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イヌイットには独自の言語があります。イヌイット語は現在でもイヌイットの間で一般的に話されています。
イヌイットは西はアラスカから東はグリーンランドにまで広く住んでいて、アラスカとカナダとグリーンランドでは同じイヌイット語といえどもかなりの違いがあります。
熊本弁と名古屋弁と津軽弁、くらいの違いがあると考えてください。たぶん熊本弁と津軽弁で会話をしても同じ日本語の会話とは思えないくらいに分かり合えないでしょう。
それでも元は同じイヌイット語なので、基本的な文法などは同じです。例えば「ありがとう」をアラスカでは「クワナポック」カナダでは「クワナ」グリーンランドでは「コヤナ」と言い、まあ似た感じではあります。
カナダではイヌイットもイヌイット語と共に英語を常用します。イヌイット同士の会話でも両方の言語を使いながら、突然イヌイット語になったり、突然英語に戻ったり、英語の文章の単語だけイヌイット語だったり、といった風に会話をします。
年配の60歳以上の人では英語のできないイヌイットも多くいます。50代以上のイヌイットは、イヌイット語で育って、学校で英語を習い、英語で授業を受けて覚えた人が多いようです。
若年になると、生まれた時から周囲ではイヌイット語と英語が飛び交い、テレビではカナダの番組が放送され、学校でも英語で授業を受けるという風に、生まれた時から英語に慣れています。
英語の使用頻度は若年になるほど高く、最近の若者はイヌイット語よりも英語に慣れています。
これがグリーンランドではまた事情が違い、デンマーク領のグリーンランドではイヌイット語と共にデンマーク語が使用されます。ただ、カナダの英語ほどイヌイットにデンマーク語が浸透しているわけではなく、イヌイットは主にイヌイット語を話します。さらに、今でも狩猟主体の生活をしている小さな村に行くと、完全にイヌイット語のみになります。
2004年に私はグリーンランドにある世界最北の村である、シオラパルクに一カ月滞在していました。シオラパルクは人口70人ほどの小さな村で、イヌイットしか住んでいません。私が訪れた時には、村にひとつある小学校の先生が、デンマークからやってきた白人女性で、彼女はデンマーク語、英語、イヌイット語を話しました。その先生以外の村人は、すべてイヌイット語しか理解しません。
ちなみにひとつ補足をしておくと、実はシオラパルクには一人の日本人が住んでいます。30年以上前からシオラパルクに住む大島育雄さんです。
大島さんは、日本大学山岳部出身で、1978年に植村直己さんが単独での北極点到達を達成した3日前に、日本人初の北極点到達を果たした日本大学隊の隊員でした。つまり、日本初の北極点到達者の一人なのです。
極地の自然に魅せられた大島さんは、この地でイヌイットの女性と結婚し、子供をもうけて完全にイヌイットと同じ暮らしをしています。
私がシオラパルクを訪れた時には大島さんのお宅に泊めていただいたのですが、私が到着した時には狩りに出ていて、その後3週間大島さんとは会えずにいました。家には奥さんのアンナさんがいましたが、もちろんアンナさんはイヌイット語しか話せません。つまり、コミュニケーションを図るには私がイヌイット語を話さないといけないのです。
シオラパルクにおいて英語は全く役に立ちません。会話をしたければイヌイット語を覚えるしかなく、私が到着したその日から始めたのが言葉の勉強です。
カナダではイヌイットはほとんどが英語を話すので、これまでイヌイット語を勉強したことがありませんでした。
私はグリーンランドに来る前に、日本で一冊の本をインターネットの中古書籍で発見して購入していました。タイトルはズバリ「西グリーンランド語入門」です。とある言語学者が作成した、日本語とグリーンランド語、英語の辞典です。一つの単語を三つの言語で表記してあり、かなりマニアックな内容です。果たしてどれほどの力を発揮するか疑問ではありましたが、持参して勉強のパートナーとしました。
私の勉強法は、イヌイットの誰かをつかまえてはまず物の名前を聞く。
「フナウナ?」「これは何?」です。「フナ」が「何」、「ウナ」が「これ」に相当します。まずは身の回りの物の名前を聞きまくって、言われた発音通りにカタカナでノートに書きます。
物の名前があらかた聞き終わると次は動詞です。食べる、歩く、走る、寝る、起きる、等々。ジェスチャーと共に聞きまくります。同時に形容詞も覚えます。寒い、暑い、早い、遅い、白い、黒い、等々。
ここで力を発揮してくれたのが「西グリーンランド語入門」でした。イヌイットに辞典を見せながら、ジェスチャーと共に単語があっているか確認します。
そもそもイヌイットは独自の文字を持っていません。カナダには近年になって作られたイヌイット文字がありますが、グリーンランド語は英語のアルファベットをイヌイットの発音に当てて表記しています。
例えば「見つける」という言葉があったとすると、それをジェスチャーだけで聞こうとするのはかなり無理があります。まるでクイズ番組の問題です。「恥ずかしい」なんて言葉をイヌイット語でなんと言うのか、どこかの劇団員でも異文化の人にジェスチャーで聞くのは無理でしょう。
辞典があると、そこに記載されている言葉を見せて、「見つける」ジェスチャーを簡単にすると、それで合っているか否か判断できるのです。
名詞、動詞、形容詞をノートにびっしり書き、疑問形の表現、数字の数え方、時間の言い方、挨拶の言い方、毎日誰かをつかまえては勉強していました。
「西グリーンランド語入門」には文法の説明もあったので、それを参考に接辞や時制を覚えると、次第に言葉らしきものを言えるようになってきます。
結果的にシオラパルクにいた一ヶ月間で、全く未知の言語であったイヌイット語を簡単な会話は交わせるようになりました。村に一つの商店で買い物をするのにも苦労しなくなるし、イヌイット同士が話している時も、知っている単語が出てきて何を話しているのか察することができるようになりました。
全く未知の言語であっても一ヶ月あれば片言に話せるようになることをこの時発見しました。
イヌイット語講座(グリーンランド北西部)
ありがとう…コヤナ
私…ウワガ
あなた…イッディ
こんにちは…クター
これ…アーウナ
暑い…キヤック
寒い…イッキャンナット
ちょっと待って!…ウッチアゴ!
悪い…アヨッポ
悪くない…アユンギラック
例文「私は既に美味しいアザラシを3回食べた」…「ウワガ プイシ ママガァガ ピンガショリアッショガ ネリィリィップンガ」
イヌイット語はムズカシイ
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