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「大事なアプリコットが無駄になったらどうしよう…」

 るいが心配そうな視線を糖のにおいがしそうなオレンジ色の冷たい液体に落としていると、その冷たさに身体が冷めていった。研究のことに思考が移り、遺伝子の立体映像が脳裏で回転し始める。
 何故最近の学者どもはロボットばかり作りたがる? 戦争においても甘い研究だ、とるいは思う。

 遺伝子疾患をこの世界から失くすことができるのは間違いなく自分なのに、どうして自分を維持するためには男が必要になるのか。

 遺伝子疾患は自分か、いや子孫を残そうとする自分の遺伝子に疾患がないことを喜ぶべきだろうむしろ子沢山な地域の男こそ貞操観念が高い―中国人はそうらしい。
 淫乱は子供を産ませるのに遺伝子が苦労している訳だまったく忌々しい事実だ。この美大生が一人くらい死ねばいい、などと、視線をちらりと戻す。

 奥座はまだ電話の最中で、るいは忌々しいと思った。
 制服のポケットの中の携帯電話をなぞって確かめ、るいは自室に自然な流れで入りドアの鍵を閉めるとアドレス帳から《兄や》と言う項目を選びメールを打った。
 
 ―今日暇?
  会えない?

「どうせ女か仕事かだろうけど。病院でそこそこカッコイイなんて兄やくらいしかいないってホントかな」

 従兄に向けてのメールは愛情がないため文字も少なく済む。
 まめな従兄は、たとえ女と性交している最中でもるいを優先してメールを返してくれる。あの男のまめさが鬱陶しいとかヒステリックに叫ぶ女の被害を除けば、悪くない男だ。並んで歩くのも退屈だが、二人で丁寧に作った味を味わいシャワーを浴びるだけならなんとも文句のつけようのない従兄である。

「でもねヒラマ、兄やみたいな男は確かに非の打ち所がないんだよ」

 るいはベッドにいる黒猫のぬいぐるみに向かって本音を言う。ぬいぐるみではなくヒラマだ。正式名称はヒラマ・ミキティと言う。現在進行形で奥座より可愛くて信頼出来て愛おしい。
 地震のニュースが流れたときはヒラマと研究データしか心配せず、二十分してから当時付き合っていたと思われる男の着信履歴が三件あるのを確認したものだ。

 両目の上の触覚のようなナイロンの透明な髭をつつき、るいはにこりと笑う。

「そう思うでしょ? 
 まあひーちゃんよかは全然シタだけど、こっちの要求も割合としては多く飲んでくれるし、イイ男だし、お金にも不自由してないし、何より性病と妊娠の恐怖を正しく認識してるし―
 そういえばあの男、恭介って言うんだけど…ほら、朝の男なんだけど、ホントに避妊してるのかな?
 信用ならないね。どうだった? 兄やに相談したほうがイイかな…」
「―悪い」

 ノックとともに奥座のすまなそうな声がドア越しにしたが、るいはヒラマと離れるのが億劫だった。以外にもメールの返信が遅いので返事に躊躇してしまう。るいは甘くなりすぎない程度に語調を整えた。

「なぁに?」
「悪いけど急用が出来たから帰るわ。悪い」
「別に…」丁度メールの返信が来て、るいは眼を輝かせた。メールの内容を確認して上機嫌に顔を輝かせると、「気にしないでいいよ。お互い優先順位はそうそう変えない方針でいればいいじゃない」とのんびりとした口調で言った。

イメージ 1

「それじゃあまた後で。―」

 さらりと言う口許をじっと見ていると自然と表情と造形を注視してしまい不躾だと思ったが、壱真はしばしそうしてしまった。だが不躾な上不自然なので退室の礼は素早く行い、軍部の重鎮と大尉を残して場を辞した。

 重厚な扉が音をたてて閉まると、冷たい漆喰の床から脚を値踏みするようにして顎をしゃくり、同期が言った。

「何ですのん今の」
「いや別に」
「『いまの言葉が嘘です』って、言い方ですわな」

 ねっとりと高めに発音される言葉は二十歳の声音にして大時代だが、気取らず耳に馴染む。
 この同期は少子化と男女平等と戦争の迷惑を被ったとも救われたとも言える日本三大色窟の出身で、一生女郎言葉を話していたに違いない人生を今でも別段疑わず、言葉遣いも上官がいないとこの調子だった。

 かつりかつりと外に向かう道すがら、 

「まあアタシの屋敷にも…もうミサイルで吹っ飛んだそうですけど、とにかく、いましたわ。あんさんみたいなお勤めでな。けどあれはお勤めで、あんさんは無関係と違うかしら」
「さあ」
「まあ昨今じゃ、どこまでが給料なのか判別しませんからね。最近は懐かしい、太平洋戦争みたいな、魚雷でしたかのぅ? ああいうのまたできるらしいけどあんさんもそのクチかしら。生き残って二人で稼ぎませんか」
「聞こえるだろうが」

