助的役割なので、同じ場所でシャッターチャンスを狙って長時間ねばるような努力は二の次にして来たことは間違いない。 宿の廊下の壁にも大きな作品を飾れるような腕前の写真家、そして毎年のようにこの時期にモチーフを求めて入山を繰り返す常連さん。 「今度帰ったら、作品を纏めた写真集を送りましょう」 「写真集を出版されているのですか、それはうれしいなぁ〜」 とか、お互いに一杯入った後なので、話は軽い。 それが、本当に届いていたのである。 4/26日、西上州の山歩きから家に戻ると、私の部屋に大きな封筒で、しかも分厚く、重い。 一目見たときは、先日ネットで注文を出しておいたギター譜面集とDVDが業者から送られて来たのかと思った。封筒には「北日本印刷株式会社」の文字とロゴ。 「あっれ?」っと、封筒をひっくり返して差出人のゴム印を見てびっくり。 先日、立山・みくりが池温泉でお会いした新井さんからではないか! ずっしりと重い写真集、専門的には何版と言うのだろうか、A4版より一回り大きく、ページも130ページを越えている。 いやぁ〜、立派な写真集だ! タイトルは『「四季 日本」新井 翠翹 写真集」』となっている。 日本全国の風光明媚なポイントを見つけて写真に収めた作品集である。 山が好きだから白旗史朗、尾白明夫、田淵行男、内田良平、三宅修、三木慶介などの写真は良く見かけ、何冊かは蔵書しているし、星野道夫の写真集は何冊も、若い頃の山歩きの仲間には写真の道でやっていこうと目指した古い山友も何人かいた、そしてギャラリーの個展などへ誘われて訪れたことなどもあった。 これだけの作品を纏めて写真集にするのは、大変力のいる仕事である、生半可なことではできない。 そこで、このブログで取り上げさせて頂いた。 どのような作品が並んでいるのかを知って頂く為に、目次ページも載せておきます。 暮色・日没・夕陽の作品の中にいいものが多いようですが、山好きな私にとってはやはり山に関係する「廃橋吹雪・富山」や「孤高キタダケソウ・山梨」のような作品に魅かれます。 本の扉の前ページ、専門用語で何というのか知りませんが、本の最初のページに書かれた言葉「幼い日に寂しい思いをさせた、二人の娘への詫び状に代えて」と添えられている。 若い頃から撮影行のために家を空けることの多かった作者、それぞれの場所へ其々の季節、タイミングで飛び出していかねばならない仕事。 添えられた言葉の中に作者の人柄が偲ばれる。 |
山の本 読書感想
[ リスト | 詳細 ]
|
京都大学総合博物館編 著者:梅棹忠夫・斉藤清明ほか 発行所:財団法人 国際花と緑の博覧会記念協会 発売元:紀伊国屋書店 2002年12月13日第一刷 4/3付け、日経新聞の朝刊、を読んでいたら、こんな記事が目に付いた。 「文化往来」のコラムであった; 『京大、カラコルム探検映画などをDVD化』の見出しで、1950年代の3つの探検、西堀栄三郎等の南極越冬のほか、55年の木原均隊長のカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊、58年の桑原武夫率いる学士山岳会がカラコルムのチョゴリザ(7654m)に初登頂など、これら探検の詳細な記録や後の野外研究の展開を追った論考集を組み合わせたDVDブック「フィールド科学のパイオニアたち」が京都大学学術出版会から刊行された」と伝えていた。 そこで思い出したのが、つい先日、NHK TVドキュメンタリー番組でだったかで、京都大学野生動物の生態を研究する霊長類研究所の女性の研究者が、アフリカでチンパンジーの生態を調査するフィールド・ワークに取り組んでいる様子が放映されていた。 どちらかと言えば地味な、そんな番組にチャネルを合わせたまま番組の最後まで見続けたのは、きっと京都大学の今西錦司博士から脈々と続く系譜の流れを感じたからだと、今にして思えば伺え知ることができる。 最近読んだばかりであったこの標題の本、『フォトドキュメント 今西 錦司 −そのパイオニヤ・ワークにせまる−』。 今西錦司の業績を偲ぶ内容の分厚い本。 発行元の名を見ておよそ検討が付く。 