|
今日、鎖骨骨折治療最後の日でした。
4時の予約で2時間15分の遅れで最後の治療が終わりました。最近は待ち時間が表示されますので・・・院内の売店で「中央公論」を買って、待ち時間を穴埋め?
一億総クレーマー社会という記事を読みました。読後、僕は自分の中にある「モヤモヤの得体の知れない、認知しきれない心の不安要素」がこの記事の中にあることを自覚しました。
何時も書いてることですが、60年も人生をやっていると大抵のことは経験してきて、何が大事であるか位は分別出来るし、何時は訪れてくる、近い将来の「死」を準備している。決して形而上的なものではありません。また、感傷的でもありません。これは日常茶飯事ではありますが、個人にとっては最終的な一大事です。「死」が個人の全てを葬り去ることに関しては、自分として如何受け止めていけば納得いくのか?つまりは自分の「存在」に関わることでして、しかも相対的な「存在」として・・・自分の『生』を肯定したいのです。
一般的に言えば、生きているうちが花、華・・・死んで花見が出来ない、そうなんだ。
僕は浅学で上手く表現できないが、どうも今のこの日本の有り様可笑しい、僕が若い時代に夢想した日本、人間社会と遊離してきたことに心を傷めている。『こんな社会をつくる為に生きてきた』とはどうしても納得がいかない。こんな社会とは「バラバラなる社会」で「余りに個人的な、我欲が先行した、自己防衛的で非共同的社会」が今日の日本だとしか僕には思えない。
昔が良かった的回顧主義は確かにあるが、それ以上なものが僕の青少年時代に確かにあった。それが何であったのか、団塊世代の一人として今から考えてみたいと思う。
もしも、考えが納得いけば何時か書きとめて公表したいと思う。これからの人たちが生き生きと生きていけるために、僕は何が出来るであろうか?それを考えてみたい。
|