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◎平安時代

平安時代は794年〜1185年という長い時代である。


2015年10月20日の日記で紹介したが、平安時代は君が代が誕生した時代でもある。

君が代に関しては、10月20日の日記を見ていただきたい。

今回は、新羅の入寇と高麗の入寇について取り上げる。





○新羅の入寇(645〜668年、811年〜935年)

新羅は、BC356年〜AD935年の間に朝鮮半島にあった国である。

新羅は、650年〜676年は唐の属国であり、690年頃から日本の属国であり、690年〜900年は渤海の属国である。

新羅は事大主義(小が大に従う事)である。



645年〜668年は、新羅の賊の記録がある。

赤渕神社に伝承する「神社略記」によると、645年に新羅の賊を討伐したとされている。

668年は、新羅人が草薙剣を盗んで逃げようとしたが、海が荒れていた為、戻ってきたという草薙剣盗難事件が発生している。



663年の白村江の戦いでは、百済を助ける為に兵を派遣したが、敗れた。

そこで防衛政策が進められた。

太宰府の北方に水城や大野城、南方に基肄城が築かれた。

九州沿岸に防人が置かれた。



668年に高句麗が滅ぶと、新羅は唐の圧力に危機感を感じて、日本と新羅の間で遣新羅使・遣日本使が送られた。

持統天皇の時代になると、新羅は日本に朝貢して、日本の属国になる。

さらに、新羅は690年から渤海の属国になる。

780年に正規の遣新羅使は停止された。

794年に、平安京に都を移して平安時代が始まる。



811年〜935年では、新羅の賊の記録がある。

811年〜813年の「弘仁の新羅の賊」では、北九州で大きな被害をうけている。



820年の「弘仁新羅の乱」では、朝廷が新羅の流民に口分田と生活費を与えていたが、遠江と駿河の帰化した新羅人が反乱を起こした。

これは、博多に住みついて違法な交易を計画していたが、その事を見透かされて東国に移動させられたことに対して逆恨みした新羅人が起こした乱である。

ただ、朝廷から口分田と生活費をいただいており、恩を仇で返す行為であり、新羅人の行った事は許されない。

新羅人の700人が反乱を起こして、伊豆と駿河は大混乱になり、相模や武蔵などの7国が兵士を動員して、新羅人を撃破した。



このような経緯があり、防衛力を高める必要がある。

新羅の侵略行為の対策として、九州と対馬の防衛を強化した。



869年の「貞観の韓寇」では、新羅の賊が博多に来ていた。

対馬守である小野春風は、多くの賊を討ち取り、新羅と内応していた30人を逮捕して追い払った。

小野春風の功績は大きい。



893年〜894年の「寛平の韓寇」では、新羅が対馬を襲撃した。

新羅の目的は、奴隷と戦利品が目的であり、悪質なものである。

対馬守である文屋善友は、敵をおびき寄せて、弩による射撃戦に圧勝して、多くの賊を討ち取り、新羅の賊を撃退した。

文屋善友の功績は大きい。

日本軍の強さを見せつけた。



906年の「延喜の新羅の賊」では、新羅が攻撃を仕掛けるが、新羅は国内が内乱などで混乱している為、崩壊寸前で力が弱体化しており、最終的には暴風により壊滅した。



その後、新羅は悪政により衰退、935年に高麗に降伏して新羅は滅亡した。








○高麗の入寇(997年〜1281年)

朝鮮半島では、新羅が滅び、高麗に変わる。

高麗は、936年から1392年まで続いた国である。

高麗は、993年から義丹の属国になり、1126年〜1234年は金の属国であり、1259年〜1356年はモンゴルの属国である。



新羅と同様に、高麗も侵略を行う。

997年の「長徳の入寇」では、高麗の賊と南蛮の賊により、対馬・壱岐・筑前・筑後・薩摩が大きな被害を受ける。

大宰府軍は、998年の2月に高麗の賊、同年の9月に南蛮の賊を討伐している。



1019年の「刀伊の入寇」では、壱岐と対馬が大きな被害を受けるが、藤原隆家が九州の武士団を指揮して、撃退した。

この際、日本側に捕らわれていた捕虜3人は、すべて高麗人である。

この高麗人の3人は、「刀伊に捕らえられていた」と言うが、新羅や高麗の賊が何度も九州地方を襲撃していた為、疑問である。



日本軍は圧倒的に強く、何度も新羅と高麗を撃退している。

特に、九州地方は何度も被害に遭うが、日本は守られた。



【高麗の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略?



新羅、高麗、李氏朝鮮は、何度も侵略を行っていた。

日本軍は全て撃退した。

朝鮮半島は中国大陸の属国である期間が長く、事大主義(小が大に従う事)という形で後ろ楯にしており、悪質である。

解りやすく説明すると「虎の威を借る狐」である。

学校教育では、ほとんど触れない部分である。

大化の新羅の賊(645年〜668年)、弘仁の新羅の賊(811年〜813年)、弘仁新羅の乱(820年)、貞観の韓寇(869年)、寛平の韓寇(893年〜894年)、延喜の新羅の賊(906年)、長徳の入寇(997年)、刀伊の入寇(1019年)、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)、応永の外寇(1419年)などである。

文永の役と弘安の役は、元寇の事である。

(元寇に関しては、2015年11月17日の日記に詳しく書いてある。日本軍VS元・高麗連合軍である。)



先人達は日本を救った。

そのおかげで現在の日本がある。

日本を守り抜いた先人達に感謝したい。


○アメブロ

私のアメブロにも記載した。

転載元転載元: 川上孝 スポーツ・歴史・政治blog

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寛平の韓寇
寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。

翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。

寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。

9月5日の朝、45艘でやってきた。

捕虜の証言では新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。

同年9月19日、遣唐使も中止された。

2018/3/21(水) 午後 4:21 [ 元寇を学び日本を護る ]

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浜松市における弘仁新羅の乱

弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。

両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。

帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。

新羅からの帰化人対策に詳しくなった藤原衛は、のちに新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)、新羅人の来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。
朝議の結果、以後は帰化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ、以後の新羅人対策の基本方針になった。

2018/12/30(日) 午後 4:09 [ 安全は大切ですね ]


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