上質紙を使って300ページを越し、"フォトドキュメント"とタイトルされるように貴重な画像、図をふんだんに 盛り込んだ内容になって、目次はこうなっている; ・はじめに−−京都大学パイオニア・ワーク−−−−−−−−−長尾 眞 序章 : 一つの時代のおわり−−−−−−−−−−−−−梅棹忠夫 第一章:北山は罪なるかな 第二章:山岳学 第三章:ヒマラヤへの道 第四章:探検 次はどこをやるんだ−−−−−−−−−−−川喜多二郎 第五章:大興安嶺 夜明け前のフィールド・ワーク−−−−吉良竜夫 第六章:ウマ・サル・ヒト 第七章:ヒマラヤ登山 今西学と地球科学−−−−−−−−藤田和夫 第八章:アフリカ 第九章:山岳学から自然学へ 終章 :今西の遺した地図の美学 あとがき−−二十一世紀に引き継がれるパイオニア・ワーク−−瀬戸口烈司 このあとがきの言葉がTVのドキュメンタリー映像に重なる。 下北半島の猿集団の生態調査や宮崎の都井岬の野生馬?の調査、場所はどこだったか定かに覚えていないがモンキー園、モンキー・センターの、そう犬山のモンキー・センターのニュースを見た古いモノクロ映像の記憶が頭のどこかに残っている。 今までに読んだ今西 錦司編「大興安嶺探検(1942年探検報告)」(朝日文庫)や 加藤 泰安著「放浪のあしあと」(創文社)・「森林・草原・氷河」(創文社)や AACKの上田 豊著「残照のヤルンカン(8505m)」(中公新書)や 西岡 京次・里子著「神秘の王国」(学習社)、 岩坪五郎著「K12峰遠征記」(中央公論)、 岩坪玲子著「ヒマラヤ診療旅行」 などの残像が、心の隅に何時もあったからのだろうか、先の目次内容からだけでも多くのことが思い浮かぶ。 「今西美学の最たるものは、地図の赤線や」の最終章の言葉がパイオニア人生を示している。 きっとDVDも素晴らしい内容なのではないだろうか、調べてみよう。 http://www.kyoto-up.or.jp/?lang=jp 約¥4000円か・・・・・。 ヒマラヤ、カラコルムそしてアルプスに関する本を読み続けていると、ますます星野道夫やリチャード・プロネクのアラスカの世界が遠くなってしまうな・・・。 |
|
グレートサミッツ(世界の名峰)「モンブラン」をテレビで見たことは前回触れた。 それならば、と言う事でガストン・レビュファの本のことに触れておこう; 『山歩きに取りつかれた私の学生時代、雑誌[アルプ」が"精神的"なバイブルで、ガストン・レビュファの「雪と岩」が"技術的"なバイブルであった』、と私はホームページの「森からの便り」の中で書いた。 昭和36年(1961)8月5日に新潮社から発行された近藤等訳の豪華本「雪と岩」(Neige et Roc)。 通学する最寄り駅の駅前の本屋に置かれて一際光彩を放っていた。 8時間労働するアルバイトして得られる日給がせいぜい300〜400円の時代、¥1,800円もした、なかなか買うのに躊躇した本だった。この本の置かれた書架の前で幾度も手を伸ばしては思案していた。 思い切って購入してからは、しばらくの間、私にとって教科書より大事な本であった、だから何時も通学時に抱えて歩いていた。 しかし学生時代からの親しい友人はこのブックカバーをした状態で、私が小脇に抱えていた本だったことの方を覚えているのかもしれない。(右の画像) 刺繍を施したこの本のサイズに合わせたブックカバーであった。 参照 http://hoshinokoya.world.coocan.jp/ehon/frame_ehon.htm 丁度その頃、稜線歩き、縦走形式の山歩きから、岩登りの真似事に興味を抱き始め、誘いに乗って追浜の鷹取山や、北八つの稲子岩に通っていた。 勿論この本にはアルプスの景観の写真もふんだんに載せられていたが、この本の中身の画像から判るように、ロッククライミングの画像で示す手引き書の体裁であった。 ホールド、スタンス、三点確保、オポジション、背中と膝でのオポジションでチムニーを登る。食い入るように何度も何度も開いて眺めていた。 また、ピッケル、アイゼンの利用法を学んでは、その高価な道具を購入して悦にいっていた。 アルプスの話になると「エギユウー・ディ・ミディに登りたいわ!」