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マタイによる福音書25章31節〜46節 本日の箇所には、終末の審きにおいて、何が基準とされるのかということが、教えられています。その基準とは、「私」、すなわち、審き司であるイエス様に対して、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたかどうか」です。それによって、右(永遠の命、御国の継承)か左(永遠の罰、追放)に分けられるのです。 しかし、右に置かれた人々は、「主よ、いつ私たちは、そんなことをしたでしょうか」と答えています。彼らは、イエス様にした覚えがないのです。それもそのはず。彼らは、直接イエス様にしてはいないのです。彼らがした相手は、イエス様ではなく、「最も小さい者」(飢えている人、喉が渇いている人、余所者、着るもののない人、病気の人、囚人) であったのです。でも、イエス様は、そのことを、自分にしたこととして、受け止めておられるのです。 私たちは、イエス様のために、何をするでしょうか。イエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)と言われます。「主のために」と思ってしていることが、本当に主の御心にかなったこととなっているでしょうか。本日の御言葉を通して、改めて、主の御心がどこにあるのか、私たちは何を求められているのか、考えたいと思います。 (村田悦牧師) |

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