 ぼそりと囁くと、同期は口許を緩めてこともあろうに軍歌を鼻歌のように歌いながら上機嫌な表情で廊下を歩き始めた。
 傍から見ればおかしな軍国主義者か軍国主義を嘲笑する不良軍人でありこの戦時下でまともな神経とは言いがたい。
 だが壱真が注意した『聞こえるぞ』と言う言葉を聞いてくれる見張りの軍人は一人も立っておらず、監視カメラも真っ黒い画面を晒して眠りこけていた。
 
「明日も終わり、明後日も終わりぃ―」

 戦時下で流行している歌を同期は口ずさむが、それすら誰もいないので虚しいまでに高い天井に反響した。昭和初期に建築され太平洋戦争の空襲でも残った冷たい鉄筋造りの建築は軍服で歩けばまるで映像が変わらないを、壱真は同期の姿で確認した。

 ふざけた歌詞を取り締まる法は残っており人々はそれをおそれているはずなのに、嘲笑するかのような言葉は電波に爪を立てるように、細々と流れて耳に入ってくる。

「なあ佑香」
「わっちはそんな色気のない名前じゃありんせん」
「ああ悪い、白梅鞠」

 さらりと彼女の源氏名でもって本名を訂正し、壱真は死線を投げてわざと呟くような口調で、「おまえと今度会うとしたら地獄かな?」と言った。
 同期は唇を子供のように笑わせ、特に精神の異常もない様子で言う。

「その時はよろしく、朋輩」
「ああよろしく」

 地獄で待ってるさ、と、壱真は地獄で先に待っているであろう人間との昨夜の交わりを思い出した。

鋏3

「何を考えてやがんですか。いやらしい」

 下卑た表情を故意に晒しありまが言うと、その声音からはまったく女らしさがなく男と話しているように錯覚してしまう。ありまは子供じみた外観に言動に中身をしているが、口調ばかりが老獪な老人のようになるときがあるのだ。
 それが生意気でなく耳に馴染むので、葛西は何となく黙って聞いてしまう。

「まったく―私は葛西サンに惚れてるつもりはないですけど、ただ可愛がって欲しいだけなんです。才能がある男に必要とされるのって気分がイイじゃねえですか。それだけです。
 そろそろ縁を切ってくだせぇよ」
「心理学より交渉術を勉強したほうがイイんじゃないか。内容が専門学生とは思えないほど酷いな」

 葛西は鼻で笑い切って捨てるように言い、葛西は少女の毛先がイメージどおりにくるりと丸まっているのを指で弄んだ。鏡の中で視線を外しているにしろ、頸を傾けるようにして俯いているとまるで人形のようだった。

 口は悪いが唇の形はよく、昼間よりずっと少女らしく卑猥だ。友人たちがぎくりとして注視する様を想像して葛西は残忍な笑みを浮かべたが、表情を固くしてすぐにそれを抑え込む。

「ところでありま、彼氏がいないんなら俺が見繕ってやるから適当に遊んでみたらどうだ。
 心理学も少しは役立つんじゃないかね」
「ご心配だったら、素直に受け止めますけど…あたしは基本的に真面目で、一番の女と三番の女が変わらなくて二番の女と男の入れ替わりが激しいような感覚じゃねえんです」
「素直じゃない奴だな」

 笑みを含んだ口調で言い、葛西はふとした思い付きでありまの顎に手をかけて唇を押し付けて見た。ふっと顔を離すと、ありまは忌々しげにしかめた幼い顔をきっと上げてきっちりと言った。

「ダッチワイフにもするつもりですか?」
「悪かったね。洗ってくるといい」実に軽い口調で言うと、ありまもあっけなく表情を戻す。最初からこうなることは判りきっていたようなものだ、と葛西は思う。

「いえ、いいです。それより警察が動いているようですから、あたしの言うことも聞いた道を通ってくださいよ」

 ありまが振り返るようにして葛西を見上げ、完璧な状態の面差しを向けてきた。

「ありまが評価されてると思ってるのはこっちですから」
「たいした自信だが、それはついでだ。おまえの技量なんか俺の生活じゃそうそう役に立ってない。身の程知らずも大概にして大人しくしててくれ」
「判ってますよ。洒落込むなら退散時を知らしてくだせぇね」

 面白げに酷い皮肉の応酬を交わしながら、葛西とありまはくすくすと笑いあった。
 ややあって時刻になったので葛西はタクシーを呼び、ありまを先に行かせてから伊織の携帯に着信を入れた。すぐに着信がかかってきたので素早く通話ボタンを押し、じっとりと笑ってしまう口許で言った。