と言うのが、少し年上の私にロッククライミングを手ほどきしてくれた師匠の口癖だった。 『"エギュー・ド・ルミエール"なんてないかしら?』、はっはっは、と笑って言っていた。(彼女の名前は「ルミ江」だった。 岩登りの回数が増えるに連れてガストン・レビュファの本も増えていった。 「天と地の間に」(Entre Terre et Ciel)近藤等訳 新潮社 昭和38(1963)年12月5日発行、 「美しきマッターホルン」近藤等訳 新潮社 昭和42年(1967)4月5日発行、 そして少し前に発行されていた「星と嵐」を手に入れて読んだのは何時頃だったろうか、もう大分前のことで、今その本は手元にないこともあって、良く思い出せない。 そして最後の本は「星にのばされたザイル」近藤等訳 山と渓谷社 昭和51年(1976)5月10日発行で、他の3冊より二周りほど大きいB4サイズ位の大判である。 彼の本はほとんど映画の中の1カットを静止画像にして解説文を与えた体裁の本になっている。 残念ながら私は映画の「星と嵐」・「天と地の間に」・「星にのばされたザイル」を観る機会はなかった。 この5冊の本は、どうしても手放す気にはなれなかった、浪人時代でさえ。 |
|
壮絶! クライマックス・シーンでは思わず席から立ち上がって「アンディ、頑張れ〜!!!」、「クルツ、頑張れ〜!!!」、と叫びたい衝動。 最後は居てもたっても居られなくなり、外へ逃げ出したくなりました。 土曜日の2回目(11:35〜)の上映と、混む事を予測して、ちょっと早めにチケット売り場に行きましたら、ほぼ満席で。 運良くJ列に空きがあって、でもちょっと後ろ過ぎたかな、全席指定だから仕方なし。 前に観た「剱岳 点の記」や「剱岳 撮影の記」では、映画としてのストーリーの他に、自分の知っている山岳景観を楽しむ、って見方もできたけど、この映画はあるにはあるが、主なシーンは風雪の岩壁の中だから、やはりちょっと趣が違う。 蛇足だけど、3列程前の席に見覚えのある顔が、他人の空似だろうか・・・。 でも最後の字幕(キャストやスタッフの名前が流れる)が出ている間に、席を立ったらしく、明るくなった時には居られなくなっていた、多分マウンテン・ゴリラのY氏では・・・、あの短い頭髪で、傷跡もあったから・・・ 丁度、半日時間が空いたので思い切って観て来ちゃいました。 素晴らしかったです! 前のこの映画の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/ogawa819/50168917.html 本「地獄への登攀」の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/ogawa819/folder/1517301.html 2008年に作成され「2008年ドイツ映画祭」で上映されて好評を博した、とあります。 詳しくはこのサイトで http://blog.goo.ne.jp/takbout/e/3dc02e9e47ad088cea9046d0d78124fc |
|
●「地獄への登攀(The climb up to hell)」著者:ジャック・オルセン (発行:三笠書房 1976年5月10日第3刷) この映画を見る前に、アイガー北壁の関連本を少しでも再読しておきたいと思って、幾冊かの本を思い浮かべた。 この北壁を登っている登攀者の著作の中から目ぼしいものをあげれば、但し私が過去に読んだことのある本の中から、ガストン・レビュファの「星と嵐」を始めとする「雪と岩」、「星にのばされたザイル」、「美しきマッターホルン」、「天と地のあいだに」、そしてハラーの「白い蜘蛛」、日本人で最初に攀った高田光政の「北壁の青春」や芳野満彦の「われ北壁に成功せり」や「新編・山靴の音」、今井通子や加藤保男・滝雄兄弟の著作など、そして奥山章の「ザイルを結ぶとき」、長谷川恒男の著作や小西政継の著作を思い浮かべていた。 欧州アルプスに山々を持つ国、スイス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリヤなどがあるが、1938年の初登攀から20年近く、ただイタリア人だけがこのアイガーの北壁を登っていなかった。 