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野村はこれが最後のチャンスだと思った。相手はうっすらと笑ったが目を野村から離さなかった。ほんの暫らくそんな状態で、野村がその沈黙を破った。酔いは醒めていた。
「おい、刑事さん答えるだけの法律知識を持ち合わせていないのか?反論できる法律的根拠を知らないんだろうなあ。あるんならここに来て反論してみなよ。」
一瞬全員の目が野村の方に向けられたのは間違いなかった。野村が推測したように彼がこの部屋のボスだったのだろう。そのボスに野村は歯を剥いたのだ。野村は無視されてきたのだからそれ以外の戦略はなかった。それが最善の手段だったと思った。野村のプライドを取り返すためには少なくとも無視されることを回避しなければならなかった。プライドは男の最後の砦と常々思い、それが女との大いなる違いだと確信している男だった。
ボスの動きが止まった。やおら机から投げ出した足を下ろした。その時、彼の顔は物事を決断するときの揺るぎのない顔になったのを野村は見逃さなかった。野村は身構えて身を乗り出していた状態から半歩後ろに身を引き両手をカウンターに軽く置きなおした。
椅子から立ち上がり野村の方にゆっくりと歩き始めた。ボスは思いのほか細身で中背だった。どちらかと言えば神経質な部類の人間だなあと直感した。彼は野村が手を伸ばせば届くようなところで立ち止まった。その時完全に皆が野村を見たのが確認できた。
ボスは立ち止まると迷うことなく、そして間髪を入れずに野村に向っていった。
「貴方の言い分は聞いていましたよ。息子さんの取調べには僕も立ち会いましたがなんら問題はありませんなあ。」
落ち着いたもんである。そりゃあそうであろう。ホームグランドで部外者は野村夫婦だけだし、野村は刑法何条何項で逮捕は無効だと言っているのではない。二日前偶然に新聞記事を読んでそれを盾にして反論してるだけなのだ。しかもつい一時間ほど前に事件を知らされて着の身着のまま車を走らせて来たのだから例え本棚に六法全書や刑法の本があったところで調べて来る時間の余裕はない。あったとしても息子の事件とくれば誰だって飛んでくるだろう。例え軽犯罪であっても子供が罪を犯したとなると大抵の親は慌てて気が動転してしまうものだと思う。だが相手は日常茶飯事に事件と対面し逮補して処分しなければならないことを仕事としているんだ。当然のこと、警察官には建前上誤認逮捕は許されない。テレビでは、警察官は単独行動が許されていない。その理由は間違った判断を回避する為に複数人の行動を原則にしているのだろう。
警察官は警察官として署に配属される前には警察学校で民法は別として、憲法や刑法等警察官の職務遂行じょう知識として最低知っていなければならないことは頭に畳み込まれるのだから、警察官以上の法律知識や判例を知らなければ反抗は無理だろう。そんなことは野村は百も承知している。
「刑事さん、じゃあ新聞記事は嘘なんだ。嘘ならば、それがどの法律の何条何項にあるのか教えてくださいよ。連行して調書にサインさせたのだろう。しかも15才を相手に大人が権力をちらつかせて、そいで俺にもう終わったことだから、はい返ってくれだって、横暴じゃないか。それでそうですか、それじゃあ帰りますなんか言える訳がなかろうが。さあ、俺の質問にこたえろよ。」
「貴方もしつこいなあ。酒飲んでんだろ。酔いが醒めてから、明日にでも出直してくるんだなあ。」
「なに言ってんだ。誤魔化すんじゃない。一合二合晩酌したからってお前の言ってること分かってらァ。俺の質問に今答えられないから、今晩勉強して準備する心算だろうが、今答えて貰いたいんだ。そうじないか。息子を連行してきた以上法的根拠があるんだろうが、・・・・・・・・」
野村は諦めない。諦めなければならない理由が彼にはないのだ。
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