「やあ、元気か伊織。彼氏とはうまくいってない様子だね?…」
『何で判るんですか?』

 葛西は伊織が自分にだけ向ける不機嫌げで期待するような眼差しをしているだろうことを想像してますます笑いかけた口許を難しく正し、

「これから逢えないか」

 露骨に誘ったが、伊織は本当に素早く「ありまから聞いてお伺いさせてもらいます」とだけ事務的に返してきた。

「拗ねるなよ。俺とありまは何でもないし、俺と君の関係でそんなこと気にする必要もないだろうが。それとも―」
『判りました…』

 携帯の向こうで、観念しているわけでもなく好機を窺うような語調で伊織がぼそぼそと続けた。『今からでいいですか?』

「結構。じゃあ十五分後に」

 葛西は仕事の書類と顧客名簿を広げて電卓を叩こうと珈琲を淹れようとも考えた。だが、七分を過ぎるか過ぎないかでチャイムの音がし、インターホンで確認した視界にすぐさまたたずむ伊織の視線に気づいてドアを開ける操作をした。
 一分もしないうちに到着した来客をドアを開けて出迎えると、久しぶりに見る顔立ちがある、

「随分早いな」

 素直に驚いたまま言ったが、伊織はどこかうつろな眼を返してきた。
 以前葛西が送った黒塗りのブレスレットに向かって右だけ長いピアスを通した痩せた肌は人目を惹き、白いスラックスにスカイブルーのコンバースと言ういでたちも深い鍔の黒い帽子とあわせると彼に似合っていた。
 だがその服装に似合わず、洋服屋の紙袋にはブレザーが入り、持っているのもいかにも男子高校生が持つバックである。
「私だって将来考えてるわ」

 マリイが唐突におかしな台詞を口走ったが、こちらを睨み上げながら笑わないのは彼女が本気の時だと要一郎は知っていた。心理学を学んでいる同窓いわくの言葉を思い出して低く相手の言葉を引き継ぐ。

「将来考えているとは言ってもどういう意味でですか」
「愛人になりたいから」
「…そんなの、今でもしてるんでしょう。既婚者が混ざってるって言うのは公然の話だと聞いていますが」

 要一郎は冗談にもせず突き放すように言った。
 きゅうとマリイは眉をしかめて不機嫌そうな表情になり、「誰が言ってるのよ。今までそんな慰謝料請求されかねないようなあぶない橋、渡ったことないわよ」と愚痴るように言い、

「でも渡るつもりよ。私ってお金ばかりは与えられて育ったから、楽な仕事をして十五万前後の給料を戴くのも、こきつかわれて二十万の給料明細を見て寝てばかりの人生も耐えられないと思うもの」

 理屈は通っているが甘えたことを言う。

「DVされてもお金があればいいんですか」
 当然と『男の一人』と言われると、暴力団のお偉方が拳銃自殺した際に拳銃の名前を平然と読み上げたラジオ放送のように突っ込みどころがある。本来拳銃は日本国では持つと違法であり、男の一人と言うよりは二人以内にして比較級にして欲しいところだ。

 要一郎は自業自得と言う言葉を口に仕掛けるがぐっと飲み込み、喉を引きつらせるようにして淡々とした表情を保った。

「そうですか」
「最初はいつものカモネギ料理だったんだけど予想以上にエゲツナイ男で酷い目に遭ったわ。運が悪いみたい。愛のある拘束でもなくって、もうどうしようもないくらい怖い男なんだもの」
「警察に言いましょう」
「駄目よ。恐喝されたもの。警察に言ったらこんなものでは済まさないって」

 奇妙に落ち着きを取り戻して冷ややかに言うマリイの様子は、敵を分析する表情で諦めている気配はない。彼女は何かしら算段を脳裏で巡らせているらしいと要一郎は思う。
 その幼いまでの大きな瞳にはさっとよぎる怒りがたゆっておりのを見て、変わり身の早さに少々呆れたものの、要一郎は話題を戻すように「やはり警察でしょう」と静かに言った。

「警察に脅されれば大抵はカタがつくんですよ。やくざな連中の敵は警察です」
「そいつの母親が警察関連の娘なんですけれども、それって通用するかしら」
「…誰なんですか、その男。ひょっとして中華街で嫉妬させたがっていたのってその男ではないんですよね?」

 要一郎がいい加減忌々しげな視線になったのを見てもマリイが反省するところはないらしく、くすりと涙の気配が残る眼差しをしならせた。

「その男よ。はっきり言うと今も私を監視してる状態だから、迎えに来ようが通報しようが、まさしく時間の問題だわ。あるいは電話してきて、酷い顔だから化粧を直してから戻って来いって言うかも知れないわね」
「何で縁を切れないんですか―」
「お金だってば」

 要一郎は実に適当な答えを聞いて遠慮なく舌打ちし、

「俺に嘘を吐くなんて何様のつもりですか。俺とマリイさんの関係でそんな薄っぺらいものがあるとは知りませんでしたが、今知れて幸運でしたね。今すぐ出て行ってもらってもいいですか」
「何言うのよ。本当にお金よ」
「貴女がお金に不自由しますか? 父親から裕福な生活をさせてもらって、まだ男から金をもらって。一人くらい縁を切ってももう一人新しいのを用意すれば済む」

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