それでイタリア人で初めての初登攀者の栄誉を得たいという野望に取り憑かれた男、コルティが無謀にもまだ3000mを経験していないようなロンギという男を相方にこの壁に挑む。 困難な登攀に不可欠な十分なルート準備知識などを持たないまま壁に取り付いて時間を空費している間に、後から取り付いたドイツ人パーティ、ノートドゥルフトとマイアーが3日目のイタリヤ隊に追いついた。このドイツ隊の登攀技術はイタリヤ隊も舌を捲くような素晴らしいものだった。 たまたまアイガー山麓のアルピグレンのキャンプ村に来ていたテレイは、下から見ていて、この二人が 先行パーティをいずれ追い抜いていくものと思っていた。 だが、ことはそうならなかった。 4人の登攀は遅々として進まなく、クライネシャデックのホテル村の望遠鏡から見ている観光客、報道陣、アルピグレンのキャンプ村の人々の間で、遭難を危惧する声が上がり始めた。 そして山岳関係の小さな団体、個人等が個々に救助に動き始め、地元のガイド組合などへ働き始めた、捜索隊、救助隊の派遣を。 しかし長年続く遭難事故、墜落死者、ガイド組合は救助を拒絶。 小さな団体、個人が救助に動き出すが、フランス語、ドイツ語、イタリヤ語の壁、コミニュケーションの問題で行き違いなども生じ最悪の状況に落ち込む。 関係者は怒り狂い、問題沸騰、議論百出、メディアは沸き立つ。 何故、彼らより技術的に優れていたドイツ隊が行方不明(遭難死?)、相方ロンギの宙吊り死が起き、コルティだけがウィンチのケーブルで降りていった救助隊の背に負われて助かったのかの、疑問が、そして宙吊り遭難者遺体の回収問題疑問が、当然の事ながら沸騰した。 複雑に入り組んだ遭難事故・遭難救助問題なのに纏まった記録、記述が無いのに気付いたアメリカの雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」の編集長、ジャック・オルセンが"丹念な取材となまなましい表現"でこの遭難事件の顛末を書き上げている。 * * * 前記事標題の映画のベースになっている事件は1936年の遭難事故、すなわちオーストリア人、エディイ・ライナーとヴィリー・アンゲラー、それにあとから合流した二人のドイツ兵であったアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツの惨事である。 もちろん数多く挑戦者を跳ね除け、夢を葬った、この"アイガーの北壁"の登攀史上に残る惨劇は彼らだけではなかったのは、この北壁の初登攀者の一人であるハインリッヒ・ハラーが著した「白い蜘蛛」に詳しく描かれている。http://blogs.yahoo.co.jp/ogawa819/46628265.html この「白い蜘蛛」は、アイガー北壁に挑戦した者の登攀の歴史を書いたものであるから。 ハラーは、ヒンターシュトイサーが試みた新しいルート、ヒンターシュトイサー・トラバース・ルートを利用して同じドイツのヘック・マイヤー等と1938年この北壁の初登攀に成功。 そして1952年にはフランスのガストン・レビュファ等がヘルマン・ブール等と期せずして登攀の途中で一緒になり、俄かに悪化した天候・風雪の中を大人数のパーティが九死に一生を得る登攀。 私が再読したアイガー北壁の話、「地獄への登攀(The climb up to hell)」は、それから5年後の1957年の遭難事故の顛末なのである。 時代背景を思い浮かべるために、年譜的に見ると: 1936年(S.11):1月 加藤文太郎、厳冬期北鎌尾根で遭難、英国が第六次エベレスト隊(ラトレッジ隊)を送る、立教大隊(堀田隊)がナンダコート(6861m)に初登頂。 1957年(S.32):日本南極隊第一次越冬隊(西堀栄三郎隊長)オングル島に上陸、オーストリア隊へルマン・ブール等がブロード・ピーク(8047m)に登頂、帰路へルマンブールがチョゴリザで遭難死。 私は15歳当事で、高校入学した頃で、初めて中学時代のサッカー仲間と会津磐梯山を登っていた年のようだ。 |


