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南極点への出発から、もう一年が経つ。早いなぁ。 それにしても、南極点は簡単だった。方々で言っているが。危険も困難も辛さも想定外も、全てゼロだった。じゃあなんでわざわざ行ったのか?と言えば、北極じゃないもう一つの極地を見たかったから。また、今後南極でもっと面白い計画を考えられる余地があるかを見に行った感じだ。 簡単だった、と言えるのも北極と比較しての話しだ。北極、特に近年の北極海があまりにも凄まじい場所のためだ。 本の原稿のために2014年の北極点無補給単独徒歩の日記を毎日読んでいる。2014年に関しては、何故やめたか?どうやめたか?その時の物理的な状況、物質的な状況、心理状況、行動や判断の優先順位、それらを書こうと思っている。やめる話しだ。 それにしても、2014年の北極点がなぜ撤退するに至ったか?自分の能力的には充分に適応していた。自分としては、あの時に自分に足りていなかったのは、北極海への理解と解釈、だと思っている。 例えて言うなら、ショパンの楽譜をPCのソフトに打ち込んで、楽譜の通りに演奏したら、それは演奏技術は人間よりも高いかもしれない。ピッチもリズムも正確だろうが、コンピュータにはショパンの楽譜への理解も解釈もない。心を打つ演奏は、人間の頭による楽譜への解釈によって産まれるのかなと思う。技術はそれをアシストするためのもの。 あの時の自分には、北極海を歩く技術は充分にあった。だが、無補給単独徒歩で、近年の海氷減少著しい北極海を歩くための、北極海の正体に対する理解と解釈が足りていなかった。2012年の最初の北極点挑戦の時には、17日で撤退して北極海の入口しか体験していなかった。第一楽章の中盤くらいまでしか演奏せず、まだこの先の展開も見えていない状態で、2度目の挑戦を行ったからだ。 こうやって考えてはじめているということは、北極点をまたやりたくなってきているってことかな。恐ろしいのに。 |
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2018年10月07日
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